「……怪我《けが》がなくてよかった」
声をかけると、鈴が振り向く。うん、と眩《まぶ》しげに言って、背後を振り返った。
「陽子、この人が——」
祥瓊は鈴の振り返った人物を見て声をあげる。
「あなた——」
相手も驚いたように目を見張った。鈴がきょとんと前後を見比べる。
「知り合い?」
うん、とうなずいたのはその少女で、口を開いたのは祥瓊だった。
「明郭で助けてもらったの。——あの時はありがとう。こんなところで会うなんて思わなかったわ」
いや、と笑んだ少女の返答は短い。
「陽子っていうのね? 名前を訊《き》く暇《ひま》もなかった」
へえ、と鈴が声をあげる。
「驚いた。——陽子、この人は祥瓊」
陽子がにこりと笑むので、祥瓊も笑い返して、鈴の横に並んだ。三人、肩を並べて、歩墻の下を見る。
「すごい……あんなにたくさんのひと」
ぽつりと鈴が言うので、祥瓊は笑みを向ける。
「驚いた?」
「すごく。……もう駄目かと思った。実を言うと」
「まだ大丈夫なわけじゃないわ。街道を州師が来てる。きっと明日か明後日には着くわ。こうしてられるのは、今日だけよ」
「……うん」
「昇紘《しょうこう》、捕らえただけなのね」
鈴はうなずいて、隣に目を向けた。
「陽子が殺さないでくれって言うから。……確かに、殺したってあたしたちの溜飲《りゅういん》が下がるだけで、それ以上の意味なんかないし。ひどい奴だけど、ちゃんと裁《さば》いてもらったほうがいいもの……」
「そうね……」
鈴も祥瓊も、少しの間、口を閉ざした。歩墻《ほしょう》には春めいた暖かな陽光が降り注いでいた。吹く風はきっと生臭《なまぐさ》いのだろうが、鈴も祥瓊ももう嗅覚が麻痺《まひ》している。
「……嘘《うそ》みたい。のんびりしてて」
鈴の声に祥瓊はうなずく。
「本当にね。——でも、街は妙な感じ」
城内には活気があふれているが、街のほうは森閑《しんかん》としていた。広途《おおどおり》を行き交う人々の影もない。思い出したようにぽつりぽつりと人が通っては、小走りに途《みち》を横切っていくだけ。
城門は閉じているものの、人は頻繁《ひんぱん》に出入りしている。なのに様子を見に来る市民の姿さえない。遠目に見える広途を横切る者たちも、横目で見て見ぬふりをしていた。
「……みんな、次になにが起こるか、固唾《かたず》を呑《の》んでるんだと思うな」
「固唾?」
「うん。昇紘って本当にひどい奴だったから。みんなとにかく昇紘に怯《おび》えてるんだと思うの。——街にね、ちょっとだけ人を残したの」
「うん?」
「あたしたちが昇紘を捕らえている間に、街の人たちを煽動《せんどう》してもらうはずだった。でも、誰も応えてくれなかった。目の前で郷城が落ちても、動けないの。うっかりなにかすれば、きっと怖《こわ》いことが起こるってそう思ってるんじゃないかな……」
「ひどい話——」
でもね、と鈴は女墻《じょしょう》に手をついて身体を起こす。
「あたし、なんとなく分かるんだ」
「街のひとの気分が?」
「うん。——あたし、慶《けい》に来る前、ある人のところに務めてて、その人がとっても使用人に辛《つら》く当たる人だった。いまから考えると、どうしてそんなことするんだ、って文句を言えばよかったと思う。でも、ご主人さまの機嫌《きげん》をそこねると、ひどいことを言われたり、辛い仕事を命じられるから、それが怖くて黙ってた。黙って我慢してて、そうしてる間にね、どんどん怖くなるんだよね」
「ふうん……」
「悪いことが起こる、ひどいことをされる、って、なんだか不安ばっかりどんどん先走っちゃって、よく考えたら梨耀《りよう》さま——ご主人さまね、梨耀さまがあたしを殺したり、そこまでひどいことするはずないし、脅《おど》されたことだってないのに、なんだか勝手にそのくらいひどいことが起こりそうな気がしちゃってたの」
言って鈴は背後の街を振り返る。
「我慢してると、我慢してないことが怖くなる。いまがどんなに辛くても、我慢をやめたらもっとひどいことになりそうな気がするんだと思う……」
「そんなものかもしれないわね……」
「でも、辛いこと、なくなったわけじゃないのにね。辛いから、きっと、なんて自分は不幸なんだろう、って自分を慰めてる。……ここでいま家に閉じこもってる人たちは、きっとそう。大切な人を殺されるまで気がつかない……」
祥瓊は軽く苦笑した。
「殺されるほうが悪い、なんて思っているかもしれないわね。昇紘みたいな奴がいるのを分かってて、殺されるようなことをしたほうが悪い、って」
「それはあるかも」
「人間って、不幸の競争をしてしまうわね。本当は死んでしまったひとがいちばん可哀想なのに、誰かを哀《あわ》れむと負けたような気がしてしまうの。自分がいちばん可哀想だって思うのは、自分がいちばん幸せだって思うことと同じくらい気持ちいいことなのかもしれない。自分を哀れんで、他人を怨《うら》んで、本当にいちばんやらなきゃいけないことから逃げてしまう……」
「うん。……そうだね」
「それは違う、って論《さと》されると、腹が立ってしまうのよね。……こんなに不幸なわたしを、このうえ責めるのか、って怨んでしまうの」
くすくすと鈴は笑った。
「そうそう」
祥瓊は黙って下を見下ろしている陽子を見る。
「ごめんなさい、つまらなかった?」
いや、と陽子は目線を動かさない。
「いろんなことを考えてた。……みんな同じところにはまりこむんだな、と思って」
「そうね……」
「人が幸せになることは、簡単なことなんだけど、難しい。そういう気がする」
あのね、と鈴が声をあげた。
「生きるってことは、嬉しいこと半分、辛《つら》いこと半分のものなんだって」
確かにそうだ、と祥瓊はうなずく。
「なのに、辛いことばっかり見てしまうわね。そうしてだんだん、嬉しいことを認めたくなくなるの」
「意地になっちゃうのよね、変な話だけど」
「なるわね。確かに」
祥瓊も鈴も口をつぐむ。陽子と三人、ぼんやりと風に吹かれた。
「人間って、変な生き物……」
ぽつりと鈴が言って、吹っ切るように顔を上げる。
「ねえ、見張りに行かない? 城壁を一周して」