「この房間です」
下男が足を止めたのは、最奥の一郭、透《す》かし彫《ぼ》りの美しい扉には波璃《はり》が入って房室の中が見渡せる。扉の奥は起居、悪くない細工《さいく》の家具がそろっていた。
起居《いま》に面しては厚そうな扉がふたつある。これが臥室《しんしつ》である。鍵は臥室についているが、起居にはない。起居は密室ではないのである。だから半房などという制度が成立する。
「ありがとう」
荷物を臥室に入れて出てきた下男に小金を握らせ、祥瓊は起居の椅子《いす》に腰をおろした。
「ばかみたいに簡単だわ」
くすくすと笑いがもれる。
祥瓊の胸の中に罪悪感はかけらもなかった。供王《きょうおう》が悪意でもって祥瓊を迎えたのだから、悪意でもってそれに報いてなにが悪い。べつに供王はいくつかの装身具がなくなったところで、困るわけではないだろう。どうせ誰かから譲り受けたものだ、それをさらに祥瓊が譲ってもらっただけ。
「のんびり旅をしても、六日もあれば慶《けい》に着くわ……」
慶国首都、堯天《ぎょうてん》。景王《けいおう》のいる東の国の都。堯天に着いたら、どうしてやろう。なにからとりかかればいいだろう。とにもかくにも景王に接近できるよう、宮中に入りこむ必要がある。——だが、これが難問だった。
祥瓊には身元を保証する旌券《りょけん》がない。芳《ほう》で与えられていた旌券は、置いてきたままだった。金品で旌券を不正に発行する官吏《かんり》もいると聞いたことがあるが、さて、どこに行けばそんな猾吏《かつり》に会えるだろう。
旌券さえ手に入れば、宮中に入りこむことは不可能ではない。王が登極《とうきょく》したばかりの王宮では、下官の入れ替えがあるものだ。祥瓊には教養がある。下官に志願すれば採用される可能性が高い。同時に、玉座《ぎょくざ》についたばかりの王は心細いものだ。下官でも官吏でも、少し親切にしてくれる者があれば目をかける。景王に取り入ることも不可能ではない。隙をみて王を討《う》つことも。
祥瓊は宮中の事情に明るい。——宮中のことならよく分かっている。
「戴国《たいこく》に寄ってみようかしら……」
王を失って荒れた国なら、旌券を買えるのではないだろうか。
泰王《たいおう》が登極したのは芳に政変が起こる二年前のこと。わずかにその半年後、諸国に戴の勅使《ちょくし》が訪れて王の訃報《ふほう》を伝えた。勅使を遣《つか》わしたのは戴の新王、だが他国の王が斃《たお》れれば勅使を遣わすまでもなく、各国の宮中にいる鳳《ほう》が鳴いてこれを知らせる。泰王に関して鳳は沈黙したままだった。——少なくとも、祥瓊が芳国の鷹隼宮《ようしゅんきゅう》にいるあいだ、鳳が泰王|崩御《ほうぎょ》を鳴いたことはなかった。王が生きているのなら、新王が起《た》つ道理がない。明らかに偽王《ぎおう》である。実際に戴の内部でなにが起こったのかは分からない。他国の内実はなかなか伝わってはこないものだから。
王を失ったのは芳も同様だが、まさか芳へ戻るわけにもいくまい。とりあえず戴に向かうことだ、と祥瓊は心の中でつぶやいた。