陽子は剣の露《つゆ》を払って楼門ごしに空を見上げた。
昇紘の屋敷は彼の自尊心を反映して、驚くほど墻壁《へい》が高い。整えられた園林《ていえん》の樹木の上端でさえものぞかせたくないと、強固に思っているかのようだった。
周囲の義民百にはまだほとんど欠けた者がいない。昇紘自身が作った堅固な墻壁と眺望の良い楼閣とに守られていた。
「陽が落ちた。……連中、墻壁を越えてくるぞ」
陽子が言うと、側で弩《いしゆみ》を構えていた男がうなずく。
「主楼《おもや》へ後退しろ。主楼の連中と合流して布陣しなおす」
男は油断なく周囲へ向かって視線をすべらせながら、主楼のほうへと退《さが》っていく。それに倣《なら》ってひとりふたりと後退し始めた。
最後尾で後退しながら、陽子はつぶやく。
「班渠《はんきょ》……」
はい、と声はほんのかすかに。
「あとはお前たちに任せる」
景麒《けいき》から借りられるだけの使令《しれい》を借りた。——それしか、陽子にはできることがなかった。乱を起こしていたずらに国民の命を失いたくはなかったのに。
「やはり宮城《きゅうじょう》へお逃げになって、王師を動かされたほうが」
「………景麒にできないことが、わたしにできると思うか?」
昇紘を更迭《こうてつ》せよ、それができないなら、瑛州師を動かしてくれ、と陽子は景麒に頼んだ。——だが、それは実現しなかったのだ。宮は昇紘を更迭する理由を知りたがる。班渠にあずけた、玉璽《ぎょくじ》ある書状も役には立たなかった。せめて瑛州師を貸してほしいと願えば、肝心の瑛州師が出陣を拒む。
「肚《はら》はくくった。他に手がない。——夜陰に乗じてできるだけ敵の数を減らせ」
「よろしいのでございますか」
陽子はわずかに苦笑した。
「——わたしが許す」