半月でここまで来れたのは、馬車を使ったせい、にもかかわらずここまでしか進めていないのは、清秀の具合が日々悪くなるからだった。どうにかすると起きるなり苦しみはじめて、半日|呻《うめ》いていることがある。そうなるとその日はもちろん、翌日もとても旅はさせられない。そうした旅の中で、鈴と清秀は新年をむかえたのだった。
依然、清秀の目は治《なお》らなかった。相変わらず眩量《めまい》がひどいらしく、歩いて旅をさせることは不可能に近い。頭痛には必ず痙攣《けいれん》を伴うようになり、決まって嘔吐《おうと》するようになった。
「ねえちゃん、ごめんな」
清秀は馬車に横になって揺られながら言う。馬車は荷台に蔽《ほろ》をかけ、敷物を敷いただけだった。多くは近郊の廬《むら》の者が、街道沿いの街に出た際、空《から》になった荷台に人を乗せて小金を稼《かせ》いでいるものだった。馳車《ちしゃ》という旅客を運ぶ専用の馬車もあったが、おおむね貴人が使うものだから、鈴などでは乗せてくれない。
「金、大丈夫か? おれだったら、歩けるぞ。ちょっと遅いかもしんないけど」
「大丈夫よ。子供がそんな心配をしないの」
鈴がぱちんとおでこを叩《たた》くと、笑ってそれでも憎《にく》まれ口《ぐち》を叩いた。
「自分だってガキのくせに」
笑った顔は瘠《や》せた。吐《は》いてばかりだから当然だろう。
言葉も怪《あや》しいらしい。鈴は仙だからちゃんと聞こえるが、馭者《ぎょしゃ》などは変なしゃべり方をする、と言う。「行く」を「きく」と言ってしまうような、そういう奇妙な症状が表れているようだった。
「憎まれ口を叩く暇《ひま》があったら、寝なさい」
「心配なんだよ。ねえちゃん、頼りないから」
「よけいなお世話よ」
言いながら、鈴は笑ってしまう。憎まれ口に腹が立たないのは、清秀の言葉には他意がないからだ。時に腹の立つことも言うが、嘘《うそ》はないと思える。かわいそうね、と口先だけで言われるぐらいなら、かわいそうじゃない、と言い放たれてしまったほうが楽だった。
鈴はふと、清秀を見た。
「ひょっとしたら、梨耀《りよう》さまもそうだったのかしら……」
「——なにが?」
「洞府《とうふ》のひとが、みんな梨耀さまを嫌ってた。けど、嫌いかって訊《き》かれて、嫌いですなんて言えないでしょう? それでみんなとんでもない、って首を振るんだけど、梨耀さまはきまって嫌味《いやみ》を言うの」
「嫌いって言われて嬉《うれ》しい人間はいないだろうけどなー。でも、嫌われてるの分かってるのに、そんなことない、って言われてもぜんぜん嬉しくないよな」
「だったら、嫌われるようなことをしなきゃいいのに……」
うーん、と清秀は蔽《ほろ》の天井《てんじょう》を見た。
「人間ってさ、むしゃくしゃしてひとに当たることってあるだろ? 自分でもやなことしてるな、って分かってて、やっちゃうことってあるじゃない」
「……あるわね」
「そういうときってさ、自分でも悪いことしたな、って思ってるわけじゃないか。嫌われたかな、と思ってそう訊《き》いて、見え見えの態度でいいえ、って言われたら、やっぱ腹が立つんじゃねえかな。正直に嫌いって言っても、角が立つけどさ」
「そうかもね……」
「そういうことがあんまり続くとさ、なんか自分でもなんのためにか分からないけど意地になって、とにかく本音を言わせてみせるぞ、って。——そういう感じってあるんじゃないかな」
鈴はぽかんとした。
「あんたって、梨耀さまになったことがあるみたいね」
「単なる想像だけどさ」
「そうかもしれない」
振り返ってみれば、梨耀がなにを考えているのか、想像してみたことがなかった。ただそこには悪意があるのだと、そう思っていた。
「——正直言って、梨耀さまの気持ちなんか、考えてみたこともなかった。とにかく我慢しなきゃ、って。それをまた梨耀さまが、本当は悔《くや》しいんだろう、憎《にく》いんだろう、って皮肉を言って、答えが気にくわないと大変な用を言いつけたりするの。……息をつけるのは、寝床の中だけ。それもときどき叩《たた》き起こされるんだけど」
清秀は溜め息をつく。
「なんか……かわいそうだなあ……」
「大変だったのよ、本当に」
「ねえちゃんじゃないよ。ねえちゃんは好きでいたんだもん。——そうじゃなくて梨耀ってひと」
鈴は恨《うら》めしい気分で清秀をねめつけた。
「あんたはあたしじゃなくて、梨耀さまを哀れむの?」
