「——来たぞ」
虎嘯は身構える。忌《い》ま忌ましげに吐き出した。
「くそ……街の連中を逃がしてやる暇がなかったか」
その顔を市街から届く赤い光が照らした。陽子は箭楼《みはりば》を振り仰ぐ。
——この明かりが幸いするか、それとも煙が災いするか。敵を射るのに、明かりがなくては話にならない。だが、濃厚な煙があたりには充満していて、明かりがあっても視界が悪い。
「虎嘯、どうする。街の中に戻って門を閉めるか?」
「それしかねえな」
「戦車がいる……」
陽子の耳に、桓※[#「鬼+隹」、unicode9B4B]の声が届いた。ぴくりと剣柄《つか》を握った指が震える。
障害物のない閑地《かんち》、平地における戦車は騎馬十騎に相当する。確かに、車輪が重く転がる音が煙の向こうから響いてきていた。
勇気を鼓舞した市民が広途《おおどおり》と郷城の守りを引き受けてくれて、戦慣れした者ばかりが酉門《ゆうもん》に集結している。それでも陽子たちは圧倒的に不利だった。州師が突入してくるのは酉門に限らず、他門へも兵力を割《さ》かなくてはいけない。酉門に集まったのはわずかに五百程度、州師に常備される兵は通常七千五百の三軍、一軍のうちの二千五百が騎馬軍で、明郭から拓峰に向けて出た州師は二軍、騎馬軍だけが一足先に駆けつけたとしても、その数は五千に上る。十二門に配備しても各所四百騎あまり、とりあえず酉門を封鎖した州師は撤退したが、それでもなお四千五百の騎兵が拓峰を包囲している計算になる。
「閉門だ!」
虎嘯が言って、踵《きびす》を返す。車輪の音が間近に追っていた。煙の向こうに薄く姿が見えて、陽子は目を見開く。——戦車ではない。あの壁のようなものはなんだ。
楔形《くさびがた》の壁のようなものがゆっくりと近づいてくる。
|桓※[#「鬼+隹」、unicode9B4B]《かんたい》が低くつぶやいた。
「雲橋《うんきょう》か——あんなものを持ってきていたか」
「雲橋?」
「前に盾《たて》をたてた車だ。あの背後に土嚢《どのう》を積み、兵が隠れる」
「なに……」
「それを填壕車《てんごうしゃ》というが。それの巨大なやつを雲橋というんだ。あれは叢雲橋《そううんきょう》というやつだな。填壕車をいくつも馬で曳《ひ》いてきて、それを鉤《かぎ》で連ねる。ふつう騎馬にはさせんもんだが。馬が疲れてしまうからな」
「……あんたも、只者《ただもの》には見えないな……」
「陽子ほどじゃないと思うがな。——城を攻めるためのものだ。あれをなんとかしておかないと、門を閉ざしても隔壁を破られるぞ」
「——どうやって攻めればいい」
陽子の声に、桓※[#「鬼+隹」、unicode9B4B]は顔を上げる。
「——虎嘯」
どうした、と振り返る虎嘯に、桓※[#「鬼+隹」、unicode9B4B]は鉄槍《てっそう》を向ける。
「火箭《ひや》を用意させろ。歩墻《ほしょう》からできるだけ弩《いしゆみ》を使わせて雲橋を押している連中を狙《ねら》わせろ。——お前はこれを使え。根本を持って振り回すんだ。一人の手に負えなければ、二人がかりでやるんだな。とにかく北から来る雲橋を止めて、騎兵の足止めにしたら街へ逃げこめ」
虎嘯はその鉄槍を受け取って顔をしかめた。
「ま、なんとかやってみるか。——南はどうする」
「俺に任せろ」
陽子は桓※[#「鬼+隹」、unicode9B4B]を見上げる。
「素手で?」
桓※[#「鬼+隹」、unicode9B4B]は笑った。
「素手以上だな。——援護は陽子に頼む」
陽子は眉《まゆ》をしかめたが、雲橋が間近まで来ている。のんびりと問い返す暇《いとま》がない。
「——行くか。上の連中! ちゃんと援護しろよ!!」
虎嘯の歯切れのよい声が聞こえて、どっと門前の人々が北へなだれる。桓※[#「鬼+隹」、unicode9B4B]が軽く弾みをつけて南へ向かって駆け出した。
——速い。
尋常でなく速い足を追って、陽子は抜刀する。使令《しれい》が動いている。射兵をまっさきに排除するよう、言い渡してあるから矢を恐れずに済むのだけが救いだが——。
思ったところで、陽子は目を見開いた。桓※[#「鬼+隹」、unicode9B4B]の身体が沈んだ。矢か、と内心で呻《うめ》いたところで、桓※[#「鬼+隹」、unicode9B4B]の身体がさらに沈む。沈むというより縮《ちぢ》んでいる印象を受ける。射られたわけではない、その証拠に桓※[#「鬼+隹」、unicode9B4B]は前に進んでいる。
——あれは。
桓※[#「鬼+隹」、unicode9B4B]の姿が溶けたように見えた。一瞬ののちにそれは膨《ふく》れ上がり始める。溶けた姿が膨らんで新たな形を作る。——そのように見えた。
歩墻《ほしょう》からも前方からもどよめきが起こる。桓※[#「鬼+隹」、unicode9B4B]は——桓※[#「鬼+隹」、unicode9B4B]だった、いまや別種の姿の者は——両手を突いた。正確には、前肢《まえあし》を。矢のように地を駆けて雲橋にたどり着くと、小山のような姿を丸めて太い前肢で雲橋を薙《な》ぎ払《はら》う。
その一撃で先頭の填壕車《てんごうしゃ》が軽々と浮いた。つながれている他の車までが浮いて地に落ち、それで進みが止まる。
——半獣《はんじゅう》か、この男は。
後足で立ち上がった巨《おお》きな熊に向けて槍《やり》が繰り出される。陽子は駆けより、それらの穂先を断ち切った。
「悪いな」
笑いぶくみの太い声が聞こえて、その巨熊は前脚を払う。先頭の填壕車が外れて横転した。
陽子は剣を振るいながら軽く笑う。
「どうりで尋常でない怪力だと思った」