酒も出すから、酔ったあげくの喧嘩《けんか》も多い。虎嘯がいなければたちまち店は荒れてしまうところだ。
「鈴のおかげで、客が増えたな」
夕暉は午の食器を片づけながら、そう言って笑う。
「まさか」
「女の人が珍しいんだよ。ずいぶん戻ってはきたけど、慶には女が少ないんだ。先王が追い出したからね」
「そっか……」
「こういう貧しい土地柄の女はこれ幸いと逃げ出したから、帰ってこない。腕に職があったり、そこそこ有能な女も帰ってこない。……まだまだかかるね、きっと」
午が過ぎれば、夕飯時まで、たむろするのは身内の男たちばかりだった。確かに女の姿は少ない。決して皆無《かいむ》ではないが、珍しかった。
その女が店に入ってきて、鈴は卓を拭《ふ》く手を止めた。貧しげな褞袍《がいとう》、身なりは男だが女だとすぐに分かったのは、かつて一度会ったことがあるからだ。
「……あなた……」
忘れようのない緋色《ひいろ》の髪。
彼女は鈴に目を留め、すぐに目を見開いた。
「……たしか、鈴……」
そう、と鈴はうなずいた。
「以前は……ありがとう……」
彼女が清秀《せいしゅう》を看取《みと》ってくれたのだった。なにしろあんな時だったから、礼のひとつも言えなかった。いや、と相手は複雑そうに首を振る。鈴は椅子《いす》のひとつを引いた。
「座って。……なにか食べる? 今、お茶を持ってくるわ」
鈴は言い残して厨房《だいどころ》に駆けこむ。駆けこんだところに、夕暉が立っていた。
「鈴、あのひと、知り合い?」
「知り合いってほどじゃないけど。前にいちど会ったことがあるの」
そう、とだけ夕暉は言う。ほんの少し、険しい顔に見えた。
「……どうかした?」
「いや。——鈴に任せていい? いつもの連中が来るまでに、ここを片づけてしまうから」
どうぞ、と笑って、鈴はとりあえず湯呑《ゆの》みに湯を汲《く》んで飯堂《しょくどう》に駆け戻った。
そこでも、少女がほんの少し険しい顔をして飯堂の中を見渡している。
「どうぞ」
湯呑みを置くと、彼女は少し頭を下げる。
「今日は鈴だけ? 前に来たときには背の高い男と、十五くらいの男の子がいたけど」
「虎嘯と夕暉? 虎嘯はいまちょっと出てるわ。夕暉は厨房にいるけど。——ひょっとして二人を訪ねてきたの?」
「いや、そういうわけじゃない」
「あたし、大木《おおき》鈴、というの」
「大木……鈴」
少女はやや目を見開くようにした。
「あのときはありがとう。……こういう言い方は嫌《いや》だけど、言葉を伝えてもらって嬉しかった……」
「あの子は?」
「清秀? 拓峰の墓地。もともとは慶の子なの。慶が荒れて巧《こう》に逃げて、新しい王さまが起《た》ったからって戻ってきたのに死んじゃった。それで、拓峰に葬《ほうむ》られるんじゃ、浮かばれないわね……」
「そうか……」
少女は苦い顔をする。
「清秀とは奏《そう》で会ったの。あたしと一緒の船に乗って慶に帰ってきた。同じ船にやっぱり慶の人が何人かいたわ。みんな新王が起ったから良くなるはずだって言ってたけど、きっと今頃がっかりしてる。新王が起ったって関係ないもの。州侯《しゅうこう》も郷長《ごうちょう》も変わらないんじゃ。——あなたは?」
彼女は陽子《ようし》、と短く答えた。
「固継《こけい》に住んでる」
「固継——ああ、北韋《ほくい》ね。隣の瑛州《えいしゅう》の。——瑛州はいいところ?」
さあ、と陽子は口ごもる。
「どこでも同じかな、慶は。……でもきっと、拓峰よりはまし……」
陽子の返答はない。
「生きていくのって、どこでも同じように辛《つら》いものかもしれないけど、やっぱり恵まれた国とそうじゃない国があると思う。そういう場所ってあるから。あたしは才《さい》から来たの。才の王さまはいい人だった。……いい王さまに恵まれない国はかわいそう……」
うん、と陽子はうなずく。
「本当に景王《けいおう》はなにをしているのかと思うわ。自分の国がどんな状態だか知らないのかしら……」
「傀儡《かいらい》なんだ」
陽子がぽつりと言って、鈴は首をかたむけた。
「——え?」
「無能で、官吏の信頼もないから、なにもできないし、させてもらえない。黙《だま》って言いなりになっているしかない……」
「そう、なの? 陽子は堯天《ぎょうてん》に詳《くわ》しいの?」
いや、と陽子は首を振る。
「そういう、噂《うわさ》」
「しょせんは噂だわ。きっと前の王さまのように、政《まつりごと》なんてどうでもいいのよ。それで少しも民の声が聞こえないのね。だから麦州侯《ばくしゅうこう》だって追い出しちゃうんだわ」
「——え?」
目を見開いた陽子に鈴は軽く顔をしかめてみせる。
「麦州侯って、とってもいい方だったのに、景王が辞《や》めさせてしまったんですって。とても麦州の人には慕われてたのに。それで和州侯を見逃すんだから、呆《あき》れちゃう」
「そう……」
言って、陽子は立ち上がる。
「やっぱり、食事は止めておく。悪いけど」
「——どうかした?」
「いや。……前を通ったから寄ってみただけで、あまり食べる気じゃなかったんだ、実は」
「そう? また来る?」
陽子は軽く苦笑するようにしてうなずいた。