「気をつけてな」
祥瓊を慶の街に残し、楽俊は雁《えん》に戻っていく。祥瓊はそれを見送ってたまらず頭を下げた。
——ありがとう。
楽俊が自分の懐から——旌券《りょけん》を与えてくれた人物から預かったものではなく——かなりの路銀《りょひ》を祥瓊にくれた。多くのものを与えられた。祥瓊を憎《にく》まずこんなところまで連れてきてくれた。感謝することなら数え上げればきりがない。
ああ、そうか、と祥瓊は尻尾《しっぽ》を振って消えていく半獣《はんじゅう》を見送りながら思う。
人に感謝したことがなかった。誰かに本心から詫《わ》びたこともなかった。芳《ほう》の田舎町《いなかまち》、閭胥《ちょうろう》の沍姆《ごぼ》に頭を下げ、恭国《きょうこく》の王宮、供王《きょうおう》に頭を下げて暮らしたが、本心から頭を下げたことが祥瓊にはなかった。頭を下げたいだけ、人に感謝したことがなかった。すまないと思ったことがなかった。
もういちど頭を下げて顔を上げると、整備された雁の街、広途《おおどおり》に楽俊の姿はない。|※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞《すうぐ》を駆って大急ぎで関弓《かんきゅう》に戻るのだろうか。そろそろ休暇も終わるというのに、妙な寄り道をさせてしまった。
ひとつ息をついて、祥瓊は背後の広途を見渡す。ちょうど柳《りゅう》と雁の国境で見たような差異が雁と慶の間にはあった。
——これが、慶。
街は高岫山の山頂を越えたところにあった。雁と慶を隔《へだ》てる中門から、階段状に斜面を下って街が延びる。中門前の広途からは街が俯瞰《ふかん》でき、同時に街の外、高岫山の麓《ふもと》に広がる国土が見渡せた。
祥瓊と同じように広途にたたずみ、あたりを見渡す幾人かが落胆の溜め息をついた。雁に比べ、それはあまりに寒々とした光景だった。冬枯れた山野、雪がないだけ、それは不毛な寂《さび》しさを露呈《ろてい》している。
国境の街なら大きい。なのに、街に入っても活気というものがおよそなかった。途《みち》は土を突き固めただけ、街はさほど広くなく、そこに小さな建物が低く密集していた。北の街に比べれば確実に暖かいのに、どの窓もぴったりと閉ざされている。玻璃《はり》の入った窓も見あたらなかったので、この街は頑強になにかを拒《こば》んでいるように見えた。街の随処に半壊した建物が残り、あるいは建物の残骸が残っていた。途には雑然と小店が並び、狭い建物からあふれた甕《かめ》や壊《こわ》れた家具がさらに途を混沌《こんとん》とさせている。街の外周をとりまく環途《かんと》には、板切れや布でかろうじて風をしのぐ小屋がいくつも建って、そこで疲れ果てた表情をした人々がむっつりと焚《た》き火《び》を囲んでいた。
慶は波乱の国、ここ長く長命の王が起《た》ったためしがない。ひとりの王が長く治世を布《し》く雁との、この残酷なまでの差異。
多くの人が流れて慶の街に入ってくる。そのほとんどが荒民《なんみん》の群れだった。
「少しはましになったかと思ったのに」
広途に立った男の憮然《ぶぜん》としたつぶやきは、流れこんでくる人々の心を代弁しているかのようだった。
「ああ、やっぱり帰ってくるんじゃなかった」
広途を流れる人々の溜め息が祥瓊の耳に入る。
「こんなに寂《さび》れた国だったかしら。なんだかひどくなってる気がするわ」
「わたしが国を出たのは、王が斃《たお》れた後だったけど、ここまでひどくなかった気がする」
大変だわ、と祥瓊は同じく広途を歩きながら思う。
——この国を立て直すのじゃ、大変だわ。
荒民は雁にとって頭痛の種だったろうが、慶にとっても同様だろう。雁で豊かな国を見てきた民はどうしても雁と慶を比べる。実際、祥瓊の生まれた芳《ほう》に比べれば、慶の状態は溜め息をつくほどひどいわけではない。だが、雁の街と比べるとその差はあまりに歴然としていた。雁の街の賑《にぎ》わい、活気に比べれば、この街は廃墟のように思える。
