「明郭は陸路の要所です」
使令《しれい》の足を借りて二日の旅、明郭にほど近いところで使令を降りた。残る道のりを歩きながら、景麒は言う。
「この街道は慶の北部の生命線、特に虚海側の終着点|呉渡《ごと》は、慶でほとんど唯一の虚海側の港です。南から運ばれる米と塩、舜《しゅん》から運ばれる薬泉《やくせん》の水、北から運ばれる毛織物と小麦、これらのものが農地からの収穫では足りない北部の民の生活を支えている」
「——北部は貧しい?」
陽子が問うと景麒はうなずく。
「山地が多くて、良い耕作地が少ない。気候も夏に乾いて秋の初めに長雨が降ることが多いから、収穫は天候次第、しかも他に見るべき産業がない」
「ふうん……」
「特にいまは南方から青海まわりで着く船がほとんど途絶えましたから、呉渡の意義は大きい。そのうえ、雁《えん》との高岫《こっきょう》には鳥羽口《とばぐち》がひとつしかありません。北方陸路の要所|巌頭《がんとう》、海路の要所呉渡、ここから入った荷はいったんこの街道を通っていく。特に明郭は必ず通らざるをえない」
「ひょっとして、北部の中でも和州は豊かなんだ」
陽子が言えば、景麒は薄く苦笑する。
「和州の街道ではしばしば草寇《おいはぎ》が出るそうですよ。これから荷を守るため、和州は州師を派遣し、城塞《じょうさい》を築いて荷の護衛をしている。そのぶん荷に通行税をかけるから、和州を通った物資の値は一気にそこで跳《は》ね上がる」
「……なるほど」
だが実際、巌頭から呉渡から荷を受け取るためには、和州を通さないわけにはいかない。
「呀峰《がほう》は能吏《のうり》だな」
陽子が言うと、景麒はさも嫌《いや》そうに眉《まゆ》をひそめた。
「おやめください。——明郭の北と東には隣接して、荷を蓄え、旅人を泊めおく大きな街があります。北郭《ほっかく》、東郭《とうかく》とも呼ぶようですが、明郭の一部でありながらこれが明郭よりも大きい。農地を潰《つぶ》して土地を均《なら》し、高い隔壁を築いて物資と旅人を守るための街を無から作った。それが全て街を利用する旅人の負担です。実際に働くのは和州の民、民はいっかな絶えない夫役《ぶやく》に喘《あえ》いでいる」
「よくも呀峰のような奴を、和州のような要所の州侯《しゅうこう》に任じたな」
溜め息交じりに言われ、景麒は軽く目を伏せた。
呀峰を和州に任じたのは先代の王、予王《よおう》だった。呀峰は予王に堯天《ぎょうてん》郊外の園林《ていえん》を献じた。それは園林というよりも村に近かった。門を入れば野趣《やしゅ》のあふれるのどかな園林、六軒ほどの小さな民家が立ち並び、鹿《しか》を飼《か》う老人がいて雉《きじ》を飼う子供がいる。
呀峰は予王に美しい小さな村を献じた。彼女が夢みた穏《おだ》やかな暮らしが営まれる夢のような村を。予王はこれを喜んで足繁く通い、呀峰に感謝してその望みを叶えた。——和州を与えてしまったのだった。
その小さな村の村人に話しかけ、彼らに囲まれて園林の草を摘《つ》み、一郭《いっかく》に設けられた小さな家で子供たちに刺繍《ししゅう》を教えている予王は、心底幸福そうに見えた。その園林《ていえん》が彼女を溺《おぼ》れさせることがなければどんなによかっただろうかと思う。王宮には戻りたくないと泣く彼女に請い願って連れ戻すたび、景麒は彼女の命運が尽きてゆくことを確認せざるをえなかった。
——玉座《ぎょくざ》に就《つ》けるべきではなかった。
彼女のためには良くなかった。だが、天啓《てんけい》は彼女を示した。彼女以外の誰も、景王《けいおう》ではありえなかった。
「……景麒?」
小さな声で呼ばれて、景麒はあわてて我に返る。首をかしげて見上げてくる新しい主《あるじ》の姿を見返した。
「どうした?」
いえ、と景麒は首を振る。顔を上げて山野を見渡した。渓流に沿って延びる街道の向こうにそびえる凌雲山《りょううんざん》、その麓《ふもと》に隔壁が見えていた。
「——あれが明郭のようですね」