珠晶《しゅしょう》はぽかんと椅子《いす》に腰をおろした。閹人の制止を無視して禁門から騎獣を駆って飛び出した奚《げじょ》がいるという。調べてみれば芳《ほう》から預かった公主祥瓊、そのうえ御庫《ぎょこ》からいくつかの品が消えている。
「思い切ったことをやってくれるわね……」
ですから、と、優美というよりは、朴訥《ぼくとつ》という印象が強い麒麟《きりん》は困ったように言う。
「公主へのなさりようは、あまりだと」
珠晶は下僕《しもべ》をにっこりと笑って見やった。
「あのね? どんな事情があろうと、法を犯せば罪と呼ばれるの。——分かる?」
「罪へ追いやったのは誰なのか、そこをお考えください」
珠晶は、そうね、と微笑《ほほえ》む。
「——供麒《きょうき》、来て」
笑顔に招かれて供麒が側《そば》に寄れば、しゃがむように手招きをする。供麒はおとなしく膝《ひざ》をつき、永遠に幼いままの主《あるじ》の顔を見上げた。その供麒の横顔に飛んできたのは、掌《てのひら》。居合わせた下官が身をすくませるような音がした。
一国の宰輔《さいほ》に手をあげた珠晶はけろりとしている。痛そうに手を吹いてみせた。
「……雁国《えんこく》の台輔《たいほ》みたいに、自分より小さい麒麟がほしかったわ、あたし。はり倒してやりたいときに、手が届かないなんて、腹が立つったら」
「主上《しゅじょう》——」
あのね、珠晶はにこりと笑む。
「そりゃあ、祥瓊は腹立たしかったでしょうとも。あんなに気位が高くっちゃあ、奚の暮らしは侮辱《ぶじょく》だと感じるでしょうよ? そうでなきや、意味がないわ。だってあたしは祥瓊を虐《いじ》めてやりたかったんだもの」
「主上!」
「一国の公主が奚になって、朝から晩まで働き詰《づ》めで、人に平伏して暮らす。——だから、ものを盗んで逃げ出しても仕方ないの? 麒麟の哀れみって、これだから笑っちゃうわ」
つん、と珠晶は顔を上げて、竦《すく》んだように目を伏せている下官たちを見回した。
「どうしてあんたたち麒麟は、その哀れみが他の奚や下官——まっとうに正直に生きている人たちへの侮辱だということが分からないの?」
しゅんとうなだれた男を珠晶は見下げた。
「一国の王族よりも豊かな暮らしをしてる人間なんて、いないの。あたしが奚より恵まれた暮らしをしてるのは、奚たちより重い責任を担《にな》っているから。だからあたしが絹にくるまれて生活してても、奚たちは許してくれるの。頭を下げてくれるのよ。そうでなかったら、たちまち峯王《ほうおう》みたいに首を落とされてるわ。違う?」
「……はい」
「祥瓊はその責任に気づかなかった。その責任を果たさなかった。野良仕事は辛《つら》い、掃除は辛《つら》い、嫌《いや》だ嫌だって駄々をこねて逃げ出す人間を許すことはね、そういう仕事をきちんと果たしている人に対する侮辱なの。同じように朝から晩まで働いて、盗みも逃げ出しもしなかった人と同じように扱ったら、まっとうな人たちの誠意はどこへいけばいいの?」
しゅんとうなだれる麒麟《きりん》を珠晶《しゅしょう》は溜め息をついて見下ろす。
「そういう生き物だっていうのは分かるけど、哀れむ相手を間違えないようにね。あんまりばかな情けを垂《た》れ流してると、墓《はか》大夫《もり》にしてやるから。葬式にはうってつけの人材よね。横で麒麟が一緒に泣いてくれれば、そりゃ、ちょっとは遺族だって慰《なぐさ》められるでしょうよ」
「申しわけありません……」
珠晶は下官を呼ぶ。
「王師を出して、祥瓊を追いなさい。範《はん》と柳《りゅう》にも連絡をして、罪人が逃げこんだら捕らえて引き渡してくださるように、と」
「——かしこまりまして」
珠晶は平伏している掌舎《しょうしゃ》の奚《げじょ》の長を見る。
「顔を上げてちょうだい。——あなたたちの務めがとっても誘惑《ゆうわく》の多いものだってことがよく分かったわ。魔《ま》が差しそうになったこともあったでしょうに、よくこらえてくれたわね」
「いえ……そんな。——監督がゆきとどかず」
「そんなの、少しもあなたのせいじゃないわ。今日までまじめに仕《つか》えてくれて、とても感謝しているわ。これからもお願いね?」
「……主上」
感極まった様子の老婆《ろうば》を見ながら、供麒《きょうき》は軽く頬《ほお》に触れて溜め息を落とした。