鈴《すず》は甲板《かんばん》で風に当たっていて、子供の声を聞いて顔をしかめた。
「季節がら、北東から風が吹くからな。潮も北から南に流れる。だから帰りはうんと速い」
「へええ」
振り返ると、船員のそばに清秀《せいしゅう》がちょこんと座っているのが見えた。
「船って面白《おもしろ》いなあ。おれ、船乗りになろうかなー」
そりゃあ、いい、と船員は笑う。
奏《そう》から慶《けい》の南東部にある港までは、ほぼ半月の船旅だった。すでに旅程の半分まで来た。乗船した人間は多くないから、もうほとんどが顔見知りだった。その中で最も小さいのが清秀。誰にでも物怖《ものお》じせずに話しかけ、けっこう気の利《き》いたことを言うので、利発だと船員にまで可愛がられている。——鈴はそれをいらいらと見ていた。
——そりゃあ、子供だからなにも分からないのは仕方ないけど。
あれほど苦しかったこと、故郷と永久に分かたれてしまったことを、よくあることだと言われれば腹が立つ。
——よくある? この世界に海客《かいきゃく》が何人いるっていうのよ。
鈴はぷいと背を向け、船室に入っていった。
船室には油の臭《にお》いが充満している。最初はかなり辟易《へきえき》したが、もう慣れた。それでも長いあいだ船室にいれば揺れと臭いで胸が悪くなる。そのせいだろう、陽気のいい日にはほとんどの人間が甲板《かんぱん》に出てしまう。戻ると鈴がひとりだった。
船室はただ広いだけのものがふたつ。そこに全員が雑魚寝《ざこね》をする。いちおう女部屋と男部屋に分かれているが、これはいま乗客が少ないからだ。
鈴は床《ゆか》に座りこんでなんとなく息を吐《は》く。その背後から嫌《いや》な声がかかった。
「ねえちゃん、いちいちおれをにらむの、やめてくれよな」
鈴は振り返らない。用があるふりで荷物を引き寄せ、行李《こうり》の包みを開いた。
「なんの話?」
「船員のあんちゃんに叱《しか》られたじゃないか。おれが悪戯《いたずら》でもしたんだろうって」
「そう」
あのさあ、と軽い足音が近づいてきて、鈴の脇《わき》に清秀が座る。
「なんでそんなに怒ってんだ?」
「べつに怒ってないわ」
「大人《おとな》げないやつ……」
大仰《おうぎょう》な溜め息が聞こえて、鈴は清秀を見やった。
「あたしは大人だから、怒ってなんかいないわ。子供のすることに腹なんか立てたってしょうがないもの」
清秀は鈴の顔を少しの間まじまじと見つめてきた。
「……なに?」
「ねえちゃって、優《やさ》しそうに見えんのに、そーとー根性《こんじょう》悪いな」
鈴はとっさに清秀の顔をにらみすえた。
「なによ、それ」
「そう言われたこと、ないか? ねえちゃんって、すげーやなやつ」
怒ったら負けだ、と思いながらも、鈴は頭に血が昇るのをとめられなかった。
「友達、いなかっただろ。嫌われ者だったんとちがう?」
それは鈴の臓腑《ぞうふ》をえぐった。気がついたら手が伸びて清秀を叩《たた》いていた。
「なによっ!」
——梨耀《りよう》。黄姑《こうこ》。誰もが鈴を嫌う。冷たく当たる。
清秀はぽかんと目を見開いて、それから笑った。
「なあんだ、やっぱりそうだったのか」
「出てって!」
「人間って、本当のことを言われると怒るんだよなあ」
「……出ていきなさいよ」
「誰でも同じだって言ったのがそんなに気に障《さわ》ったのか? おれ、間違ったこと言ってないぞ。家に帰れないやつなんか、いっぱいいる。みんな辛《つら》い。ねえちゃんだけが特別辛いんじゃない。そんなことも分かんないから、嫌われるんだぞ」
「なによ——あんたなんか、大っ嫌い!」
鈴はこらえきれずに泣き崩《くず》れた。
真実だから胸に痛い。この世界で会った誰もが鈴のことを好きではなかった。誰ひとり、理解してくれなかった。哀れんですらくれなかった。
——どうして?
