祥瓊《しょうけい》は恵州師《けいしゅうし》の空行騎兵、十人ほどに送られ、恭へと向かいながらあらためて自国を思った。恭と芳の間にはもちろん航路が開かれていたが、これを使えば対岸まではほぼ三昼夜かかる。虚海の中に浮かぶ芳はそれ自体が、冬の里《まち》のように閉塞《へいそく》した国なのだと、はじめて思った。
飛行する妖獣《ようじゅう》の種類は限られる。人が騎乗するためにはやはり馬形の妖《あやかし》のほうが都合がいいので殊に種が限定された。おもに使われるのは縞《しま》のある鹿蜀《ろくしょく》という妖獣である。空行する妖獣は車を引くことができなかった。必ずその背に騎乗していなくてはならない。それで州師の鹿蜀を借り受ける形で、祥瓊は兵に囲まれて恭を目指す。造作もない旅だった。途中、芳の岸辺と恭の岸辺の街で宿をとり、三日後には恭国首都|連檣《れんしょう》にある霜楓宮《そうふうきゅう》にたどり着いたのだった。
霜楓宮の主《あるじ》、恭国|供王《きょうおう》は在位九十年に及ぶ女王だった。祥瓊もそれ以上のことは知らない。芳はどの国ともほとんど国交を持たなかった。祥瓊の父|仲韃《ちゅうたつ》の即位式にも間近の三国、柳《りゅう》、恭、範《はん》から勅使《ちょくし》が慶賀にきたばかり、そもそも、王は他国の王とはあまり交渉を持たないものなのである。
国府を訪ねた祥瓊ら一行は、官に案内され、霜楓宮の外殿《がいでん》へと通された。ひとつ門をくぐるたびにいっそう華やかになる建物を、祥瓊はせつなく見渡す。
——気後《きおく》れすることなんかない。
祥瓊だって王宮に住んでいたのだから。そう言い聞かせても、身が竦《すく》む。ひとつにはそこが他国の王宮だからであり、いまひとつには自分があいかわらず貧しい身なりをしているからだった。
拱手《えしゃく》して客に道を譲る官の誰もが、祥瓊を不審そうに見た。きっと下町の花子《ものごい》が迷いこんだように見えるだろう、と祥瓊はうつむいた。
いや、と磨きこまれた黒御影《くろみかげ》の廊下《ろうか》を歩きながら祥瓊はさらにうなだれる。
恭の花子よりも、惨《みじ》めな格好をしているかもしれない。恭は芳よりも豊かなのだ。首都連檣の様子を見ればそれが分かる。整備された美しい街。芳の首都|蒲蘇《ほそ》など田舎《いなか》町に見えるほど。
外殿に入れば、自分が惨めで顔を上げることもできなかった。同行した使者がちらりと祥瓊を見やってからひざまずき、そのまま前に進んで叩頭《こうしゅ》した。祥瓊も使者の視線を心得てそれにならった。ぬかずいた自分の姿がさらに祥瓊を暗澹《あんたん》たる気分にさせる。本来なら叩頭する必要などはないのだ。跪拝《ひざまずく》だけでいい。祥瓊は公主なのだから。
使者は丁寧《ていねい》に恵侯月渓《けいこうげっけい》からの奉書をかざして挨拶《あいさつ》を述べる。
「公主の身柄をお引き受けくださるとのこと、供王のご厚情に恵侯および臣下一同、伏してお礼申しあげます」
くすり、と軽く笑う声がした。——供王の声だ、と祥瓊は息を詰《つ》めた。
「たいしたことじゃないわ。お隣なのですもの」
祥瓊は目を見開いて床《ゆか》を見つめた。どこか幼い若い女の——声。
「それより、お国のご様子はいかが?」
「おかげさまで、とりあえずつつがなく」
言って使者はさらに深く叩頭する。
「天命あって玉座《ぎょくざ》におられます供王には、恵侯はいかにもご不快かと。それは重々承知しておりますが、このたびのご厚情、まことに感謝の言葉もございません」
幼い響きさえある声が、鈴《すず》を転《ころ》がすように笑う。
「よく決断なされた、と恵侯にお伝えなさい。王は自ら滅びるもの。罰をおそれ小舟や板切れにまですがって虚海を越えて恭へ来る民もいましたもの。民はやっと安堵《あんど》の息をついているでしょう」
