蘭玉《らんぎょく》はその北韋の街の外にある小さな墓所で手を合わせた。里家《りけ》で死んだ子供たち。親を亡くして里家に保護され、そのあげくに自らも妖魔に殺された。彼らの苦しみ、恐怖を思うと、半月が経《た》ったいまもせつない。
墓所の入り口で待たせておいた山羊《やぎ》を連れて、蘭玉は里《まち》へ帰る。昼の間、街の側《そば》の閑地《かんち》で放しておいたのを、小屋に連れ帰るところだった。蘭玉が住む固継の里は北韋の街に付属している。ちょうど蘭玉の歩く方向から見ると、北韋の街に固継の里が瘤《こぶ》のように付いているのがよく分かった。蘭玉はそのありさまに少しだけもの寂しい気分を感じながら、冷たい風の中を山羊を引いて歩く。固継の里閭《もん》から街に入って、里家へと戻った。
里家の裏手にまわって畜舎《ちくしゃ》に戻ると、ちょうど桂桂《けいけい》が夕仕事のために里家の裏口から駆《か》け出してきたところだった。その隣に陽子の姿が見える。
「おかえり」
桂桂の高い声はよく通る。陽子はただ軽く会釈《えしゃく》するようにした。蘭玉も軽く笑んで答え、変わったひとだわ、と思う。海客《かいきゃく》だと言っていた。そのせいだろうか。遠甫《えんほ》は里家の新しい子供だと言ったが、実際には陽子は遠甫の客分だった。
里はふつう、里宰《りさい》と閭胥《ちょうろう》によって運営される。里府《りふ》を司《つかさど》るのが里宰、それを助ける相談役が閭胥である。閭胥は必ずその里の最長老で、里宰が里祠《りし》の祭主を兼ねるように、小学の教師と里家の主《あるじ》を兼ねる。だが、遠甫は固継の者ではない。蘭玉が訊《き》いてみると、慶国《けいこく》の西、麦州《ばくしゅう》の出身だと言っていた。だが、ふつう里宰も閭胥も、その里の者が着任するものである。
——よく考えると、遠甫って不思議。
蘭玉はそう思う。どういういきさつで閭胥になったのかは知らない。里宰など、遠甫に対してははるかに目上の者のようにして接する。遠甫には客も多かった。どこか遠くから何日もの旅をして、客人が来ては里家に逗留《とうりゅう》して遠甫と語らっていく。その客人がどういう人物で、なぜ遠甫を訪ねてくるのかは知らない。蘭玉が訊《き》いてみても、教えてはもらえなかった。ただ、客の誰もに遠甫が非常に尊敬されていることだけは知っている。彼らは遠甫に教えを乞《こ》うために訪れるのだ。そういった客人は必ず里家の奥にある客人のための堂屋《むね》に逗留する。
里家はふつう、四つの建物からなる。ひとつが里家で、ここには孤児や老人が住む。ひとつは里会《りかい》と呼ばれる部分で、ここには里《まち》の人々が集まる。冬に戻ってきた人々は昼間そこに集まり、細工《さいく》物をこしらえたり布を織ったりする。夜にはそこで酒を酌《く》み交わすこともあった。客庁《きゃくちょう》は里家の人々、あるいは里を訪ねてくる客人のための建物だった。これに付属するように園林《ていえん》があって、そこにある書房《しょさい》で遠甫は日の大半を暮らす。これらの建物の世話、集まった人々や客人の世話は里家の人間の仕事だった。
陽子はその中、客庁に房間《へや》を割り振られた。遠甫がそうしろ、と命じたのだ。里家に住まないなら、里家の者とはいえないだろう。そもそも、里家に住む者もその里の者だけ、陽子はもちろん里の者ではない。
——変な感じ。
蘭玉は山羊《やぎ》を桂桂にまかせ、陽子と厨房《だいどころ》に戻る。蘭玉に言われるまま外の井戸から水を汲《く》んできては水甕《みずがめ》に空ける陽子を見た。
陽子は客庁に房間を与えられていることを除いて、ほとんど里家の人間と同様に過ごしている。こんなふうに厨房の手伝いもするし、里家の掃除もする。蘭玉や桂桂が仕事を終えて遊んでいる間、遠甫の書房を訪ねて話しこんでいることだけが違っていた。
——陽子は海客《かいきゃく》だから、こちらのことを教えておるんじゃよ。