それらの人々と一緒に街を歩き、安そうな宿に入っていく。三軒目でようやく空《あ》きのある宿を見つけた。広い部屋に雑居する宿だった。
同じ宿に宿泊した荒民《なんみん》の表情はさまざまだった。故国に戻れることが嬉しく、ひたすら明るい者、国が荒れたことを幸いに豊かな国へ移って穏やかに暮らそうという夢やぶれて悄然《しょうぜん》とする者。
「女王だって話を聞いたか?」
客房《きゃくしつ》の一隅に集まった人々が話す声が聞こえた。
「女王なの? ——また?」
「それを先に聞いてりゃ、雁に残ったのになあ」
「女王はだめだ。無能なうえに、すぐに国を荒らす」
「また、同じ道を通って雁に逃げ出すことになるのかしらねえ」
「今度逃げる羽目《はめ》になったら、おれはもう二度と慶へは帰らない」
——本当に大変だわ。
祥瓊は溜め息を落とした。なんだか景王《けいおう》が他人のような気がしない。彼女の苦労を思うと、しぜん、溜め息になった。
——今頃、王宮で同じように溜め息をついているだろうか。
「今からでも引き返すかなあ」
「およしよ。雁にいたってろくなことはありゃしない。どうせあたしたちは雁に生まれたわけじゃないんだから」
「でもなあ。生まれた里《まち》へ帰るのもなあ」
「里が残ってりゃいいがな」
そういや、と中の一人が身を乗り出した。
「呉渡《ごと》から出る船の話を知ってるか?」
「——なに、それ」
「戴《たい》へ行く武装船だ。和州《わしゅう》のどっかの郷長《ごうちょう》が出してる船だとさ。戴で暮らしに困ってる荒民を乗せて戻ってくるらしいぜ」
「なんだい、そりゃ。まさかこれから戴へ行こうってえのかい。そりゃあ、よしたほうがいい」
「そうじゃない。——ええと、どこだったか。そうそう、止水《しすい》だ。止水郷の郷長が荒民を哀れんで船を出してる。それに乗って止水に行けば、止水で土地と戸籍《こせき》をくれるらしい」
「止水——和州の、瑛州《えいしゅう》との境だったか」
「そうやって荒民を引き受けようってぐらいだ、止水は豊かなんじゃないのかい。頼めばおれたちだって迎《むか》えてくれるかもしれないじゃないか」
まさか、と女が手を振った。
「そんなおいしい話があるもんか。どっから聞いた話だい。かつがれたんだろ」
「違うって。——他にも聞いた奴ぐらい、いるだろ?」
しん、と会話が途切れる。
「誰もいないじゃないのさ。かつがれたんだよ」
「そんなはずない。誰もいないのか? 本当に?」
祥瓊は迷った末に声をあげた。
「聞いたことがあるわ」
ぱっと人垣が崩れて祥瓊に視線が集まる。男がひとり、近寄ってきた。
「ある? ——やっぱりな。本当だよな?」
「ええ。柳《りゅう》で聞いたの。柳から戴に行っていた船乗りが、そういう船があったって言っていたわ」
人々はざわめく。口々に豊かかもしれない止水に行くことと、もうないかもしれない里《まち》に戻ることを比べる声をあげた。
「行ってみようかなあ」
「あたしの里ももうないしね。河が溢《あふ》れて呑《の》まれちまったから」
「でもなあ。生まれた里のほうがなあ」
人々の反応は半分半分、今にも止水に走っていきそうな者から、とんでもない、なにか良くないことがあるに決まっていると力説する者までさまざまだった。
「あんたは、どうするんだい。どこから来たんだ?」
祥瓊は訊《き》かれて、首をかたむけた。
「芳《ほう》よ。——そうね、土地はほしいけど、わたしはまだ成人じゃないから」
年齢を偽《いつわ》ることは可能だが、それをするふんぎりはつかない。
「でも、止水がそんなに豊かなら行ってみるのは悪くないわね」
祥瓊は口に出して、自分で自分にうなずいた。
「そう、どこかで職を探したいし、とりあえず止水に行ってみようとは思ってる」