「……きっと明日になれば、たくさんのひとが死ぬのにね……」
鈴《すず》は歩墻《ほしょう》を歩きながらこぼした。
「たくさんの犠牲が出るんだから、ちゃんと景王《けいおう》の耳に届くといいわね」
祥瓊《しょうけい》がそう言うと、陽子が突然足を止めた。祥瓊が振り返って首をかしげ、すぐにああ、と破顔する。
「謀反《むほん》なんて起こしても、成功するかどうかなんて、分からないでしょ? わたしも|桓※[#「鬼+隹」、unicode9B4B]《かんたい》も、呀峰《がほう》をどうにかできるなんて思ってないわ。たとえどうにかできたって、どうせ首謀者は処罰されるの。でも、景王が気づいてくれればそれでいいわ」
うん、と鈴もうなずく。
「きっと王さまは、和州《わしゅう》や止水《しすい》がどんなふうだか、知らないのよね。乱が起こって、昇紘《しょうこう》や呀峰がこんなに恨《うら》まれてるって知ったら、ちゃんと調べて、これからは考えてくれるかもしれない。……そうなるといいな、って話」
言って鈴はくすくすとひとり笑った。
「あたしね、本当は景王に会いたくて慶に来たの。祥瓊もそうなんだって」
陽子が目を見開いた。
「景王に? ——なぜ?」
同じ年頃の娘だから、と鈴は祥瓊と声をそろえて言って笑った。
「それだけで——?」
鈴は、違うわ、と言い添える。
「あたしは違うわ。同じ海客《かいきゃく》だから。それもあったの」
言って鈴は歩墻《ほしょう》を歩きながら、長い旅の話をする。本当に長い旅だった。たくさんのことがあって、ここへたどり着いた。戦いがあって、生きていられるか分からなくて、それでもちょうど今日の陽気のように、穏やかでいられる自分が不思議だった。
「——あたしは自分が海客で、それがとっても可哀想だと思ってたから、同じ海客の王さまならあたしを哀《あわ》れんで助けてくれるんだって思ってた……」
「鈴は人間ができてるわね」
祥瓊が言って、鈴は祥瓊を振り返る。
「やだ、なあに、それ」
「わたしは景王を恨《うら》んだもの。八つ当たりなんだけど。——自分が王宮から追い出されて、同じ年頃の娘が王になって王宮に入ったのが許せなかったわ」
そうして祥瓊もまた、長い旅の話をした。倒れた父王、寒い里家《りけ》の冬、殺されそうになったこと、恭《きょう》に移され、そこを飛び出した経緯、柳《りゅう》に逃げこんで出会ったひとのこと。
「——楽俊《らくしゅん》に会えなかったら、きっといまも恨んでたと思うわ。だからとても、感謝してる……」
楽俊、とつぶやく陽子を祥瓊は振り返った。
「いいひとだったの。あのひとの友達なんだから、きっと景王もいいひとだと思うわ」
「……わたしだ」
鈴も祥瓊も、え、と小さく声をあげ、足を止めて陽子を見返した。
「——なにが?」
「だから、その景王はわたしのことだと言ってる」
鈴も祥瓊もそろってぽかんと口を開けた。
「こういうことを言うとお笑いに聞こえるのは分かってるけど、そういう話を聞いて黙っておくのはどうかという気がするんで、言っておく」
陽子はいかにも気まずそうで、それでいっそう、鈴も祥瓊もなかなかその言葉がのみこめない。
「……景王? 赤子《せきし》?」
「うん。官がそういうふうに字《あざな》をつけた。ご覧のとおりの髪だから」
驚愕《きょうがく》はゆるゆるとやってくる。
「陽子《ようし》……っていうの? 名前が?」
「本当はヨウコと読む。太陽の陽に、子孫の子。——陽子」
「——うそ……」
鈴はまじまじと陽子を見る。甦《よみがえ》ったものに呻《うめ》いた。懐《ふところ》に抱いた短剣、これは景王を斃《たお》すために求めたのではなかったか。
祥瓊もまた陽子を見つめた。ずっと恨《うら》んでいた、妬《ねた》んでいた。その相手が目の前にいると言われて、忘れたはずの感情がどっと胸を去来する。——どれほど、景王が憎《にく》かったろう。
「もしも本当なら、どうしてこんなところにいるの……」
王宮にいるはずではないのか。堯天《ぎょうてん》の金波宮《きんぱきゅう》に。
「わたしは胎果《たいか》で、こちらのことをなにひとつ知らないから。それで遠甫《えんほ》という人にいろんなことを教わっている途中だった」
「遠甫って、攫《さら》われた?」
陽子はうなずく。
「里家《りけ》が昇紘に襲われて、遠甫が攫われた。どうやら昇紘に命じたのは呀峰だったらしい。いまは明郭《めいかく》にいると、昇紘は言っていた。——遠甫を助けたくて、捜《さが》しまわっていたら、こういうことになった」
「こんなことする必要なんてないじゃない!」
