采王黄姑《さいおうこうこ》は入室してきた女に軽く目礼した。国府の門前にひとりの少女が倒れこんでから十日、黄姑はその間に頻繁《ひんぱん》に少女に会い、同時に官に命じ、その主人についても調べさせた。——翠微洞《すいびどう》洞主、梨耀《りよう》。
その梨耀は傲然《ごうぜん》と顔を上げ、ろくに礼もせずにつかつかと大卓に歩みより、勝手に椅子《いす》のひとつに座った。
「——王宮に入るのはしばらくぶりだこと」
一見して老婆《ろうば》の黄姑と、妙齢《みょうれい》の女の梨耀と。しかしながら実際に生きてきた年月は梨耀のほうが倍以上長い。
「……懐《なつ》かしい。ここは少しも変わらないねえ」
「翠微君の洞府にいる、鈴《すず》という娘を保護しました」
梨耀はにっこりと笑ってみせる。
「それは、お礼を申しあげる。役立たずの下僕《しもべ》じゃが、あれもいちおうわたしの身内ゆえ」
黄姑は溜め息をついた。
「あれがなにか申しあげましたかえ? 采王はそれを信じたとか? 主《あるじ》は下僕には煙たいもの。それを正面からお聞きになってはいけませんわねえ」
「鈴は翠微君に殺されると訴えておりますよ」
まさか、と梨耀は笑う。
「わざわざ殺してやるまでもない。目障《めざわ》りならば洞府から叩《たた》き出してしまえば済むこと。実際わたしは何度叩き出してやろうと思ったかしれない。けれどあれがねえ、伏してやめてくれと言うものだから」
「この寒中に甘蕈《かんきん》を採《と》れと深夜に出されたとか」
「わたしは温情ある主人だから」
梨耀はさらに笑ってみせた。
「あの小娘は、わたしの主上から拝領した壺《つぼ》を割ったんだ。それだけで許してやったわたしを誉《ほ》めていただきたいもの」
黄姑は眉《まゆ》を寄せた。梨耀が言う主上とは、先々代の王、扶王《ふおう》だろう。実際、梨耀は扶王の愛妾《あいしょう》だった。
「……赤虎《せっこ》をけしかけた、とも」
梨耀は肩をすくめる。
「恐ろしいことを言ってくれる。あれがそう申しましたかえ? ——夜中の崖《がけ》では危なかろう。それで赤虎を万一のことがないよう、遣《つか》わしただけ」
「ずいぶんと下僕に辛《しも》く当たられるとか」
「承知で下僕でいるのだもの、他人からつべこべ言われるすじあいなどありゃしない。わたしが不満なら逃げればいい。簡単なことだわねえ」
「逃げたくても逃げられない者もおりましょうに」
ふ、と梨耀は嘲《あざけ》る色の笑みをはく。
「仙籍を削除されると言葉が通じない? それが辛いから? ただの人に戻るより、わたしを我慢したほうがましだと思うから残っているのだろう。本当に我慢ならないぐらい嫌《いや》だったら、とめたって出ていく。そういうものではございませんかえ?」
「鈴は海客《かいきゃく》でございますよ。言葉が通じなければ、それは辛いでしょう」
梨耀は黄姑をばかにしたように見上げて、小さく声をあげて笑った。
「同じ言葉を喋《しゃべ》っていても、言葉が通じるとは限らない」
梨耀の言わんとしているところを悟《さと》り、黄姑は溜め息を落とした。
「なぜそのように振る舞われる。仮にも翠微君ともあろうお方が」
梨耀は扶王の後宮《こうきゅう》にあって、よく王を助けた。奸臣《かんしん》が王の柔和につけいり、専横をほしいままにすればこれを王に替わって咎《とが》めて憎《にく》まれ、王が道を失い始めれば王を叱《しか》って疎《うと》まれた。その結果が翠微洞。逆臣には敵視されていたが、仙籍を剥奪《はくだつ》することも処罰《しょばつ》することもできなかった。あまりに功が大きかったゆえに。梨耀を遠ざけてのち、扶王の玉座《ぎょくざ》は急速に傾いた。
「……なぜそれほど頑《かたく》なにおなりか。梨耀さまがそれでは、わたくしは梨耀さまを処罰せねばなりません」
「王が飛仙の面目に口を出すかえ」
「王にはその権限があるのですよ。誰も使わないだけのこと」
梨耀は不敵に笑んで立ち上がった。
「では、好きにおし」