「どうしてみんな、あたしに辛く当たるの? 洞主《どうしゅ》さまも、あんたも、どうしてあたしを虐《いじ》めるの? あたしがなにをしたっていうのよ!」
「洞主さま、って——」
「翠微洞《すいびどう》の洞主さまよ。才国《さいこく》の」
鈴はまくしたてた。梨耀がどれほど残酷な主《あるじ》だったか。どれほど辛く、それを精いっぱい耐えてきたか。采王《さいおう》に助けられ、助けられたと思えば追い立てられ。——こんな子供に、言ったところでどうなるものでもないのに。
「しょーがねえなあ。……ねえちゃんって、おれよりガキみたい」
「……なによ」
「ねえちゃん、自分が好き?」
え、と鈴は目を開けた。
「自分のこと、いいやつだって思う?」
「あまり好きじゃないわ……」
こんな惨《みじ》めな自分なんて。
「だったら、他人がねえちゃんを嫌うの、当たり前だと思わないか? しょせん人間なんて、自分が一番、自分に甘い生き物だろ?」
鈴はぽかんと口を開けた。
「その自分ですらさあ、好きになれないような人間を、他人に好きになってもらうなんての、ものすげー厚かましくないか?」
「そんな意味で……」
鈴は慌《あわ》てて言い添える。
「そんな意味で言ったんじゃないわ。——もちろん、好きよ。決まってるじゃない。でも、誰もそうは言ってくれないんだもの。誰も好きになってくれない自分は好きじゃない、ってそういう意味よ」
「そんで? じゃあ、好きになってくれない相手が悪いんか? だから、態度をあらためて好きになれって? それってさらに厚かましいな。だから嫌われるの。以上、終わり」
「あたしは——」
鈴は両手を握りしめた。
「あんたには分からないわ! だってあたしは海客なんだもの……! あたしが海客で、こちらの人とは違うから! だから意味もなくみんなあたしを嫌うんじゃない!」
「おれ、お前みたいなやつ、大っ嫌い……」
清秀は溜め息をついた。
「おれ、そういうの、やなんだよ。人よりも不幸なこと探してさ、ぜーんぶそれのせいにして居直って、のうのうとしてるのって」
鈴は喘《あえ》いだ。眩暈《めまい》がするほど、この年端《としは》のいかない子供が憎《にく》い。
「ばかみてえ。ねえちゃん、単に人より不幸なのを自慢してるだけじゃねえの。べつに不幸じゃなくても、無理やり不幸にするんだよな、そういうやつって」
「……ひどい、ひどい! どうしてそこまで言われなきやいけないの? あたし、こんなに辛《つら》いのに!!」
「辛いことがあると偉《えら》いのか? 辛いことがあって、辛抱《しんぼう》してると偉いのか? おれなら辛くないようにするけどな」
清秀は首をかしげる。
「海客でなきゃ、辛くないわけ? ねえちゃん、仙人《せんにん》で、病気もなきゃ歳《とし》もとらないわけだろ? 病気で苦しんでるやつのところに行ってさあ、それ、言える? 仙なら食うものに困ったことなんてないだろ。今にも飢《う》え死にしそうな人のところに言って、自分が一番不幸だって言えるのか?」
「あんたに言われたくないわ。——あんたは恵まれてるから、そんなことが言えるのよ」
「おれ、恵まれてるかなあ」
「こちらで生まれ育って、家族に囲まれて、帰る家があって」
「おれ、家、ないよ」
え、と鈴は目を見開いた。
「だって、おれ巧《こう》にいたんだもん。家どころか、廬《むら》全部がもうないんだよな」
言って清秀は膝《ひざ》を抱く。
「虚海《きょかい》のほとりだったんだけどさ。崖《がけ》が崩《くず》れて、全部海の中だ。——まあ、廬の連中全部がそうなんだからさ、おれだけつべこべ言ってもはじまらないけど」
それに、と清秀は笑った。
「家に残ってたおばちゃんとか子供とか、みーんな死んだもんな。命があるだけマシだしな」
鈴には言葉が見つからない。最初に慶《けい》に流されたとき、保護された海辺の廬を思い出した。崖のふちにしがみつくようにした廬。あの崖が崩れ落ちて——。
「そんなやつ、巧にいけばいっぱいいる。王さまが死んだし。台輔《たいほ》も死んだから、次の王さまが起《た》つまでずいぶんかかるだろ。みんな巧を逃げ出したんだ。次の王さまがいつになったら起つのかしらないけど、それまでは戻れない。ひょっとしたら二度と戻れないかも」
「でも……」
「けどさ、おれの廬、奏の国境に近かったし。逃げ出せただけ、運がいいんだ。これから巧はどんどん荒れる。そのうち、逃げ出そうったって、逃げ出すこともできなくなる」
「でも——好きで逃げ出したんだわ」
「誰も逃げたくなんかねえよ。そりゃ、自分の家が一番だもん。たくさんの人が逃げて、国境には列ができてた。妖魔《ようま》が出てたくさん食われたよ。そいつらは帰る家が残ってたって、二度と家には帰れない」
ぽつり、と清秀はこぼす。
「とうちゃんも帰れない……」
「……お母さんは?」
死んだ、と清秀は困ったように笑う。
