「もう帰るか?」
門をくぐりながら訊くと、景麒は空を見上げた。
「遠甫《えんほ》に挨拶《あいさつ》をさしあげる時間ぐらいはございましょう。お会いしてから戻ります」
「遠甫はどういう人なんだ?」
「わたしもよくは」
言って景麒はわずかに困った顔をする。
「もともとは麦州の方とか。道を知り、理《ことわり》を知る方だと、実は麦侯からうかがいました。遠甫の人望厚く慕われるを妬《ねた》んだ者が遠甫を害そうとして、それで瑛州《えいしゅう》のどこかに移せないかと、麦侯から相談を受けたことがございました」
「浩瀚《こうかん》が……そうか」
要は陽子が浩瀚に対し、悪感情を持っていたから言えなかったということか。陽子はそれを思って、自嘲《じちょう》の笑みを漏らす。
——本当に、いたらない……。
思いながら里家《りけ》のそば、角を曲がれぱあと少しのところで、ふいに景麒が足を止めた。
「——どうした?」
景麒はその眉間《みけん》に深い皺《しわ》を刻《きざ》んだ。
「血の……臭いが」
陽子は周囲を見渡す。冬の里《まち》、通りには閑散《かんさん》と人気《ひとけ》がない。
「まさか」
とっさに胸騒ぎを感じた。陽子は駆け出し、里家の門の中に駆けこむ。正房《おもや》に走りこんで、そこで立ちすくんだ。
……点々と落ちた赤いもの。
堂《ひろま》には誰の姿もなく、里家の中からは誰の気配も感じられない。
「——蘭玉《らんぎょく》! 桂桂《けいけい》!!」
零《こぼ》れた血は、走廊《かいろう》を奥へと続いている。
「——遠甫!」
奥へ走る陽子の足元に一頭の獣《けもの》が姿を現した。
「敵は、いません」
その声にうなずいて、陽子は奥に走る。角をひとつ曲がって、走廊に倒れた桂桂を見つけた。
「——桂桂!!」
走り寄り、膝《ひざ》をつく。小さな身体には深々と短刀が刺さったまま、その身体に手をかければぐったりと力がない。
「桂桂——!」
「動かしてはいけません」
振り返ると、露骨に顔をしかめた景麒の姿がある。
「まだ息がある。——驃騎《ひょうき》、この子を金波宮《きんぱきゅう》へ」
「間に合わないやも」
低い答えがあったが、景麒はそれに、分かっているとうなずいてみせる。
「いざとなればわたしが運ぶ。——とにかく連れて先に行け」
御意《ぎょい》、と短い返答とともに、桂桂の身体の下に赤い犬が姿を現す。背中に子供を担ぎ上げ、同時に現れた白い羽毛の鳥女がそれを支えた。
「驃騎、芥瑚《かいこ》、頼む」
陽子は言って、周囲を見渡す。血糊《ちのり》が客堂《きゃくま》へと続いていた。それをたどれば、行き着いたのは陽子自身の房間《へや》、床に撒《ま》かれた血糊の惨状に、景麒は及び腰に足を止める。
「景麒、無理をしなくていい。離れていろ」
「ですが——」
「それより、桂桂を頼む。一刻も早く瘍医《いしゃ》に診《み》せてくれ」
「はい、ですが」
構わず陽子は堂《ひろま》に入り、臥室《しんしつ》の扉が開いているのに目をとめてそちらに向かった。見つけたのは、倒れた少女。
「——蘭玉……!」
駆け寄り、肩に手をかけたが、陽子はすぐに手を引いた。代わりに顔を覆《おお》う。
「……なぜ」
——すでに息が、ない。
「なぜ、なんだ……」
蘭玉や桂桂が誰かの恨みをかうとはとても思えない。蘭玉の背中についた傷を数えれば片手では足りない。これほど憎《にく》まれる所以《ゆえん》が分からない。
「どうして……」
前髪をかきむしって、陽子ははたと顔を上げた。
「——遠甫」
「おりません」
班渠《はんきょ》の声がした。
「——いない?」
「里家の中にはどこにも。隅々まで確かめましたが、遠甫も遠甫の骸《むくろ》も」
「——なぜ」
「血の臭いは三つ。お怪我《けが》があるようではございます。すると、拉致《らち》されたとしか」
陽子は唇を噛《か》んだ。
——いつかの夜、里家を取り巻いていた男たち。あるいは遠甫を訪ねてきては暗い顔をさせていた男、ひょっとしたら拓峰のあの大男。
思い当たるふしなら、ないわけではない。にもかかわらず、守ってやれなかった自分が愉《くや》しい。
「蘭玉……すまない……」
陽子は蘭玉の背をそっとなで、乱れた髪をなでてやる。片手が胸に抱きこむようにして身体の下になっている。なんとなくその無理な姿勢を哀れに思って、陽子は蘭玉の手を引き抜く。右の拳《こぶし》が固く握られていた。
——中に何か握っている。
拳の形でそれが分かる。まだほんのりと暖かい手に触れ、そっとそれを開いてみた。金色の重い印章が転がり落ちた。
「——蘭玉」
陽子は目を見開く。——果たして、蘭玉はこの印章がどういうものだか、気づいただろうか。
ひょっとしたら、もう自分がなにをしているのか分からない状態だったのかもしれない。印影を見る余裕などなかっただろう。あったとしてもこの傷、しかも印影は鏡文字になっているから当然読みにくい。読みとることは不可能だったろう。
——そう思うさきで、蘭玉の拳の意義を問う。
まるで身体の下に抱きこんで、なにかから隠そうとでもするような。隠す相手がいるとすれば、殺戮者《さつりくしゃ》に対してだったとしか思えない。
なぜ隠してくれた。それが陽子のもので、金でできているからか。それとも。
「蘭玉……ありがとう……」
泣きたくはないが、怺《こら》えられない。
「本当に、すまなかった……」
出かけたりしなければ。陽子がいれば、守ってやれたのに。
「——班渠、景麒は」
「宮城《きゅうじょう》へおいでになりました」
そうか、と陽子はうなずく。なんとかせめて桂桂だけでも。そうでなければ、あまりにすまない。
——拓峰でも子供が死んだ。
唇を噛《か》んで陽子は、蘭玉を見る。深く深く頭を下げた。
「いたらない王で、本当にすまない……」