遠甫はそう言うし、そうなのだろうな、とも思うのだが。
「——なにか?」
突然、その陽子から訊かれて、蘭玉はぎょっとした。いつの間《ま》にか手を止めてまじまじと陽子を見ていたらしい。
「あ……ううん。なんでもない」
それでもなお陽子が首を傾けるので、蘭玉は正直に訊いてみた。
「どうして固継に来たの?」
ああ、と陽子はつぶやく。
「こちらのことが分からないと言ったら、遠甫を紹介してくれたひとがいたんだ。——それで」
「遠甫って偉《えら》いひとなの? なんだかお客さんもたくさん来るんだけど」
「よくは知らない。話をしていると、聡明《そうめい》な方だなと思うけど」
「ふうん……」
水汲《みずく》みが終わったというので、野菜を洗ってもらう。陽子が洗った野菜を切りながら、蘭玉は訊《き》いた。
「……あのね? 蓬莱《ほうらい》ってどんなとこ?」
古老は神仙《しんせん》の国だという。どんな苦しみも悲嘆もない、夢の国だと。
陽子は苦笑した。
「こちらとあまり変わらない。災害があったり、戦争があったり」
「そっか……」
少し安堵《あんど》したような、それでいて少し落胆《らくたん》したような。
「わたしもひとつ訊いてもいいかな?」
陽子に問われて、蘭玉は手を止める。
「なに?」
「蘭玉っていうのは、字《あざな》?」
「ううん。名よ」
「こちらにはたくさん名前があってややこしいな」
陽子が本当に途方にくれたように溜め息をつくので、蘭玉は思わず笑ってしまった。
「蓬莱には字がないのね。——姓名は戸籍上の名前。字は呼び名ね。昔は決して名を呼んだりはしなかったみたいだし、昔気質《むかしかたぎ》のひとは今でも名で呼ばれるのを嫌《いや》がるけど、あたしは平気。姓は蘇《そ》。大人《おとな》になって一人立ちしたら、氏を選んで、氏字を名乗るけど、あたしはまだ大人じゃないから」
大人とは成人をさす。二十になれば国から土地をもらって自立できるようになる。これを給田《きゅうでん》というが、この給田の二十は特別に数《かぞ》え歳《どし》で数える。農閑期の正月、いっせいに給田が行われるためである。
陽子は苦笑した。
「歳の数え方もたくさんあって、ややこしい」
「ふつうは満で数えるの。夫役《ぶやく》があるから。数え歳だと、同じ十七でも身体の大きさが違ってしまうでしょ?」
納税の義務は成人して給田を受けてから課せられるが、夫役は年齢を問わない。急場には十の子供でもかりだされることがある。堤《つつみ》を築き、溝《みぞ》を掘り、あるいは里《まち》や廬《むら》を造作し、運が悪ければ戦う。兵役だけは十八未満の未成年に課せられることは少なかったが、兵卒の数が足りなければ、やはり懲役《ちょうえき》される年齢は下がってゆく。
「昔は夫役も数え歳だったらしいけど。うんと大昔」
「ふうん……」
「蓬莱には夫役はないの?」
陽子は首を振った。どこか苦笑するふうだった。
「なかったな。……年中夫役をしてた気もするけど」
「へえ?」
「大人は朝から夜中まで働く。子供は朝から夜中まで勉強する。べつに強制されるわけじゃないけど、人より働かないとたくさんのものをなくしてしまう。だからみんな、夜中や明け方まで働く」
「大変なのねえ……」
蘭玉がつぶやいたとき、山羊《やぎ》の世話を終えた桂桂が走りこんできた。
「終わったよっ」
元気いっぱいに言って、次の仕事を催促《さいそく》する。
「じゃあ、卓を拭《ふ》いて食器を出してね」
「うんっ」
布巾《ふきん》を持って駆《か》けていく桂桂を、陽子は目を細めて見ていた。
「働き者でいい子だな、桂桂は」
蘭玉はあっさりうなずいた。
「そうでしょ?」
どこか自慢げに言った蘭玉に、陽子は微笑《ほほえ》む。
「——桂桂は? 名?」
「小字《しょうじ》よ。子供の呼び名ね。蘭桂《らんけい》、っていうのが本当の名前」
陽子は軽く笑った。
「本当に、こちらはややこしい」