清秀《せいしゅう》を殺した。
宿でうずくまる鈴《すず》の頭の中にはそのふたつの言葉しかない。
「……許さない」
何度目かにつぶやいたとき、扉を叩《たた》く音がした。宿の下男だ。
「お客さん、もう門が開きましたがね。まだいらっしゃるんで?」
鈴は懐《ふところ》から、財嚢《さいふ》を取り出す。
「しばらくいるわ。——これは前金よ」
五日分の旅費がそこには入っている。——堯天《ぎょうてん》までわずかに五日しかなかった。
「ええと——はいっ」
中を改めた下男があわてて戻っていく。それを見やって、鈴は宙に目を据《す》えた。
「……許さないわ、昇紘……」
鈴は以来、街を徘徊《はいかい》するようになった。物見遊山《ものみゆさん》のふりで、誰かれとなく声をかけ、昇紘について訊《き》く。
人々の口は重い。それは蓋《ふた》するものがあるからにほかならない。
最初は、昇紘の罪を問おうと思った。
五日街を歩いて、それが不可能であることを悟《さと》った。昇紘は絶大な力を持つ郷長《ごうちょう》だった。止水郷《しすいごう》に君臨する王。税は国の定めよりもはるかに重く、差額は昇紘の懐に消えている。税の取り立ては過酷そのもの。法を弄《もてあそ》び、気まぐれに民を処罰する。
それほどの無軌道《むきどう》にもかかわらず、昇紘はこれまでその責を問われたことがなかった。これからもないだろう、と街の人々は言う。懐に入れた多額の税を上位の官にばらまいて、昇紘は安全を買っている。
——次に考えたのは、このまま堯天に行って、景王《けいおう》に直訴《じきそ》することだった。王に面会することはたやすいことではないが、采王《さいおう》の裏書きした旌券《りょけん》があれば。
だが、それもさらに五日、街を歩いて諦《あきら》めた。
昇紘の無軌道は、五日街を歩いて知ったよりも、いっそう甚《はなは》だしかった。郷下には怨嵯《えんさ》の声が密《ひそ》かに満ちていたが、それを誰も言いたがらないほど昇紘の圧政はすさまじかった。
七割一身なんだ、と教えてくれた者があった。
税は土地から得る収穫の七割。これがわずかでも欠ければ、一身をもって支払わなくてはならない。自分が出頭して殺されるか、あるいは家族の首をひとつ持っていくか。
昇紘は廬《むら》で狩りをする、という。気が向けば近郊の廬に行き、女子供を攫《さら》っていく。数日を経て、襤褸《ぼろ》のようになった者たちが放り出される。
——あるいは。巧《こう》の国境のほうから、時折商人が来るという。あるいは戴《たい》から船が着く。馬車の中、船の中に積まれた荷は人だった。己《おのれ》が殺したぶん、荒れた国から浮民や荒民《なんみん》を集め、甘言《かんげん》を哢《ろう》して止水に招く。傾いた国に赴《おもむ》いて大量の食料を運び、家を土地をなくした人々にこれを配れば、久々の食料にありついた人々は止水をどんな豊かな土地だろうと思う。この馬車を船を遣《つか》わした郷長《ごうちょう》は、どれほど情け深い人柄だろうか、と。食料をおろした替わりに人々を乗せ、馬車も船も帰ってくる。土地に戸籍《こせき》につられて旅してきた人々は、後になって己の浅はかさを呪《のろ》うという図式。
なぜ、と鈴は怒りを禁じ得ない。
——なぜ、景王は昇紘のような豺虎《けだもの》を官吏《かんり》にしておく。
街で囁《ささや》かれる噂《うわさ》がある。昇紘がこれほど民を虐《しいた》げて、それで罰されることがないのは、よほどの後《うし》ろ盾《だて》があるから。……ひょっとしたら、その人物は堯天にいるかもしれない。堯天の金波宮《きんぱきゅう》、その最も高い場所に。
予王《よおう》がそうだった、と噂を聞かせてくれる者は言う。
先王は全く治世に興味がなかったのだ。どんな官吏がどこでなにをしていようと、少しも気にはしなかった。臆面《おくめん》もなく媚《こ》びへつらい、玉や絹を贈った者はそれだけで罪を許された、と。
——女王だから、と拓峰《たくほう》の民は言う。
慶《けい》に女王は折り合いが悪い。平穏な治世が行われたためしがない、と。
鈴は己《おのれ》を笑ってしまった。
蓬莱《ほうらい》の王、この世で唯一、鈴を理解してくれるひと。優しく哀《あわ》れみに満ちた王。
——とんでもない。
景王は鈴の希望だった。憧《あこが》れの全てであり、鈴の支えそのものだった。会いたい、と何度つぶやいたろう。——その己の愚《おろ》かさ。
「許さないわ。——昇紘も……景王も」