声をかけて、陽子が書房《しょさい》の衝立《ついたて》の外で立ち止まると、中から鷹揚《おうよう》な返答があった。
「陽子か。どうしたね?」
失礼します、と声をかけて、陽子は書房の中に入る。遠甫は窓際の書卓《つくえ》についてこちらを振り向いていた。
「申しわけありませんが、二、三日、お暇《いとま》をいただきたいのですが」
「構わんよ。——今度はどこじゃね?」
おっとりと見すかされて、陽子は苦笑する。
「和州《わしゅう》の都まで行ってみようかと思っています」
「明郭《めいかく》か。和州が気になるかね」
はい、と正直に陽子はうなずいた。
「蘭玉《らんぎょく》は和州に振り分けられるぐらいなら、いったん誰かと結婚する、と言っていました。結婚して別れたほうがましだって。それほど疎《うと》まれる和州のありさまが気になります。……できれば、そんなことをしてほしくない。蘭玉だって好きでするわけじゃないでしょう。そうさせる事情がこの国にはあって——」
唐突《とうとつ》に遠甫が笑い出して、陽子はきょとんと目を見開いた。
「遠甫?」
「なるほど倭《わ》は、頑固《がんこ》な婚姻《こんいん》をするのだったか」
遠甫は陽子を手招きする。いつものように、陽子は遠甫の脇の椅子《いす》に座った。
「そういう哀れみかたはやめなさい。こちらでは婚姻はあまり重要なことではないのじゃよ。——倭ではなぜ婚姻するのだね?」
「……一人では寂《さび》しいから」
「だったら婚姻する必要はあるまい。確かに生きるに、連れ合いがなければ寂しかろう。だから人は寄り添うな。こちらでは野合《やごう》というが」
「ええと、子供が産まれると困るから……」
「こちらでは里木《りぼく》に願わん限り、子供は生まれんな。里木に願うためには婚姻している必要があるが——そうでなければ、里祠《りし》が許可せんからな——、単に伴侶《はんりょ》がほしいだけなら婚姻の必要はないことになるな」
「ああ、そうか……」
「子供がほしければ婚姻する。必要でなければ野合でいい。ただ、子供を願うためには夫婦が共に同じ里祠のもとに——つまりは同じ里《まち》におらねばならん。そういう決まりになっておるからな。それで婚姻すれば、里が動く。どちらかがおる里に片方が移動するのじゃな。別れたからといって、元の里に戻されることはない。それで自分のいる里が苦しければ人は別の豊かな里に縁を求める」
「そうやって国を移動することもできますか?」
「できるが、そのためにはまず同じ国に戸籍を取得せねばならんな。他国の者とは婚姻できんからの。こればかりは太綱《たいこう》に決められておるから仕方ない。子を願う者は同じ里の婚姻した夫婦でなければならぬ、婚姻する者は必ずその国の男女でなければならぬ、とな」
「どうしてなんだろう……?」
はて、と遠甫は苦笑する。
「それは里木か天帝に訊いてみるしかなかろう。ひょっとしたら、王がその国出自の者でなければならん、という理屈と関係があるのかもしれん。かつて他国の者との婚姻を認めた王もあったようじゃが、その夫婦が里木の枝に帯を巻こうとしても決して結べず、子を授かることもなかったために結局廃止せざるをえなかったというな。——世の理《ことわり》なのかもしれん」
「不思議ですね」
陽子がつぶやくと、遠甫はふわりと笑う。
「倭《わ》には神がおらなんだろう。じゃが、ここには天帝がおられる。天帝が世の理を決めたのじゃな。太綱の一を知っておるかね?」
「天下は仁道《じんどう》をもって治めること?」
「そうじゃ。これに背《そむ》いて民を虐《しいた》げることはできる。じゃが、必ずこれに背いた報いがある。——そのように、太綱に背いて法を設けることはできるが、それは決してうまくは働かんものじゃ。世の理があるから、それに従って太綱が編み出されたのか、伝説に言うように天帝が太綱を授けたのかは定かでないが」
「……なるほど……」
不思議な世界だ、と陽子はあらためて思う。
「陽子から聞いた話からすれば、倭の婚姻は家を守るための——畢竟《ひっきょう》、血筋を明らかにするための制度じゃな。だが、こちらには家などというものはない。こちらでは子は二十歳になれば家を離れてしまう。どんなに富んだ者も、その家財を子供に受け継《つ》がせることはできん。本人が六十になれば、土地も家も国に返さねばならん。望めば終生持っていることもできるが、死後これを誰かに残すことはできん。蓄えた財だけは伴侶《はんりょ》に残すことができるが、これは夫婦が作った財だからじゃ。夫が死ねば妻に残るが、妻が死ねばこれも国に返す。反対にどんなに貧しい者も、食えなくなれば国が食わせてくれることになっておる」