祥瓊は声を荒げる。王なら——本当に王なら、昇紘など簡単に罷免《ひめん》できるはず。こうして多くの人が自ら傷つき、死を選ぶような真似《まね》をしなくても。いったいこれまでにどれだけの人間が死んだだろう。|桓※[#「鬼+隹」、unicode9B4B]《かんたい》が拓峰《たくほう》に差し向けた三人、そのうちの一人は死んでしまった。顔|馴染《なじ》みになった傭兵《ようへい》の見知った顔も、いつの間にか欠けている。鈴の仲間たちに至っては、果たしてどれだけが失われたか。
「昇紘を捕らえるためには王師を出さないといけない。わたしにはその権限がなかった——」
「そんなはず、ないじゃないの!!」
「ないんだ、本当に。昇紘の身柄を更迭《こうてつ》するよう、景麒《けいき》に言ったけれども、理由なく官吏《かんり》を更迭できない、更迭するというならそれに足る理由と証拠を出せと諸官に言われたそうだ。……わたしは官に信用がないから」
「なぜ」
「無能だから、だろうな。わたしはこちらのことを知らない。だから、精いっぱい考えても最善がなんなのか分からない。官は女王を信用しない。この国は女王に恵まれていないから。そのうえ、こんなにものを知らないのでは、とても任せておけないということだろうな」
そんな、と言いかけたが、祥瓊は口を閉ざした。慶は女王に恵まれない、と何度聞いたことだろう。
「州師を動かすよう、景麒に言ったのだけど、動かせなかった。瑛州《えいしゅう》の州《しゅう》司馬《しば》と三将軍は、みんな急病だそうだ」
祥瓊は絶句する。
「王宮に戻って朝廷を整えてからでは間に合わない。遠甫は捕らわれたままだ。里家は襲われてちょうどわたしたちと同じ年頃の娘が殺された。その弟も剌されて命が危うい。大急ぎで王宮に運ばせて、瘍医《いしゃ》に手を尽くさせているけれど、まだ生死が定かじゃない」
瘍医、と鈴がつぶやいて、祥瓊は鈴に目をやった。鈴の双眸《そうぼう》は、陽子を凝視《ぎょうし》している。
「この街でも子供が死んだ。駆け寄ったときにはほとんど息がなくて、助けてやることもできなかった……」
「……本当? 間に合えば助けてあげた?」
祥瓊が問えば、陽子は不快そうに眉《まゆ》を寄せる。
「当たり前だろう。人ひとりの命だぞ」
「もしもその子が、そんなに酷《ひど》い怪我《けが》じゃなかったら? 一見そんなでもないように見えたら? もしも昇紘に殺されたのじゃなくて、ただ単に具合が悪くてうずくまっていたら助けた?」
陽子はさらに不快げにする。
「祥瓊なら見捨てるのか。ふつう、医者に連れていくぐらいのことはしないか? それが当然のことじゃないのか」
そうね、と祥瓊は軽く息を吐く。鈴が無言で女墻《じょしょう》に顔を伏せた。
「——確かに、わたしはいたらない王だ。たくさんの民が殺されていて、重税や苦役や、いろんなことが課せられていることを知らなかった。目の前に見える不幸な人だけ助けようなんて言いぐさが、王としては噴飯《ふんぱん》ものの話だってことは分かってる。桂桂《けいけい》やその子を助けたって、別の場所で別の子供が死んでいるんだろう。でも、目の前で苦しんでいる人がいて、どうして放置できるんだ?」
「そうね……」
うん、と陽子は軽く頭を下げた。
「不甲斐《ふがい》なくて、すまない……」
祥瓊がうつむいたとき、鈴が突然、女墻を抱きしめるようにして笑い出した。
「ちょっと、鈴——」
分かってる、というように手を振って、女墻にしがみつく。ぽろぽろと涙をこぼしながら、腕に顔を埋めて笑い転げる。
「……鈴、あのね」
「だっ……て、……すごい。……莫迦《ばか》みたい」
「鈴、ってば」
「どんな人だか知らないで、勝手に期待して失望して。陽子になにか期待してたんじゃないわ。王さまって偉《えら》い人に期待してただけなのに。——本当に、莫迦みたい」
困惑したように鈴を見つめる陽子に、鈴はせつなく笑ってみせる。
「でも、王さまってそんなものね。みんな勝手に期待して、陽子自身のことなんか考えてもみないで、勝手に失望していくの。……違う?」
祥瓊は天を仰いで息を吐いた。
「——そうね」
「……わたしは、どうすればいい?」
さらに困惑したように言う陽子に、あら、と鈴は顔を上げた。
「決まってるじやない。——ねえ?」
祥瓊は、ちらりと鈴の顔をねめつけてから、もういちど大きく息を吐く。
「そうね。決まってるわ」
祥瓊は鈴と陽子の腕を叩《たた》いた。
「——もちろん、州師を迎え討《う》って、呀峰を引きずりおろすのよ」