——変な宿だわ。
思いながら、鈴は荷物をまとめ、考えた末に残金の少ない財嚢《さいふ》を行李《こうり》の上に置いた。細長い袋包みだけを肩にかけて、夜陰《やいん》の降りた裏庭で三騅《さんすい》に鞍《くら》を置く。
「——出かけるのかい、こんな時間から」
家のほうから裏庭に出てきた虎嘯に訊《き》かれ、鈴はうなずいた。
「ええ。ちょっと歩いてくるだけ」
「もう門は閉まってるぜ。どこに行くんだ?」
これには鈴は答えなかった。虎嘯は首をかたむけて鈴をじっと見てから、気をつけて、と言う。軽く挙《あ》げた手に厨房の灯火の光をうけて鈍《にぶ》く指環《ゆびわ》が光った。うなずいて鈴は手綱《たづな》をとり、串風路を表へと向かった。
——ああ、鎖《くさり》なんだわ。
三騅にまたがりながら、鈴は思う。虎嘯がしている細い指環、あれは丸い鎖の環だ。細い鉄をちょうど指環ほどの大きさに丸く巻いて、それを連ねて鎖状の帯にする。あまり豊かではない階層の人々が革帯に下げて飾りにしているのを見かけることがあった。それをばらばらにして、その環を指にはめているのだ。そういえばそんな短い鎖が、厨房の隅になにかの呪《まじな》いのように下げてあった。
——夕暉《せっき》もしていた。
夕暉だけではない。ときどき客房の廊下《ろうか》で出会う男も、飯堂にたむろする男も——ひょっとしたら、宿に出入りする者のほとんどかあるいは全てが。
なにか奇妙なものを発見してしまったような気分がして、鈴は少しもやもやとしながら広途《おおどおり》に出た。すでに夜、通りを歩く酔漢の数さえ減る時間になっていた。
街の中央には郷城がある。郷などの府第《やくしょ》が城壁の中に広がっている。その城壁の周囲を一局する内環途《ないかんと》、東に面して広大な屋敷があった。
——昇紘《しょうこう》。止水郷《しすいごう》の郷長、拓峰《たくほう》の豺虎《けだもの》。
郷長なら郷城の内城に官邸が与えられる。昇紘はその他に、拓峰の二か所に大きな家を持っていた。さらに拓峰の外、閑地《かんち》の一郭《いっかく》には巨大な邸宅がある。
鈴はこのところ街を歩いて、昇紘がここしばらくその三つの家のうち、内環途ぞいの家にいることをつきとめていた。閑地にある邸宅はもっぱら客を招いて遊興に耽《ふけ》るためのもの、内環途ぞいの家は郷城に出仕するためのもの、もうひとつの家がどちらでもない場合に使われているようだった。昇紘がいま内環途ぞいの家にいるということは、あの豺虎が郷城でなにか悪巧《わるだく》みをしていることを意味する。どんな恥知らずな企らみかはしらないが、それが止水の人々を苦しめるだろうことだけは確実だった。
鈴はその家に冷たい一瞥《いちべつ》をくれて、三騅《さんすい》に乗って街の隅に向かう。人気《ひとけ》のない道観《どうかん》や寺の続くあたりで三騅を降り、門の閉ざされた道観の前の目立たないあたりに腰をおろした。
——待ってて、清秀《せいしゅう》。
鈴は懐《ふところ》に手をやる。襦裙《きもの》の帯にはさんだ短剣にそっと手を触れた。
妖魔《ようま》を切り裂《さ》く刃《やいば》、これが仙《せん》の身体をも切り裂いてくれる。すでに三騅が街を取り巻く隔壁を跳び越えられることを確認していた。隔壁を越えられるものなら、家の墻壁《へい》を越えるのはたやすい。家の主人なら、休むのは家の奥だろう。実際、内環途に面するあの家の奥には、贅沢《ぜいたく》な楼閣があった。
——あたしたちの恨みを思い知らせてやるわ。
鈴は膝《ひざ》を固く抱いた。