「……大丈夫なの? なんだか物騒《ぶっそう》なところみたい」
鈴が三騅を引きながら言うと、夕暉はにこりと笑む。
「心配ないよ。——ああ、あそこ」
鈴は夕暉の示した先を見る。小さく古いけれども、きちんと掃除がされた宿だった。夕暉は小走りに入り口の脇に向かい、木戸を開けて鈴を手招く。
「——こっち。ここから入れて」
入ったところは樽《たる》や桶《おけ》が置かれた串風路《ろじ》のような通路で、それを抜けると小さな庭と菜園があった。夕暉《せっき》は菜園の垣根をさす。
「そこにつないでおいて。——そいつはなにを食べるの?」
「ふつうの藁《わら》や飼《か》い葉《ば》でいいそうよ」
「どこかで調達してくるから。とにかく水をあげるね」
夕暉は井戸に駆け寄って釣瓶《つるべ》を落としこむ。ちょうどそのとき、裏の戸口が開いて、見上げるような大男が姿を現した。
「どうしたんだ、夕暉、そのたいそうな騎獣《もん》は」
言って男は鈴に目をとめ、怪訝《けげん》そうな顔をする。夕暉は釣瓶を上げながら、男に向かって笑ってみせた。
「このひとの。——泊まってもらうからね。ほら、前に言ったでしょう。墓地で会ったひと」
ああ、と男はうなずいた。にっと口元をほころばせて、人好きのする笑みを浮かべた。
「そうか、大変だったみたいだな。——まあ、入んなよ。とんでもねえ草堂《あばらや》だけどさ」
「あなたもこの宿のひと?」
鈴は厨房《だいどころ》に通され、座るよう勧《すす》められた。おとなしく座れば、男は大鍋から柄杓《ひしゃく》で湯をすくって湯呑《ゆの》みを鈴の前に置いてくれる。ずいぶんとおおざっぱな給仕の仕方だった。
「俺が主人だってことになってる。実際は夕暉が切り盛りしてるんだがな」
「弟さん?」
「そうだ。——出来のいい弟にこきつかわれてる、ってのが本当だ」
言って男は声をあげて笑う。
「俺は虎嘯《こしょう》って者だ。あんたは?」
「大木《おおき》鈴」
「変わった名前だな」
「海客《かいきゃく》だから」
へえ、と男は目を丸くした。鈴も内心、驚いていた。我ながら、海客だと訴えることになんの感情も動かなかった。振り返ってみれば、海客だと言うたびに鈴はなにかを期待しつづけていた気がする。
「そりゃあ、難儀だったなあ」
鈴はただ首を振った。流浪《るろう》の苦しみなど、小さいことだ。鈴はいま健康で、親をなくしたわけでも、故郷を追われたわけでもない。少なくとも、まだ命がある。——そう思えた。
「兄さん、だめでしょう。こんなところにお客さんを座らせて」
厨房に入ってきた夕暉が軽く虎嘯をねめつけた。
「まあ、いいじゃねえか」
「よくないよ。——いいから兄さん、どこかで藁《わら》か飼《か》い葉《ば》をもらってきて」
あいよ、と気のいい返事をして、虎嘯は鈴に笑って厨房を出ていく。それを見送って、夕暉は軽く息を吐いた。
「ごめんね。兄さんは本当におおざっぱだから」
「いいの。——それより、ごめんなさいね。飼い葉を探すの、たいへんじゃない?」
「大丈夫だよ」
夕暉は笑う。
「客房《きゃくしつ》に案内するね。汚《きたな》いところだけど、勘弁《かんべん》してよね」