祥瓊《しょうけい》は山野を見下ろし、ようやく胸のつかえが取れる気がしていた。
——こうすればよかったんだわ。
おとなしく里家《りけ》に行ったり、奚《げじょ》に成り下がったりせず、最初から出奔《しゅっぽん》して自由になればよかった。
もう誰も、祥瓊をひざまずかせることはできないのだ。
祥瓊はまっすぐ黒海《こっかい》へ向かい、沿岸の街に閉門前にたどり着いた。そこで耳墜《みみかざり》をひとつ売り、着るものを整えて宿に泊まった。久々に感じる絹の感触、贅沢《ぜいたく》な食事と錦《にしき》の衾褥《ふとん》が延べられた牀榻《しょうとう》。快哉を叫びたい気分で眠りにつき、翌日もうひとつ耳墜を売って黒海へと飛び出した。
吉量ならば、二日もあれば一国を横断する。造作なく国境を越えて柳国《りゅうこく》に入り宿を取り、翌日には黒海の沿岸に沿って北上して、夕暮れ前にはどちらかといえば恭《きょう》よりも雁《えん》に近い中央部の港街、背享《はいきょう》にたどり着いた。
「——泊まれる?」
吉量の手綱《たづな》を引いて、祥瓊は大きな門をくぐった。明かり取りの格子《こうし》窓が切られた墻壁《へい》、花飾りのつけられた花垂門《もん》、軒下にいくつも灯火がつるされて、門の中にこぢんまりと広がる前院《まえにわ》を照らしている。大きな宿館《やど》だった。
駆け出してきた店の者が、祥瓊の問いに笑んで深く頭を下げる。
「良い房室《へや》が空《あ》いてございますよ、お嬢《じょう》さま」
そう、と祥瓊はにっこり笑いかえした。
「じゃあ、ここにするわ。——吉量をお願いね」
駆け寄ってきた厩《うまや》係が吉量の手綱を取る。下男が吉量の鞍《くら》に結びつけた荷を解《と》いて抱えると、厩係は吉量を門の脇《わき》にある厩舎《うまや》に引いていく。祥瓊は前院から建物の大門《いりぐち》の中へと入っていった。
扉を開けると中は下堂《ひろま》、壁際にゆったりと並べられた卓子《つくえ》に客が座って歓談をしている。歩み寄ってきて拱手《えしゃく》した宿の者に、祥瓊は軽くまとめて結い上げた髪から銀の花釵《かんざし》をひとつ外して差し出した。
「これで足《た》りるかしら?」
旅人は大金を持つことを嫌うから、支払いは多く、為替《いてい》か物品になる。大きな宿には必ず装身具を換金する小店が入っていて、ここで清算がなされる。支払いに余れば、出発のさいに釣りは銭で支払われた。店の者は花釵《かんざし》を手に取って細工《さいく》を確認し、大きくうなずいた。
「充分でございますとも。お預かりいたします」
「足りなかったら言ってちょうだいね」
「ありがとうぞんじます。お食事はいかがいたしましょう」
小さな宿ならば、通りに面して食事を出す店があり、二階か奥かが客室になる。ここのような大きな宿館《やど》ならば食事を出すのは園林《ていえん》に面した飯庁《しょくどう》か客房《きゃくしつ》だった。客房も、小さな宿では板間に夜具を延べて寝るだけ、顔を洗う鏡台があればましなほう、それさえないことが多く、さらに悪い宿では広い土間に低い臥牀《しんだい》が並べてあって、衝立《ついたて》もなく見ず知らずの旅人と雑居しなくてはならない。並の宿なら臥牀に天蓋《てんがい》と幄《とばり》をつけた牀《しんだい》があって、鏡台と小卓《つくえ》がそろっている。祥瓊が入った宿館のような大きな宿なら、きちんと牀榻《しょうとう》を備えた臥室《しんしつ》ふたつの間にくつろいだり食事をしたりできる起居《いま》が付属している。
「房室《へや》でいただくわ」
実は、と宿の者は困ったようにした。
「ちょうど船が着いたばかりでして。お客さまが多くて、一房がご用意できないのですが。半房でもよろしいでしょうか」
臥室は建物の形式上、必ずふたつだから、宿には半房という制度があった。ひとりで宿泊する客のうち、一房を借り切る余裕のない客が相部屋になるのである。
「どうにもならないの? 妙《みょう》な人と一緒なのは嫌《いや》だわ」
「申しわけありません。他の宿をご紹介できればいいのですが、本当に今日はどこの宿もいっぱいで」
「……仕方ないわね」
「あいすいません。——では、ご案内いたします」