景麒《けいき》が手配してくれたのがこの里家《りけ》、彼は遠甫に教えを乞《こ》え、と言った。たいへん優秀な教師だから、と。それ以上については、訊《き》いたが教えてもらえなかった。かろうじて固継《こけい》の里《まち》の閭胥《ちょうろう》だ、と答えたばかりだった。
遠甫には話が通じているのだろう、遠甫は陽子が里家に着いた次の日から、午後と夕食のあとに書房《しょさい》へ来るように、と言った。最初の何日かにしたのは世間話だった。次には陽子自身の生い立ちを幾日にも渡って尋《たず》ねられた。次には蓬莱《ほうらい》のことを訊く。どういった国があり、どんな地理でどんな産業があり、どうやって治められているのか。そこに住む人々はなにを考え、望んでいるのか。
陽子は遠甫と話していると、愕然《がくぜん》とすることが多かった。故国のことでさえこんなに知らないのか、と我ながら情けなくなる。
昼餉《ひるげ》の食器を片づけて、走廊《かいろう》を書房《しょさい》へと抜けながら、陽子はひとつ溜め息を落とした。またあの問答の続きだろうか。日に日に陽子には答えられないことが増える。
書房を訪ねると、遠甫の姿はなく、園林《ていえん》をのぞくとそこに姿があった。園林に面してある四阿《あずまや》のような茶房《ちゃしつ》に座っている。
「こちらでしたか」
走廊を歩いて茶房に向かうと、遠甫は陽射しの中でくしゃりと笑った。
「今日はうららかで良い天気になったの。——陽子もそこに座りなさい」
はい、とおとなしく陽子は茶房の床几《こしかけ》に腰をおろした。
「陽子はこちらの冬は初めてだの。どうだな?」
「あまり日本と変わらない気がします」
ふむ、と遠甫はうなずく。
「慶《けい》は恵まれておる。北の国々に比べればな。ここ北韋《ほくい》にも家をなくし、宿にも泊まれずに露天に布と板で囲いをして暮らす者がおる。だが、北の国では真冬、野宿すれば確実に凍《こご》え死ぬ。田畑の収穫も薄い。とにかく種を播《ま》けば細々《ほそぼそ》とでも実りが得られる暖かな国とはわけが違う。——冬、人に必要なものはなんじゃと思う?」
「暖かい家……ですか?」
遠甫は髭《ひげ》をしごく。
「なるほど、蓬莱《ほうらい》生まれではそうなるじゃろう。——いや、家ではない。食料じゃよ。それは飢《う》えたことのない国の者の意見じゃな」
陽子は恥じ入ってうつむいた。
「特に北方の国では本当に深刻じゃな。夏の日照りが少し悪くても、秋の実りにひびく。細々と収穫があっても、そこから税を納めねばならん。残った穀物のうち、何割かは翌年また播かねばならん。これを食ってしまえば、翌年確実に飢える。たとえ物資があっても、冬の間は荷が満足に動かない国もある。飢えても凍《こお》った土、根を掘ることさえできぬ国もある」
「……はい」
「話をしてみて良う分かった。なるほど、陽子は苦吟《くぎん》するはずじゃの」
陽子は遠甫の横顔を見る。
「……ひょっとして、試しておられたのですか」
「いいや。儂《わし》は人を試すようなまねはせんよ。問題がどこにあるのか、確かめておっただけじゃ。……確かに陽子はこちらに疎《うと》い。こちらとあちらの差があまりに大きい。それではどこへ行ったものか、とうてい分かるまいて」
はい、と陽子はうつむき、遠甫もまたしばらくの間、園林《ていえん》を見ていた。
「——国の基《もとい》は土地によって成り立っておる」
遠甫は唐突に切り出す。陽子は思わず姿勢を正した。
「全ての民は成人すると土地をもらう。与えられる土地は一|夫《ぷ》、百|畝《ぼう》で、百|歩《ぷ》四方じゃ。九夫をもって一|井《せい》とし、この一井一|里《り》四方九百畝を八家で所有する」
「——待ってください。単位が……」
頻繁《ひんぱん》に虚海《きょかい》を渡って蓬莱《ほうらい》へ出向く延麒六太《えんきろくた》は、あちらの事情に詳《くわ》しい。どうにかすると書籍やちょっとした道具などを持ち帰ることもある。その六太が教えてくれたところによれば、一|歩《ぷ》はあちらの単位で百三十五センチらしい。
「一|歩《ぷ》が百三十五センチ、一里は三百|歩《ぷ》だから……」
計算をする陽子を遠甫は、ふと笑う。
「そんな妙《みょう》なことを考えんでも、一|歩《ぷ》は二|跂《き》じゃよ。跂はこう」
遠甫は片足を踏み出す。
「この歩幅が一跂、左右両方とも歩いて一|歩《ぷ》じゃ」
「……ああ、そうなのか」
「長さでいえば、一歩《いっぽ》が一|歩《ぷ》、広さで言うときには一|歩《ぷ》四方が一|歩《ぷ》じゃ。——一|尺《しゃく》はこう」
遠甫は両手の指をそろえて、掌《てのひら》を並べる。
「この手の幅が一尺、一尺は十|寸《すん》じゃから、指一本の幅が一寸になろうかの」
「へえ」
「一|丈《じょう》は、大小があるので分かりにくかろうが、人の背丈《せたけ》ほどじゃな。一|升《しょう》というのは両手にものをすくっただけ、と目安にするとよかろうよ」
言って遠甫は、ただし、と笑う。