祥瓊はとっさに顔を上げそうになり、かろうじてそれを耐えた。
——娘がいる目の前でそれを言うか。
許されずに顔を上げれば非礼になる。それだけでなく、祥瓊は供王を見たくなかった。声からするにおそらくは若い娘、もしも自分と同じ年頃だったりしたら。その少女が絹に包まれ、玉で身を飾って玉座に就《つ》いているのは見たくない。
「……それで? そちらが孫昭《そんしょう》ですね?」
姓名を呼ばれ、祥瓊は唇《くちびる》を噛《か》む。これだけで供王が充分祥瓊に含《ふく》みあることが分かろうというものだ。
「さようでございます」
「孫昭の身柄は確かにあたくしが預かりました。このままよしなにいたしましょう。芳の民も官も、孫昭のことはお忘れなさい」
は、と使者は額を床《ゆか》につける。
「斃《たお》れた王のことは忘れて、国土のために働いてこの罪を贖《あがな》うよう、恵侯にお伝えなさい。王のない国はそれは信じがたい勢いで沈むもの。それを救う一柱になるのですよ」
「たしかに承りました」
「恵侯はまだ州城においでとか。思い切って玉座に就いてごらんなさい。次王が登極《とうきょく》なさるまで、玉座を預かったとみなして民のために働かれるのがよろしいでしょう。——あとでこれを書状にしたためてさしあげましょう。不満を言う者があれば、供王が玉座を勧《すす》めたのだとおっしゃい」
そんな、と祥瓊は顔を上げた。こらえることができなかった。
「月渓《げっけい》は簒奪者《さんだつしゃ》だわ! 弑逆者《しいぎゃくしゃ》なのに!」
玉座の王と視線が合った。年の頃は十二かそこら。あどけない風情の少女だった。背後に控えたのは男、赤銅に近い金の髪。ではあれが供麒《きょうき》だろう。
「王は自ら斃れるもの」
その少女は珊瑚《さんご》の色の唇《くちびる》でぴしゃりと言い放つ。
「自身の犯した罪以外に、王を弑《しい》すことのできるものはない」
言って、少女は使者を見やった。
「——さあ、一刻も早く芳に戻って、恵侯を助けてさしあげなさい」
深く叩頭《こうとう》し、感極まったように使者が礼を述べて退出していき、祥瓊はその場にただひとりで残された。平伏することも忘れて、じっと玉座の供王を見上げる。
「戸籍を与えられて市井《しせい》に降りることと、王宮の奚《げじょ》になることと、どちらを選ぶ?」
問われて祥瓊は頬《ほお》に朱を昇らせた。奚は王宮で働く下僕《そもべ》、下官ですらなく、仙籍にものせてもらえない婢《はしため》のことだった。この小娘は言うのだ、公主の自分に、その奚になれ、と。
その祥瓊の顔色を察したのか、少女はくすりと笑う。
「矜持《きょうじ》だけは高いとみえる。……あたくしは恵侯ほど情け深くはないの。戸籍を得て里家《りけ》に送られるか、奚になるか、どちらかを選んで。成年までは里家に置いてあげるけれども、あなたは恭の国民じゃないから成年になっても土地はあげない。里家を出たらどこかに雇《やと》ってもらいなさい。——どちらがいい?」
「ひどい……」
「あたくし、あなたが嫌いなの」
少女はにっこりと笑う。
「あなたの身柄を引き受けたのは、あなたが芳にいては国のためにならないから。決してあなたに対する慈悲ではないことを、覚えておいて。——どちらにするの?」
——こんな小娘に使われるぐらいなら。
祥瓊は思ったが、その感情を記憶が押さえこんだ。土にまみれる生活、足腰立たないほどの労働、すきま風の吹く家、——芳で経験した一切のことが、祥瓊をなだめる。
「……奚になります……」
そう、と少女はつぶやいて微笑《ほほえ》む。
「——では、王の前では叩頭《こうとう》すること、決して顔を上げないこと、なにかを訊《き》かれるまでは決して口を開かないことを、まず学びなさい」