「陽子、いつ帰ってくるのかな」
桂桂《けいけい》がつまらなさそうに言うのを聞いて、蘭玉は軽く笑った。桂桂は寂《さび》しいのだ。子供たちが死んだ里家《りけ》の中は本当に閑散《かんさん》としてしまった。
「もうじきじゃない? 出るときにそう言ってたから」
「ね、陽子、お嫁にいくのかな」
「あの人のところに? さあ、どうかなあ……」
婚姻《こんいん》は成人になってからでなければできないが、野合《やごう》であるぶんには問題がない。親がいれば、親の許しを求めるものだが、陽子には親もいない。
「たとえそうだとしても、成人《じゅうはち》まではここにいるわよ。動けないもの」
言いながら、蘭玉は自分でも不思議にそれを信じてなかった。里家の者、と言うには、遠甫《えんほ》の扱いが気になる。まるで客分のようだ。——そして客なら、必ず遠からずいなくなる。
桂桂に手伝わせて食器を洗い、布巾《ぬの》でふきあげて棚にしまう。厨房《だいどころ》を綺麗《きれい》に片づけたところで、蘭玉は桂桂を振り返った。
「おつかれさま。お茶にしましょうか。——遠甫を呼んできて」
うん、と大きくうなずいて桂桂は書房《しょさい》のほうに走っていく。堂《ひろま》に入りながらそれを目を細めて蘭玉は見送った。——自慢の弟だ。利発で、優しくて、働き者で。誰に会わせても褒《ほ》めてくれる。遠甫も桂桂を小学の上の庠学《しょうがく》に推挙《すいせん》してやろうと言っていた。
嬉しく誇《ほこ》らしく、蘭玉はひとり笑いながら茶器をそろえる。正房《おもや》の扉が開く音がした。
「遠甫、お茶はなにがいい?」
声をかけたが、返答はない。蘭玉は顔を上げ、戸口のほうを見やって身を硬くした。入ってきたのは見ず知らずの男たちだったのだ。
「——あの?」
その数は六人ばかり。一見して当たり前の男たちのようだが、剣呑《けんのん》な気配が漂《ただよ》っていて、蘭玉は思わず一歩|退《さが》る。
中の一人が扉を閉め、その前に立ちはだかった。
「あなたたち、誰? なんの用があって——」
蘭玉は誰何《すいか》する声を途中でとぎらせた。中のひとりが懐《ふところ》から短刀を出したのだ。
蘭玉は悲鳴をあげて踵《きびす》を返す。重い足音が駆け寄ってきて、背後から羽外《はが》い締《じ》めにされる。
「なんなの、あな——」
口を塞《ふさ》がれ、その先は声にならなかった。蘭玉を抱えた男は、他の男たちに顎《あご》をしゃくる。男たちは扉の脇に身体を寄せた。
——なんなの、これは。……このひとたちは。
ぱたぱたと軽い足音が走廊《かいろう》をやってくる。——桂桂だ。
蘭玉は目を見開く。扉が軽く動いて、とっさに死にものぐるいで身をよじって悲鳴をあげていた。
「桂桂、——逃げて——!!」
足元をすくわれ、床に突き倒される。蘭玉は倒れこみ、顔を上げ、扉が開かれているのを見る。そこに立ちすくんだ、小さな弟。
「逃げて、桂桂! 逃げて——!!」
目を丸くした桂桂が身を翻《ひるがえ》すより、男たちが駆け寄るほうが早かった。男のひとりが軽々と桂桂を引き寄せ、拳《こぶし》を突き出す。——いや、その手に握った短刀を。
「——どうした!?」
遠甫の声と、駆け寄ってくる足音。同時にべたりと座りこんだ桂桂の姿。小さな身体の帯の上に、突き出した短刀の柄《え》。
「桂桂!!」
叫んだ蘭玉の背中を激しい衝撃が襲った。蘭玉は悲鳴をあげ、とっさに床の上で身を丸め、その瞬間走った痛みに再度悲鳴をあげた。
顔を上げれば、床に額をつけるようにしてうずくまった桂桂に駆け寄る遠甫の姿が見えた。
「——蘭玉、——桂桂」