「……じゃあ、なぜ子供を持つんだろう」
遠甫は笑う。
「天は親の人柄を見て子供を授けるとか。つまり、親になるということは、天に人柄を認められるということじゃな。——夜に子供の魂が抜け出て五山《ござん》に飛び、天帝に親の報告をするそうな。死後、それに従って人は裁《さば》かれるとか」
「……ひょっとして、すごく宗教的なことなんですか?」
「修道的と言ったほうがよかろうな。——子を与えられ、その子を立派に育てることが、人にとって道を修めるということじゃな。実際、子を持ってもいいことはあまりありゃせん。育てるには手がかかり、金がかかる」
「そのくせ二十歳になれば、家を出ていってしまうわけですね」
「そういうことじゃの。だから親は子につくす。子に蔑《さげす》まれることは天に蔑まれることじゃ。子を通して天に仕えておるのじゃな」
「そうか……」
「陽子には珍しかろう。——血統などということを言う者もおらんな。陽子の言う血統にあたるのは同姓かの。婚姻すればどちらかがどちらかの籍《せき》に入る。本人たちの姓は変わらんが、戸籍がどちらかの下《もと》に統合されるのじゃ。子供は必ずその統合された戸籍にある姓を継《つ》ぐ。これには意義がある。天が天命を革《あらた》めるにあたって、同姓の者が天命を受けることはないからじゃ」
「へえ……」
「先の景王《けいおう》——予王《よおう》は本姓が舒《じょ》じゃな。したがって、陽子の親は舒姓ではない。巧《こう》でいうなら先だって斃《たお》れた王は張《ちょう》じゃ。だから次王に張姓の者はない。芳《ほう》の王も斃れたが、この本姓は孫《そん》。芳の次王が孫姓でないことだけは確実じゃ」
「そうか……じゃあ、わたしの友達が塙王《こうおう》になることはないんだ……」
「張姓ならば過去の事例からみて、ありえんな。これはやむをえぬ理《ことわり》じゃ。——姓は生まれたときについて、以後変わることがない。親が離縁したからといって、変わったりはせんし、自分が婚姻しても変わらんな。じゃから、人は固有の氏《うじ》を持つ。姓にはそれだけの意味しかないからじゃ」
「それはぜんぜん倭《わ》とは常識が違う……」
だろうな、と遠甫は笑う。
「倭ではどうやらいったん婚姻すれば頑固《がんこ》にそれを貫くようじゃが、こちらの者は頻繁《ひんぱん》に離縁しては婚姻するな。他人の子供でも嫌《いや》がらずに育てる。子連れの再婚は歓迎されるな。それも子が多いほど喜ばれる。親の資格があったのだから、できた人物じゃろうというわけだの」
「……なるほど」
「あえて子をほしいと思わぬ者もおる。そういう者は婚姻する必要がないから野合《やごう》で済ます。婚姻するとなればいろいろと煩雑《はんざつ》な手続きがつきまとうから、子を諦《あきら》めた者は野合で納得する。家が離れたままということも多いから、下手《へた》に遠方の者と野合すると、冬でなければ伴侶《はんりょ》に会えなかったりする」
「なるほど」
「官吏《かんり》同士の夫婦はもっと深刻じゃの。官吏になると当然のことながら移動がある。婚姻すると夫婦が離されることがないから、当然昇進の道が制限される。これを嫌ってあえて婚姻しない者も多いのじゃよ」
「そうか……」
そういえば確かに、官吏の中には独《ひと》り者《もの》が多い。結婚している者は、たいがい伴侶は官吏ではないものだ。
「こちらの者にとって、婚姻とはその程度のことじゃ。子を願えば意義があるが、子を願うつもりがなければほとんど意味がない」
そうか、と陽子は息を吐く。そしていま、蘭玉にとっては子を得ることよりも、どこに振り分けられるか、そのことのほうが問題なのだ。
「……本当に変わってる……」
つぶやいて、陽子はふと首を傾けた。
「わたしは結婚できるんだろうか?」
遠甫は苦笑する。
「王は人ではないからの」
「そうか……」
「すでに婚姻していればともかく、いったん玉座《ぎょくざ》に就《つ》いてしまえば、以後は婚姻できないことになる。王といえども野合になるな。したがって子も持てん。伴侶《はんりょ》に王后《おうごう》、大公《たいこう》の位を授けることは可能じゃが。——しかし、陽子には慶《けい》の民という子がおるからの。子を通して天に仕えるという意味では変わりがない」
「そうですね」
うなずいた陽子に遠甫は笑う。
「どこへなりとも行ってきなされ。わが子のことじゃ、ようく見ておかれるのが宜《よろ》しかろう」
陽子はうなずく。
「では、明日から少し出かけさせていただきます」