邸内の小臣《ごえい》と斬り結んだのち、犯人たちは邸内に「殊恩《しゅおん》」の文字を残し、開門されたばかりの午門《ごもん》を突破して逃走した。師士《しし》がこれを追撃したが、半数以上が追撃を逃れて瑛州《えいしゅう》へ向けて逃亡していった。
昇紘は氏名を籍恩《せきおん》という。「殊恩」はすなわち「誅恩《ちゅうおん》」、昇紘を誅するの意味だとして激怒、師士二百を割《さ》いて、犯人らを追わせ、周辺の郷領から師士五百を呼び戻して郷城の警備にあたるよう命じた。
これら師士《しし》が拓峰《たくほう》に帰還する直前、邸宅襲撃のあった夜に、今度は郷城中の義倉《ぎそう》が襲撃された。昇紘の周囲を固めていた師士と拓峰|駐留《ちゅうりゅう》の州師が到着するまでのわずかの間に、犯人は義倉に火を放って逃走、義倉はかろうじて大火に至らずに消火したものの、犯人らはまたも「殊恩《しゅおん》」の文字を残して、瑛州へ向けて逃走した。午門《ごもん》を突破した犯人らの数は三十前後であったが、やはりその半数以上が追撃を逃れて州境を越えた。
明らかに徒党を組んでの反逆、昇紘は再び義倉の襲撃があると踏んで州師および師士を義倉の周囲に布陣させ、州境および街道に更に三百の師士を配置したが、二日の間ぴたりと襲撃がない。昇紘がやや気を緩《ゆる》めかけた三日目早朝、今度は拓峰東の閑地《かんち》にある昇紘の別宅が襲撃を受けた。その数、今度は百人あまり、義倉の周囲に展開した州師、師士が昇紘宅に到着すると、屋敷の内外で膠着《こうちゃく》状態に陥《おちい》ったのだった。