「一緒に船に乗って慶へ行くはずだったんだ。けど、船が港に来る前に死んだ。そんでかあちゃんのぶん、おっちゃんを乗せてやったんだ」
清秀に同行しているのは、貧相な中年の男だった。
「おっちゃんも巧のひとなんだって。身体ひとつで逃げてきて、船に乗ろうにも金がなかったんだ」
「どうして慶なの? 奏に逃げてきて」
奏は十二国で最も豊かな国だ。
「おれら、もともと慶の人間だもん」
「——慶の?」
「慶の王さまが——いまの王さまの前の王さまな。その王さまが起《た》つ前で国がひどいありさまだったんで、おれが小さいときに巧《こう》に逃げたんだ。で、やっと落ちついた廬《むら》がそれだろ? 慶に新しい王さまが起ったってんで、かあちゃん、慶に帰るって」
言って清秀は溜め息をついた。
「かあちゃんもとうちゃんも運がないんだ。……結局苦労するばっかりで死んじまったなあ……」
鈴はいらいらと清秀をねめつける。
「あたしの両親だって苦労ばっかりしてたわ。家が貧しくて、ろくな食べ物もなかった。そのあげくに不作になって、あたしは奉公に売られた。家を——追い出されたのよ」
「ふうん。……でも、みんな死ぬよりいいだろ?」
「あんたは恵まれてるからそんなことが言えるのよ。そりゃあ、優《やさ》しい両親だったんでしょうし。あたしの親なんて、子供を売っちゃう親だもの」
「うん、いい両親だったけど。でも、ひとりで残されると寂しいぞ」
「ひとりなのはあたしも一緒よ。あんたは恵まれてる。最後まで家族といられたんだから。あたし、あれきり家族には会えなかったの。もう二度と会えない。むこうがいまどうなってるか知らないけど、父さんも母さんも、きっともう死んでるわ」
「だから、おれも同じだってば」
「同じじゃないわ。死に目にあえただけ、あんたは幸せなの。あたし、ふたりを看取《みと》ってあげたかった」
「かあちゃんは、まあなあ。……けど、とうちゃん、妖魔に食われたからな。あんな死に目はあんまり見たくなかったなあ」
「それでも、最後まで側《そば》にいられただけましよ! あたし、どんな悲惨《ひさん》な最期《さいご》でも看取ってあげたかった。最後まで側を離れないで——」
清秀は首を傾けた。
「ねえちゃん、いま、自分を無理やり不幸にしただろ?」
「——え?」
「ひどいの、ねえちゃんのほうだよ。自分の父親が目の前で妖魔に引き裂《さ》かれて食われるの、見るのと見ないのとどっちがましか、そんなの分かりきったことだろ? おれ、見たくなかったよ。駆《か》け寄ることもできないで、もう駄目だって、自分に言い聞かせて逃げ出さないといけなかったんだぞ? とうちゃんは墓もない。葬《ほうむ》ってもやれなかった。本当に、そっちのほうがましなわけ?」
鈴はあわてて口元を押さえた。
「あたし……」
「誰かが誰かより辛《つら》いなんて、うそだ。誰だって同じくらい辛いんだ。生きることが辛くないやつがいたらお目にかかってみたいよ、おれは」
「ごめんなさい、あたし……」
鈴は恥じ入ってうつむく。こんな子供が目の前で父親の無惨《むざん》な姿を見ることがましなことのはずがない。
「本当に苦しかったらさ、人間ってのはそこから抜け出すために必死になるんだよ。それをする気になれないってことはさ、ねえちゃん、実は抜け出したいと思うほど苦しくなかったんだよ」
「……でも」
「言葉が分かんないって、それって死ぬ気になってがんばってもどうにもなんないこと?」
「……それは……」
「だったら、話は簡単だろ。ねえちゃん、死ぬ気になるほど辛《つら》くなかったんだよ。気持ちよく不幸に浸《ひた》ってるやつに、同情するやつなんかいないよ。だってみんな自分が生きるのにいっしょうけんめいなんだから。自分だって辛いのに、横から同情してくれ、なんて言ってくるやつがいたら、嫌《いや》になるよ。——当たり前だろ?」
——それで、なのだろうか。それで誰もかれも、鈴に辛くあたったのだろうか。
梨耀《りよう》や黄姑《こうり》が生きることを辛く感じているとは、とうてい思えないのだけれど。
「ねえ——」
それを問いかけようと鈴は顔を上げて、清秀が膝《ひざ》の上に顔を伏せているのに気がついた。
「……どうしたの?」
「ねえちゃんが、ガキくさいんで、頭痛くなった」
生意気なんだから、と鈴は軽く清秀をにらみ、そうして彼の額ら脂汗《あぶらあせ》が浮いているのをみとめた。
「本当に痛いの? ……どうしたの。大丈夫?」
「大丈夫……」
ころりと清秀は横になる。その顔色は土気色《つちけいろ》をしていた。
「待ってて。誰かひとを——」
「いいよ。寝てれば治《なお》るから。慣れてるし」
鈴はその顔をのぞきこんだ。
「いつもなの?」
「うん。ときどき、傷が痛むだけ」
「傷——?」
「妖魔にごつんてやられたんだよな。後ろ頭。それがときどき痛むんだ」
「まあ——」
「大丈夫だって。寝てるとそのうち、治るし……」
鈴はあわてて上掛けを引き寄せ、清秀にかけてやった。