景麒《けいき》は使令《しれい》に軽く声をかける。無言で二頭の妖魔《ようま》が姿を消した。間近に固継《こけい》の——北韋《ほくい》の街が見えていた。とりあえず街道からは離れた林の中。
隣に立つ主《あるじ》はむっつりと押し黙っている。
——麦侯《ばくこう》はどういう人間だ?
拓峰《たくほう》の街でなにがあったのか。なにを聞いたか知らないが、街の外で待つ景麒のもとに戻ってくるなり、そう訊《き》いた。景麒は街に入れなかった。街に漂う死臭がひどくて。
戻ってきた陽子は激昂《げっこう》していた。その本人の前でついていった使令に事情は訊けない。それでなぜ主がいきなりそんなことを訊いたのか、分からなかった。
それで本音を言うしかなかった。
「主上《しゅじょう》のほうがご存じでしょう」
「分からないから訊いている」
「為人《ひととなり》もご存じでなく、浩瀚《こうかん》を罷免《ひめん》なさったのか?」
陽子は短く詰まった。
「よくよく調べてから主上がご判断ください、と申しあげた。官吏《かんり》の声にお任せにならず、と。——なのにいまさら主上がそれをおっしゃるのですか」
「調べさせた。——浩瀚は玉座《ぎょくざ》を狙《ねら》ってあえて偽王《ぎおう》に与《くみ》しなかった。わたしを怨《うら》んで弑逆《しいぎゃく》を企て、それが露見して逃げた」
「では、そういうことなのでしょう」
「だが、浩瀚は麦州《ばくしゅう》の民に慕《した》われていた、という話を聞いた」
「そういう噂《うわさ》も聞いておりますが」
「だったら、なぜ、そう言わない!」
「では、お訊きしますが。わたしが浩瀚を庇《かば》えば、主上はお聞き届けくださったのか」
陽子はさらに詰まった。
「庇うというなら、わたしは何度も浩瀚の罷免についてはお考えくださいとお願い申しあげた。わたしの言より官の言を信じられたのではなかったのですか。わたしは、浩瀚はそういった人物ではないと思う、と申しあげた。なぜそれを浩瀚を罷免なさったいまになってお訊きになるのか」
陽子はその冴《さ》え冴《ざ》えとした翠《みどり》の目を上げる。
「……浩瀚をどう思う」
「よく出来た人物に見えましたが。会ったことは二度ばかり、それだけの印象では」
「景麒……お前っ」
「——そういえば、主上は考え直してくださいましたか。官の言がある、証人がある、とわたしの言など、はなからお聞きくださらなかったのに?」
「もう……いい」
吐き出すように言ったきり、陽子は押し黙ったまま、拓峰から固継にたどり着くまで、一言もない。
そしていまも、むっつりと固継をにらむようにしている。
「主上……門が閉まります」
分かっている、と低い声は吐き出す調子だった。
「……それほどわたしにお怒りか」
いや、と陽子は背中を向けたまま首を振る。
「自分に腹が立っているだけだ……」
景麒は軽く息を吐く。自分は言葉が足りないのだ。とくに言葉を惜しむわけではないが、常に気がまわらない。足りなかったことに後から気づく。
「申しわけございません」
「景麒のせいじゃない」
振り返った顔は複雑な色の笑いを浮かべている。
「怒って悪かった。……八つ当たりだ」
「わたしの言葉が足りませんでした」
「いや、わたしがちゃんと訊《き》けばよかった。……すまない」
行こう、と促《うなが》す主《あるじ》の顔を見やって、景麒はわずかに目を細めた。責めない主の強い心根がうれしく、同時に懐《なつ》かしい気がする。
——いいえ。
懐かしい幼い声がする。
——ぼくが早とちりしないで、ちゃんとお訊きしていればよかったんです。
景麒は藍《あい》の漂い始めた空を見やる。
かの国は——あちらだろうか。