内殿《ないでん》に戻るなり、背後の下僕《しもべ》が口を開いて、供王|珠晶《しゅしょう》は振り返った。
「なあに?」
金色の髪をした下僕は困惑した表情を浮かべていた。
「公主へのなされようは、あまりに……」
「ばかね」
珠晶は言い捨てる。
「祥瓊を哀れむ前に、祥瓊を憎《にく》まずにいられない芳の民を哀れみなさい。——本当に麒麟《きりん》って、哀れみに鼻面を引き回されて、すぐに本末を転倒するんだから」
「しかし」
珠晶は笑って、はるかに高い位置にある供麒《きょうき》の顔をのぞきこんだ。麒麟はおおむねすらりとした人型を持つが、恭の麒麟はがっしりとした体格をしている。
「あ、た、しが、決めたの。——分かった?」
「けれど、民に慈悲を施すことが王のつとめでございましょう」
困ったように供麒が言うのを、珠晶は鼻先で笑ってみせた。
「あたしは王になったけど、聖人君子になったつもりなんかないわ。そんなの御免だもの。——そして、あなたはあたしの下僕なの。そうでしょ?」
「そうですが……」
「だったらつべこべ言わないの。——祥瓊の件に関しては聞く耳なんか持たないわ。国を治めるのって本当に大変なんだから。それをさぼって遊んで暮らして、父親をたしなめる分別も持てなかった愚者を哀れむ慈悲なんて持ち合わせがないの。麒麟とは違ってね」
供麒はさらに困ったようにする。大きな男がしゅんとうなだれた。
「しかし……恵侯にまるで簒奪《さんだつ》を勧《すす》めるようなおっしゃりようも——」
「勧めたのよ」
珠晶は椅子《いす》にすとんと腰をおろす。
「恵侯は王を討《う》ったのだから、国を治めてもらわないと。自分が王だ、ぐらいの気概は持ってほしいわよね」
「王は天が決めるものです。それを主上が簒奪をお勧めになるとは。そんなことをなさって、もしもそのせいで芳が荒れれば——」
珠晶は頬杖《ほおづえ》をついて溜め息を吐《は》いた。
「あたしが困るのよ。芳から荒民《なんみん》が流れてきて」
「荒民の苦難をまずお考えください」
珠晶は供麒に指をつきつける。
「あんたって本当にばかね。その頭の中には哀れみ以外の分別は入ってないわけ? ——芳は荒れるわ。恵侯には責任をとって、なんとか国を支えてもらわないと。だって芳には麒麟がいないんですもの」
供麒はあわてたように、周囲を見回した。
「——主上——」
「誰もいないわよ。——まさか使者にそれを言うわけにはいかないでしょ? 蓬山《ほうざん》には麒麟がいない。新王が登極《とうきょく》するまで、想像以上の年月がかかる、なんて。そんなことを知ったら、民は絶望して国をみすみす傾けてしまうわ」
次王を選定するはずの芳の麒麟は蓬山にいない。その理由は珠晶も知らなかった。蓬山の女仙《にょせん》は神の下僕《しもべ》、蓬山は諸王不可侵の山、起こった変事がいちいち報告されるいわれもない。三年前、恭から芳へと変異が駆《か》け抜けていった。——蝕《しょく》である。ひょっとしたらこれが起こったのは五山《ござん》からではなかったか、まさか蓬山に異変はなかっただろうかと見舞いをさしむけると、蓬山のどの宮も閉ざされていた、という。麒麟のために開けられている様子がなかったのだ。
峯麒《ほうき》は——牡《おす》だと聞いた——健やかにお育ちですか、と問わせれば、曖昧《あいまい》な返事しか返ってこない。さらに調べて確信を抱いた。蓬山には麒麟がいない。
珠晶は息を吐《は》く。
「恵侯にやってもらうしかないじゃない。ものの道理は分かった男だわ。芳に麒麟が現れ、王を選ぶのはいつのことか分からないのだもの。——だから、そそのかしたのよ。文句がある?」
「主上———」
珠晶は足をぶらぶらと揺する。鞜《くつ》が脱げて飛んでいった。
「この事態を招いたのは仲韃《ちゅうたつ》だわ。仲韃自身と、その周囲にいて王を諫《いさ》めることができなかったぼんくらたちのせいよ。だから、祥瓊は嫌い。——それがそのお涙でいっぱいの水樽《みずだる》みたいな頭にも理解できたら、鞜を拾ってきて履《は》かせてちょうだい」