「大男が一里と言ったら、一里よりも遠い。小男が一升と言ったら一升に少し足りないと考えるのじゃな。これを覚えておくと、損をしない」
陽子は軽く笑った。
「なるほど」
「一|夫《ぷ》はつまり、百|歩《ぷ》四方の土地じゃ。まわりをてくてくと歩いて、四百|歩《ぽ》だの。農地としては広い。この一夫が九つで一|井《せい》という。この広い土地が八家に割り当てられる。国が民を治めるときには、この一井が最小の単位になろうかの」
「八家で九夫?」
遠甫は得たりというふうに笑む。
「一夫は公共の土地なのじゃ。八家族の土地八夫、公共地が一夫。その一夫のうちの八割が公田というてな、八家共有の土地じゃ。残り二割に廬家《ろけ》と畑が並ぶ」
ああ、それで、と陽子は国土の風景を思い出した。農地の中に点在する集落、その集落はおおむね建物の数が等しい。村と呼ぶほどの数はないが、村であるかのようにひとまとまりを見せていた。
「畝《ぼう》で言えば八十畝が公田、二十畝が廬家《ろけ》じゃ。——二十畝といえば?」
「ええと……二千|歩《ぷ》です」
「そうじゃな。一家の取り分は畑が二百|歩《ぷ》、家が五十歩じゃ。二百歩の畑がどのくらいの広さか分かるかの?」
「……分かりません」
「畑の周囲に果物のなる木や桑《くわ》を植えて、残った場所に畑を作る。その畑が一家ふたりの食いぶちに充分足りるというところだの。五十歩の家は小さい。臥室《しんしつ》がふたつ、起居《いま》がひとつ、厨房《だいどころ》がひとつでやっとじゃな。陽子の国の単位でいうなら、二えるでーけーじゃ」
くすくすと陽子は笑った。
「2LDKね」
遠甫もまたくつくつと笑う。
「——一家はふつう二人で数える。二人の人間が充分食べていけるだけの田と畑と家、これが八家集まったものが廬《むら》じゃな。この廬が三つ集まって里《まち》を作る。里とは、政《まつりごと》の末端の単位じゃな。八家の廬が三つで二十四家、これに里家《りけ》を加えて二十五家じゃ」
「里にも家をもらえるんですね?」
「そうじゃよ。廬は田圃《たんぼ》の中じゃから、農閑期にいても仕方がない。それで冬には二十四家が里に戻ってくる」
陽子は微笑《ほほえ》んで、少し耳を澄ませた。広い里家の表のほうから、賑《にぎ》やかな声が聞こえてくる。女が集まって糸を繰ったり機《はた》を織ったりする房間《へや》、男たちが集まって筵《むしろ》を編んだり籠《かご》を編んだりする房間《へや》。廬に出ていた間のことを話し合う声。
「とにかく、いずれにしても基本になるのは一|里《り》四方一|井《せい》の土地じゃ。それでこれを井田法《せいでんほう》という」
陽子は息を吐《は》いた。
「太綱《たいこう》の地の巻に書いてあったのは、これだったのか……」
おや、と遠甫は白い眉《まゆ》を上げた。
「わたしは文章がほとんど読めないんです」
なにしろ、漢文だから。しかも白文《はくぶん》というやつだ。おまけに意味の分からない語が多く、漢和辞典などというものも存在しない。陽子の漢文読解能力でははっきり言って歯が立たない。景麒《けいき》に読めと言われて読むよう努力はしてみたが、さっぱり分からなかったというのが、正直なところだった。
「どうせ言葉が分かるようにしてくれるんなら、文章も読めるようにしてくれればよかったのに……」
陽子が溜め息をつくと、遠甫は声をあげて笑った。
「いいかね、よく覚えておくんじゃよ。——人は真面目《まじめ》に働きさえすれば、とりあえずつつがなく暮らせるだけのものを持っておるんだ」
陽子はぴくりと姿勢を正す。
「最低限の土地があり、最低限の家がある。ちゃんと働き、とりあえず天災も災異もなければ、一生|飢《う》えることなどありゃせんのだ。民はみんな最低限のことを国からしてもらっておる。それで本当に一生つつがなく暮らせるかどうかは、実は自分の甲斐性《かいしょう》にかかっておるのじゃよ」
「……けれど、天災が起これば?」
「陽子が考えなければならんのはそこだ。民の全部を背負っておる気になるのはやめなさい。お前さんがするべきことは、水を治め、土地を均《なら》し、自らを律して少しでも長く生きることじゃな」
「そうなんでしょうか……」
「お前さんのするべきことなど、実は限られておるんじゃよ。旱《ひでり》にそなえて溜《た》め池《いけ》を掘って水路を整える。水害に備えて堤《つつみ》を築き、河を整備する。飢饉《ききん》に備えて穀物を蓄《たくわ》える。妖魔《ようま》に備えて兵を整える。法を整えるのがややこしいぐらいかの。——さあ、これで終わりじゃ。しかもこのほとんども、官が行うべきことでお前さんのすべきことじゃない。……はて? これでなにか悩むことでもあるかね?」
陽子は笑う。
「……そうですね」
「国を豊かにしてやろうなどと、よけいなことを考えるのは後でいい。まず、国を荒らさないこと、これだけを考えるのじゃな」
陽子は息を吐《は》いた。ようやくなにかしら、肩の荷がおりた気がした。
「……ありがとうございます」