蘭玉《らんぎょく》の声は朝の空気に白く流れた。
慶東国《けいとうこく》瑛州北韋郷固継《えいしゅうほくいごうこけい》。北韋郷は首都|堯天《ぎょうてん》を中心におく瑛州の北西に位置する。堯天から東西へ伸び、虚海《きょかい》、青海《せいかい》へと向かう街道のちょうど分岐点にあるために、北韋郷の郷城が置かれる固継は古くから都市として栄えた。ために通称を北韋ともいう。
街は本来、必ず里《まち》を中核に作られる。ここ固継も例外ではない。
しかしながら、里に付随する街のほうが長い年月の間に肥大し、固継の里はこの街道の要所を占める街から追い出されてしまった。結果として大きな街の北東に小さな里が瘤《こぶ》のように付属する格好になっていた。門闕《もん》の扁額《へんがく》は「固継」、だが誰もこの街を固継とは呼ばない。街の名は北韋、付属する小さな里を固継と呼ぶ。
蘭玉はその固継の片隅、ひっそりとした一郭にある井戸から桶《おけ》に水を汲《く》み上げながら、くるりとあたりを見回した。高い隔壁《へい》ごしに冬枯れた山が見える。落葉したあとの梢《こずえ》に霜《しも》がついてうっすらと白い。雪でも降りそうな雲行きだった。
「降るかなあ」
つぶやいて裏口から家の中に入る。家は里家《りけ》である。蘭玉には親がない。それで里家の世話になっている。
「早いな、蘭玉」
蘭玉が厨房《だいどころ》に入ると、土間《どま》で火鉢《ひばち》に炭を入れていた老爺《ろうや》が顔を上げた。この老爺がこの里家の長、閭胥《ちょうろう》の遠甫《えんほ》だった。
「おはようございます」
「年寄りより早起きとは、奇特な子じゃな。一度くらい儂《わし》が準備万端整えて、起こしに行ってやろうと思うが、かなったことがない」
くすくすと笑いながら、蘭玉は桶の水を甕《かめ》に空《あ》ける。蘭玉はこの閭胥が好きだった。老齢の宏命が蘭玉よりも早起きでないはずがない。自分が早く起きれば、里家の子供たちが早く起きようと気を遣《つか》うから、いつまでも寝床の中にいるだけだと、蘭玉は知っている。
「雪が降りそう」
「そりゃあ、水が冷たかったろう。こっちに来て火に当たるといい」
大丈夫、と笑って蘭玉は竃《かまど》にかけた大鍋の蓋《ふた》をとる。暖かな湯気が土間に満ちた。遠甫は小さな火鉢をひとつ、水場の足元に置いてくれる。朝餉《あさげ》の用意をする蘭玉を気遣ってくれたのだ。くず野菜とくず肉を煮た汁の中に、練《ね》った小麦をちぎって落とす。
「今日、新しい子が来るんですよね」
蘭玉が振り返ると遠甫はうなずいた。里家を頼って来る者がいるという。
「朝ご飯はいらないのかしら」
「なに、到着はどうせ昼過ぎか夕刻じゃろう」
「そうね」
街を出たときにいた閭胥は癇《かん》の強い老婆《ろうば》だったが、戻ってみると彼女が死んで閭胥が代わっていた。遠甫はもともと里《まち》の人間ではない。見知らぬ老人が閭胥だと聞いて不安に思ったけれども、蘭玉はいまでは感謝している。
「おはよっ」
桂桂《けいけい》が土間に飛びこんできた。
「おお、桂桂も早いな」
「寒くて目が覚《さ》めちゃった」
ぱたぱたと足踏みをするのを笑って、蘭玉は弟のために桶に水を張ってやる。そこに遠甫が炭火で焼いた石を入れる。ちゅん、と小さな音は、冬の音だ。
「ちゃんと、顔を洗ってね。水は外にこぼすのよ」
うん、とうなずいて桶に顔を突っこむ桂桂を蘭玉は笑って見守った。里家には他に三人の子供がいるが、彼らの朝は遅い。遠甫が叱《しか》らないのをいいことに、いつまでも寝ている。三人はずっと以前から里家で暮らしていた子供たちだった。前の閭胥が厳しかったから遠甫に甘えているのだろう。それを分かっているのか、遠甫も寝たいだけ寝させておきなさい、と言う。
「すごーい、寒いね」
桂桂は裏口の戸を開けて水をこぼしながら、白い息を吐《は》いた。
「去年に比べればましでしょ? 雪も少ないし」
新王|登極《とうきょく》から半年が過ぎた。古老の言うとおり、災害はぴったりとやんだ。去年は慶《けい》にはめずらしく大雪が降って、降りこめられた里《まち》が死に絶えたりしたものだった。
「ぼく、雪は降ったほうがいいな」
暖房といえば火鉢《ひばち》が主、本当に寒い日には竃《かまど》に大鍋をかけて湯を沸《わ》かし、その前に大勢の人々が集まって湯気と人いきれで暖をとる。豊かな家には暖炉があったりするし、さらに豊かな家ではその暖気を壁の間や床下《ゆかした》に通して房間《へや》自体を暖める燗《かん》という施設があったりするが、慶ではそんな豊かな家は少ない。
窓にしても、玻璃《はり》の入っている家はごくわずかだった。板戸のついた窓の内側に紙を張る。それでかろうじて陽光を入れ、風が吹きこむのを防ぐのだ。綿《わた》は貴重品だから、衾褥《ふとん》には綿が入っていない。秋に溜《た》めこんだ藁《わら》がほとんどで、着るものだって毛皮はほとんど手に入らない。火鉢に埋《い》ける炭もまた安くはないから、家の中はいつだって寒かった。
慶より北の国々はもっとずっと寒いのだが、慶は貧しいので寒さに備える術《すべ》がない。それで慶の北方では冬は辛《つら》い。
それでも蘭玉《らんぎょく》は冬が好きだった。蘭玉だけでなく、里家の子供たちはみんな冬が好きだ。人々はふつう、春から秋には近郊の廬《むら》に出てしまうから、里はいつも閑散としている。里家の者と里府《りふ》の役人だけが残されてしまうのだ。冬には廬に住まう人々が里に戻ってきて、大勢で集まって糸を繰ったり籠《かご》を編んだりする。それが嬉《うれ》しいから冬がいい。
蘭玉は大鍋の蓋《ふた》をあけた。
「桂桂、みんなを起こしてきて。ご飯にしましょ」