起きろ、と怒鳴って、彼は堂《ひろま》へ飛びだした。向かいの臥室に飛びこみ、眠っている小さな娘を抱える。半分眠った様子で目を開けた娘をなだめ、駆け出してきた妻を促《うなが》して、表へと走り出た。
「いったい——」
広途《おおどおり》の向かい側はすでに火の海だった。大火になる、と男はとっさにそう思う。
「街の外に出ろ! 急げ!!」
だから言わないことじゃない、と彼の胸の内に囁《ささや》く者がある。
——昇紘に逆らうからだ。止水《しすい》に生まれたのが身の不運、運に逆らったところでこのありさま。……ああ、なんとか今日まで一家無事に過ごしてきたのに。
逃げまどう人々に交じって申門《しんもん》へ駆けつけ、男はぎょっと足を止めた。
申門の門扉《もんぴ》は閉ざされている。申門前の環途《かんと》、そこに布陣する騎兵の群れは何事か。その騎馬の足元まで累々《るいるい》と続く死体の意味は。
彼はとっさに妻の腕を掴《つか》み、引きずるようにして踵《きびす》を返した。たったいま隣に立っていた老人が、胸に矢を受けて倒れるのが見えた。妻が悲鳴をあげる。
——なにをしたっていうんだ。
彼がいったいなにをしたと。昇紘に逆らったのは、彼とは無関係の者たち。そいつらのために、なぜ彼や彼の家族が殺されなくてはならない。
広途を逃げまどう人々と一緒に、とりあえず見える火勢から遠ざかるほうへ走って内環途《ないかんと》に出、彼は四方であがっている火の手に慄然《りつぜん》とする。あちらにもこちらにも。おそらく十二方向から。門の側だと思われるあたりであがる火の手は、たちまちのうちに甍《いらか》の上を這《は》って、隣の火と結びあって火勢をいっそう強くする。
——なんてことだ。
逃げ道はないに等しい。目を覚ました娘が、彼の腕の中で泣き始めた。
せめて、と彼は背後を振り返る。黒々とした城壁に赤い光が映りこんで、威容を明らかにしていた。
「お前たちは郷城に走れ」
でも、という妻に腕の中の子供を渡す。
「昇紘を倒して余計なことをしてくれた連中だ、お前たちを見捨てたりはすまい」
行け、と妻子を押しやったとき、目の前の郷城西、白虎門《びゃっこもん》が開いた。どっと吐き出された人々に、彼はぎょっと身を硬くする。
「退《さが》れ!」
声が飛んできて、彼は疾走《しっそう》してくる人馬をまじまじと見た。
「伏兵《ふくへい》に気をつけて! 火は簡単には大経緯《おおどおり》を越えない! きっとまだ放火隊が市街に残って火を放ってる!!」
おう、と声を残して彼を追い越し、駆け去っていく人々。戸惑って動けない彼に、門前に残った馬上の少年が手を振る。
「彼らが先導する! あの後を追って逃げて!」
人の動きの入り乱れる白虎門の前、|桓※[#「鬼+隹」、unicode9B4B]《かんたい》はひらりと吉量《きつりょう》にまたがる。部下の二人を振り返った。
「仲間はできるだけ城壁から離すな。どさくさにまぎれて攻めてくるかもしれんぞ。怪我人《けがにん》は城内に入れてもいいが、動向には気をつけろ。州師の伏兵が交じっているかもしれん」
「やはりいらっしゃるんですか」
目の前の男に桓※[#「鬼+隹」、unicode9B4B]は苦笑する。
「——ああ言われたら、出ないわけにはいかないだろう。たとえ誰に誉《ほ》められても、虎嘯に腑抜《ふぬ》けと蔑《さげす》まれたんじゃ我慢がならないからな」
言って桓※[#「鬼+隹」、unicode9B4B]は槍《やり》を担《かつ》ぐ。
「あとはお前に託す。頼むぞ」
うなずいた男に軽く手を挙《あ》げ、桓※[#「鬼+隹」、unicode9B4B]は吉量を走らせる。