「なんか、そういうふうに無駄な意地を張ってるのって、辛《つら》そうじゃない。きっと自分でも自分が嫌《いや》になることってあったと思うんだよな。自己嫌悪ってやだろ。自分からは逃げ場がないから」
「そうかしらね」
鈴はつんとそっぽを向いて、蔽《ほろ》の隙間から見える街道を見つめた。
「……あんたは笑うだろうけど、本当に辛《つら》かったんだから。寒い日に冷たい寝床に入って、ひとりでぽつんとものを考える時間がいちばん幸せだなんて、自分がすごく悲しかった」
「他に人がいたんだろ? 話をしようとか、思わなかったわけ?」
「言ってるでしょ。あたし、海客《かいきゃく》だから、よく分からないことがいっぱいあるわけじゃない。それなに、って訊《き》くたびに笑われるんじゃ、話をする気にはなれないわ。確かに、学ぼうとしなかったあたしもいけないけど、あんなふうに常に笑われていたら、人になにかを訊いて学ぶ気になれなくても仕方ないと思うの」
「……そんで、寝床の中に入って、あたしはかわいそう、世界じゅうでいちばん不幸、って泣いてたわけな」
「そんなこと……」
それは事実だったので、鈴は少し赤くなった。
「そんなこと、してないわ。——いろんなことを考えてた。もしもこれが夢で、目を開けたら実は家の寝床の中だったら、とか」
言って鈴はせつなく笑う。
「景王《けいおう》のことを聞いてから、景王ってどんなひとだろう、って。きっと蓬莱《ほうらい》を懐《なつ》かしがっていると思うの。だから、こんな話をしてあげよう、故郷の歌を歌ってあげよう——」
そうしたら、彼女はとても喜んでくれる。そうして彼女も故郷の話をしてくれる——。
鈴は息を吐《は》いた。
「でも、我に返ったら、虚《むな》しいだけ。梨耀《りよう》さまには嫌味《いやみ》を言われてこきつかわれて、他の人にも意地悪されて……」
清秀は呆《あき》れたようにした。
「ねえちゃんって、本当にガキくさいのな。当たり前じゃない。だってねえちゃん、なにもしてねーもん」
鈴はぽかんと目を見開いた。清秀はやれやれ、と溜め息をつく。
「空想ってのは、ぜんぜん労力いらねーもん。今、目の前の問題をどうしようとか、やらなきゃいけないことをやる、なんてのに比べたら、ぜんぜん楽。けど、その間考えないといけないことも、やらないといけないことも棚の上に置いてるだけだろ? なーんにも変わらないし、むなしーに決まってるじゃん」
「それはそうだけど……」
「そうやって、ぽやぽやしたことばっかり考えてるから、いつまでもガキみたいなんだよな、ねえちゃんって」
「あんたって、ときどき、本当に嫌《いや》なやつね」
へーんだ、と舌を出して、清秀は丸くなる。
「ねえちゃん、よく泣くだろ。でもおれ、泣くのってさ、やなんだよ」
「悪かったわね、泣き虫で。——あたし、小さい頃は泣かない子だって言われてたんだから。辛抱《しんぼう》強い子だって」
鈴を峠に運れていった人買いの男もそう言った。泣かないのが気に入った、と。
「でも、泣き虫になっちゃうぐらい、辛《つら》かったの。いろんなことが」
おれさあ、と清秀は鈴を見る。
「慶《けい》の家が焼けて、廬《むら》の人がたくさん死んで、おれたちももうどっかに行くしかないって、最後に焼け跡を見にいったとき、すげー泣いたのな。もう、なんか悲しくて悲しくて我慢できなかったんだよ。ガキだからさ、泣くことなんかいっぱいあるよ。でも、いつもの泣くのとちがって、おれそのまま一生泣きやめないんじゃないかと思った」
「あんたでも?」
「うん。そんときに思ったんだ。ああ、人の泣くのにはふたつあるんだな、って。自分がかわいそうで泣くのと、ただもう悲しいのと。自分がかわいそうで泣く涙はさ、子供の涙だよな。だれかなんとかしてくれって、涙だから。とうちゃんでもかあちゃんでも、隣のおばちゃんでもいいから、助けてくれ、って」
鈴はただ清秀の顔を見る。
「子供ってそれっきゃ、身を守る方法がないからさ。だから、ガキの涙なの」
そう、とだけ鈴は答える。しばらく清秀も口を噤《つぐ》んでいた。
「……ねえ、清秀の家は慶のどこにあったの?」
「んーと、南のほう」
「身体が治《なお》ったら、行ってみようか」
「一緒に?」
清秀は横になって鈴の衣にくるまれている。馬車の中は寒いから、鼻先まで衣を引き上げて、その目だけで鈴の顔をうかがった。
「一緒に。——いや?」
「ねえちゃんと一緒じゃ、たいへんだなあ」
言いながら、清秀はくすくす笑っている。鈴もまた笑った。