貧しい旅人は肩を並べ、街道を旅していた。吹き渡る風は冷たく、歩いていても身体が凍《こご》えることだろう。旅人は胸に釿婆子《おんじゃく》を抱き、炭を入れた袋と薪《まき》を少し提《さ》げてうつむき加減に歩いている。街道のあちこちで持ち寄った薪で焚《た》き火《び》をして暖を取る。そういった人々を横目に見ながら、馳車は街道を駆け抜けていく。
「歩いて旅をするんじゃ、大変ね……」
祥瓊《しょうけい》は向かいに座っている楽俊《らくしゅん》に声をかけた。客車の中には三人掛けの床几《こしかけ》がふたつ、向き合うように並んでいるが、乗客は祥瓊と楽俊のふたりしかいない。
「祥瓊は、やっぱり戴《たい》に行くのか?」
祥瓊は息を吐いた。
「本当は慶《けい》へ行きたかったの」
「へえ?」
「慶へ行って下官になって、景王《けいおう》に近づいてみたかった。うまく取り入ってやろうと思ってた。あわよくば景王から玉座《ぎょくざ》を簒奪《さんだつ》してやろう、なんて。——半分は思ってるだけだったと自分でも思うけど、半分はきっと本気だった。……怒る?」
楽俊はひげをぴんと上げた。
「怒りゃしねえけど。……それが本当になってたら、おいらはあいつに顔向けができなかったなあ」
そうね、と祥瓊は笑う。
「それで戸籍《こせき》がほしかったの。戴に行けば、慶へ連れていってくれる船があるって聞いたから。慶で土地と戸籍をくれるんですって」
へえ、と楽俊は目を見開く。
「そりゃあ、初耳だ」
「本当は吉量《きじゅう》で戴まで行くつもりだったんだけど、とりあえず慶に行って、土地をくれるってところを探してもいいな、って」
言って祥瓊は膝《ひざ》の上に組んだ自分の手を見つめた。
「わたし、実はとても公主《こうしゅ》の自分にこだわってたわ……。王宮に住んで、贅沢《ぜいたく》をしてる自分をなくしたくなかった。畑で働くのも、粗末な服を着るのも、とても恥《は》ずかしかった。……景王が同じ年頃の女の子だって聞いて、わたし、彼女が妬《ねた》ましかった。わたしがなくしたものを全部持ってるなんて、許せないと思ったの」
「そうか……」
「本当を言うと、いまでもやっぱり貧しい宿に寝るのは抵抗があるわ。毛織りの着物は恥ずかしい。……けれど、これが罰なの」
組み合わせた指に力をこめた。荒れた指の先が白い。
「わたし、ただ王宮で遊ぶだけで、なにもしなかった。民から弑逆《しいぎゃく》されるほどお父さまが恨《うら》まれてるなんて、知らなかった。……知ろうともしなかった。そのことに対する罰なの。だから月渓《げっけい》——恵州侯《けいしゅうこう》はわたしの仙籍《せんせき》を削除《さくじょ》したんだってことが、やっと分かった……」
「……うん」
「公主でなかったら、わたしは里家《りけ》の世話になるしかないわ。まだ未成年だし、官吏《かんり》になる才覚もないもの。……だから里家に入れられた。わたし、そういうことのいっさいが、ぜんぜん分かってなかったの……」
「もう分かったんなら、いいじゃねえか」
そうね、と祥瓊は笑う。
「……景王はどんなひと?」
「年は確かに祥瓊ぐらいだな」
「わたしみたいに、愚《おろ》かじゃないわね」
「あいつもそう言ってた。……自分は愚かだ。それで王になってもいいんだろうか、って」
祥瓊はさらに笑った。
「……わたし、似てるみたい」
「確かにな。——けど、祥瓊のほうが女らしい。なんかあいつ、どうもぶっきらぼうなとこがあるからなあ」
くすくすと笑って、祥瓊は窓の外を流れる風景を見やる。
「わたし、慶に行ってみたいわ……」
その王に会ってみたい。——会えなくてもいい、その王が造る国を見てみたい。
「雁のあちこちから慶へ送ってくれる旅団が出てるけど」
言われて、祥瓊は楽俊を見返した。
「ああ、景王が起《た》ったから、みんな国に帰るのね」
「ずいぶんな数の連中が慶に戻ろうとしてたな。どんな王だが分かっちゃいないんだが、なにしろ、登極《とうきょく》に延王《えんおう》が力を貸したぐらいだから、立派な人物なんだろうって慶の連中は躍《おど》り上がってる」
「ああ……そういう噂《うわさ》だったわね。でも、だからといって必ず賢帝《けんてい》だとは限らないのに」
「そうなんだけどな。……まあ、雁にいるよりは帰ったほうがましだろう。土地があって、細々とでも地に足のついた暮らしができるからな」
楽俊は苦笑する。
「慶に見切りをつけて、逃げ出してきたはいいが、肝心《かんじん》の雁じゃ荒民《なんみん》の暮らしは辛《つら》い。傾いた国に残ってるよりましだし、雁もよく面倒を見てくれるけど、雁の民が豊かに暮らしてるのを見てればどうしたってせつない。雁の国民になるには雁で官府《やくしょ》から土地を買うか、官吏になるしかねえが、どっちも簡単なことじゃねえ。雁で生きていこうと思えば、浮民のまんま豪農に雇《やと》われて土地を耕すか、店に雇われて働くしかねえから、民は国を懐《なつ》かしむ」
「分かるわ……」
「おいらは恵まれてる。たまたま運が良くて、大学に入れた。慶の民だって恵まれてる。他の荒民に比べりゃな」
「そうなの?」
「景王は延王と親交があるからな。景王が慶の民をよろしく、と延王に言う。延王が分かった、と言う。それだけのことがずいぶんと恵みになるんだ。少なくとも慶の連中は国まで送ってもらえる。雁の国費と慶の国費だ。ちゃんとそのへんの折り合いが慶と雁の間でついてるんだ。——けど、それ以外の連中は大変だ」
「そうね……」
「景王は恵まれてる。なんといっても、雁ってえ強い後《うし》ろ盾《だて》がある。——がんばってくれるといいんだがなあ……」
慶はどんな国だろう。芳《ほう》よりはるかに南の国。
「その旅団は慶の民でなければ送ってくれないのかしら」
「慶の民でなきゃだめだ、ってことはねえよ。旌券《りょけん》でもなけりゃ調べる方法がねえし、家が焼けて旌券も持てずに逃げた連中もいるからな。——でも、どうしても慶に行くんなら、おいらが高岫《こっきょう》まで送ってやるよ」
「——楽俊」
「次の街でたまが待ってる。——あの|※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞《すうぐ》だ。あいつなら二日あれば高岫山まで行って関弓に戻れるし」
祥瓊は南東の方角を見やった。
「わたしが、慶に行っても心配じゃない?」
「行くといい。慶を見てこいよ」
「……そうする」
「気が済んだら、関弓へ来て、どんな案配《あんばい》だか知らせてくれないか?」
祥瓊は、うなずいた。