駆け寄る前に、駆け寄った男たちが遠甫の腕を掴《つか》む。遠甫はそれを振りほどき、うずくまった桂桂の身体に手をかけた。信じられない力で小さな身体を抱えあげ、蘭玉のほうに物言いたげな視線を一瞬投げて、踵《きびす》を返して院子《なかにわ》に駆け下りた。
「遠甫……逃げて……」
遠甫の行く手を男たちのひとりが遮《さえぎ》るのが見えた。遠甫は桂桂を抱えたまま、書房《しょさい》のほうへと逃げていく。男たちがそれを追う。
——なぜ。……なぜ、こんな。
——桂桂。
蘭玉は両手をついて立ち上がる。よろめきながら扉に向かった。
——遠甫。
入り乱れて走る足音が奥から聞こえる。壁に爪《つめ》を立てて、蘭玉は走廊《かいろう》に出、たたらを踏んで走廊の手摺《てすり》にすがる。助けを求めて外に飛び出そうか、わずかに迷い、手摺を掴んで走廊を奥へと向かった。
……桂桂。
灼《や》けつくような背筋の痛みに耐え、蘭玉は走廊をよろめくようにして走る。客堂《きゃくま》と書房《しょさい》の分かれ道まできて、床に転がった桂桂と、捕らえられた遠甫を見つけた。
「……遠甫!」
「蘭玉、逃げなさい!!」
でも、と蘭玉は床に倒れた弟を見る。床には小さく血溜《ちだ》まりができていた。桂桂は動かない。悲鳴をあげるでも、泣くでもない。
……うそだ。
「——蘭玉!」
蘭玉は我に返り、駆け寄ってくる男たちと手に携《たずさ》えた凶器を見て、本能的に身を翻《ひるがえ》した。泳ぐようにして走廊を走る。その背に斬撃《ざんげき》が襲いかかってきた。
衝撃で膝《ひざ》をつき、床に転がり、さらに床を転がって逃げる。その足を掻《か》ききられ、うなじをしたたか叩《たた》かれて、蘭玉はとっさに手近の扉の中に転がりこんだ。
——どこか、安全なところ。
客堂だった。臥室《しんしつ》の扉を目にとめ、蘭玉は手を突いて泳ぎ寄る。
——鍵がかかるところ。
扉を開け、逃げこもうとした背をもう一度、鋭《するど》い痛みが襲った。
ああ、と蘭玉は嘆息した。温かなものが首筋を流れて胸に伝いこんでくるのが分かった。逃げこんだ臥室の棚に手をつき、自分を支えきれずに倒れこむ。棚の上の小さな箱が転がり落ちて蓋《ふた》を開けた。
……陽子のだわ……。
蘭玉はぼんやりと思う。
……不思議な子。……彼女が今日、いなくて良かった……。
でも、これで里家《りけ》は無人になってしまう。……遠甫はさぞ悲しむだろう。
——ああ、遠甫!
置いて逃げてきてしまった。遠甫はあれからどうなったのだろう。
……ひどいわ。あたしたちがなにをしたっていうの?
血溜《ちだ》まりができていくことよりも、血溜まりの中に倒れた弟の姿の残像のほうが蘭玉を苦しめた。
まだ小さいのに。あんなにいい子だったのに。——たったひとりの家族。親をなくして手を繋《つな》いで生きてきた。
悲しい国だ。慶《けい》に生まれたことが悲しい。親を亡くし、国を追われそうになり、やっとささやかな暮らしを営んでいた里家までが襲われる。暴漢や盗人の横行を許すほど、この国は荒れているのだ。
陽子、と蘭玉は手元にあった布の包みを無意識のうちに握りしめた。
……桂桂の仇《かたき》を討《う》って。……あんな連中を許さないで。
布の中に硬い塊《かたまり》があった。蘭玉はぼんやりと手の中に目をやる。金色をしたものが指の間からのぞいていた。
……これ……。
金の印章。彫《ほ》られた印影。
——なぜ、こんなものが。
重い足音が近づいてきて、蘭玉はとっさにそれを固く握りしめる。殺戮者《さつりくしゃ》から隠すために。
また二度三度と鋭《するど》い痛みが背中を襲った。
——景王御璽《けいおうぎょじ》。
……ああ。
涙が零《こぼ》れ落ちた。
……お願い、陽子、助けて。
窮奇《きゅうき》から助けてくれたみたいに。
あたしたちを、——慶国の民を、助けて……。