湿った雲海の風が潮のにおいとともに吹きこむ。
「……よくもあれだけ、するすると出る……」
我ながら苦笑を禁じえない。冢宰を降格し、冢宰派、反冢宰派の要人を実権のない三公に押し上げる。これで宮中の権の図版はほとんど白紙に戻っただろう。きっとおそらく、どこかでそれをずっと考えてきた。だからとっさに口を突いて出たのだ。
「——主上」
景麒の厳しい声がした。陽子は振り返り、これ以上ないほど渋い顔をした景麒を見返す。
「なんということをなさるのです。宰輔には実権を与えないのが定めです。それを——」
景麒、と陽子はその言葉を遮《さえぎ》った。
「わたしは、関弓《かんきゅう》へ行く。延王《えんおう》の許《もと》でしばらく政《まつりごと》について学ぶ」
景麒は目を見開いた。
「なにをおっしゃいます!」
「——そう、諸官には言っておいてくれ」
陽子は窓枠に腰をおろす。軽く膝《ひざ》の上で指を組んだ。
「わたしはしばらく街で暮らしてみようと思う」
「いったい——」
陽子は自分の爪《つめ》を見つめた。下官が手入れしてくれるから、それは綺麗《きれい》に磨《みが》かれている。贅沢《ぜいたく》な衣装、贅沢な飾り、——だが、そんなものがほしかったわけではない。
「わたしは玉座《ぎょくざ》がほしかったわけじゃない」
「主上!」
「王と呼ばれたかったわけでも、王宮で贅沢《ぜいたく》な暮らしをしたかったわけでもない。王がいなければ国は荒れると聞いた。天意は民意だと言われた。夜に眠る家がなければ苦しい。飢《う》えることは辛《つら》い。わたしは身にしみてそれを知っている」
突然、連れてこられた異界。右も左も分からない中で、陽子は実際、野垂《のた》れ死《じ》にしかけた。
「妖魔《ようま》に追われれば辛い。……わたしが玉座に就《つ》かなければ、慶《けい》の民の誰もが同じ目に遭《あ》うのだと聞いたから、玉座を受け入れた。王とはそのためにあるはずだ。少なくとも官を満足させるためにいるのでも、景麒を喜ばせるためにいるのでもない。民を満足させるため、喜ばせるためにいるのじゃないのか」
「……ですから」
陽子は首を振る。
「景麒。……わたしにはこの国のことが分からない」
「主上、それは」
「民がなにを考えているのか、なにを望んでいるのか、どんなふうに暮らしているのかさっぱり分からない」
「まず、道を知っていることが重要なのですよ」
「——道?」
陽子は軽く笑う。
「授業は週六日、必須《ひっす》クラブがあって塾《じゅく》に行って、さらにはピアノを習ったりお稽古《けいこ》ごと。定期テストは最低でも一学期に二回、その他にも模試があって偏差値で将来が決められる。赤点が幾つかで留年、入試に合格できなきゃ浪人《ろうにん》。スカート丈《たけ》は膝《ひざ》まで、リボンは紺か黒。ストッキングは肌色《はだいろ》か黒。——そういう子供の幸せがなんだか分かるか?」
「……は?」
「そういう社会での仁道《じんどう》とはなんだ?」
「失礼ですが——その——」
「分からないだろう?」
陽子は苦笑する。
「景麒が分からないように、わたしにも分からない。いったい、なにが道なんだろう。少なくとも諸官の顔色を窺《うかが》って、誰の意見を重用《ちょうよう》するか退《しりぞ》けるか、それに苦労することじゃない。それだけが分かっている」
「ですが……」
「少し、時間をくれないか。ここはあまりに、わたしの知る世界とは違っているんだ」
景麒は困り果てたような表情をしていた。
「わたしはいま、玉座にいることが苦しい」
陽子の言葉に、景麒は軽く目を見開く。
「わたしは蓬莱《ほうらい》で人に嫌われることが怖かった。始終ひとの顔色を窺って、誰の気にも入るよう、無理な綱渡《つなわた》りをしていたんだ。——今とどう違う? 愚王《ぐおう》と呼ばれることが怖い。溜め息をつかれることが怖い。諸官の、民の、景麒の顔色を窺って、誰からもうなずいてもらえるよう、無理をしている」
「主上……」
「同じ愚は犯したくない。だけども、わたしは同じ所に踏みこもうとしている。いまこの時期、王宮からいなくなることがどういうことなのか、分かってる。官だって不満に思うだろう。これだから女王はと、また溜め息をつくだろうな」
陽子は軽く笑う。
「みすみす国を荒らすことになるのかも。……でも、このまま官の顔色を窺って右往左往しているだけの王なら、さっさと斃《たお》れてしまったほうがいい。そのほうがよほど民のためだ。……このままではいけないんだ、分かってくれないか」
見やった景麒は表情のないまま沈黙し、やがてうなずいた。
「——はい」
「しばらくの間、景麒に全権を移譲する。景麒ならば、おさおさ民を虐《しいた》げるようなまねをすることだけはないだろう。どうしてもわたしでならないことがあれば、この世で最も速いというその脚で駆《か》けてきてくれ。——景麒、頼む」
「……かしこまりました」
一礼した景麒を見つめて、陽子はやっと安堵《あんど》の息を吐《は》いた。
「ありがとう。……景麒に分かってもらえて嬉《うれ》しい」
陽子にはこの下僕《しもべ》しかいないのだ。雁《えん》には王を支える官吏《かんり》がいる。延王《えんおう》はけっこう無軌道《むきどう》な王だし、官吏の誰もが王の所行に溜め息をつくが、それでもそこには王に対する信頼があり、王のほうにも官に対する信頼がある。陽子には信頼することのできる者が景麒しかいない。この王宮の中で、本当にこの麒麟《きりん》だけなのだ。
「それで、主上はこれからどうなさるおつもりですか?」
「少し街へ降りてみようと思っている。日銭《ひぜに》仕事でもなんでもいいから、民にまじって働いてみたい」
「もしもよろしければ、わたしに逗留先《とうりゅうさき》の手配をさせていただけませんか」
陽子は首をかしげた。
「しかし……」
「まさか浮民《ふみん》のように暮らすおつもりではないでしょうね? どうか、これだけは。わたしにも安心できる場所においでになってください」
「……分かった。景麒に任せる」
景麒もまた安堵《あんど》したように息をついた。
「わがままを言ってすまないな」
陽子が言うと、景麒は薄く苦笑する。
「……実を申しあげれば、少し安堵しています」
「そうか……」
「ですがどうか、一日も早くお戻りくださいますよう」
「うん。分かっている」