軍はいまだ動く気配を見せないが、戦う気がないわけではなさそうだった。軍の駐留《ちゅうりゅう》する斜面、冬枯れた林から木を切り出していた。
王師は威嚇《いかく》だろう、と祥瓊《しょうけい》は言っていた。確かにそうかもしれないが、州師には明らかに動きがある。攻城器を作るつもりだろう、とは同じく箭楼に詰めた男の言い分だった。
「いまから?」
「攻城器はでかい。戦場に材木があれば、そこで作る。……よほどのものじゃなければ、半日もいらん。車輪さえ用意してあればな」
そうか、とうなずきながら、陽子は視線を閑地に戻す。見守っているのは、実をいえば敵軍ではない。
じりじりと陽が中天を越えていく。待ちかねたものを蒼穹《そうきゅう》に見つけて、陽子はふいに目を見開いた。
「……来た」
え、と側の男は陽子の顔を見る。それには構わず身を翻《ひるがえ》し、陽子は箭楼を駆け下った。
歩墻《ほしょう》の人々は愕然《がくぜん》と空を仰いでいた。
「——あれを」
「なに——」
どよめく声がひとつふたつ、徐々に手が挙《あ》がって、ひとりふたりと空を指さす。
「なぜ」
「しかし、あれは——」
歩墻に舞い降りてくるものがある。空行師でもなければ、妖魔《ようま》でも騎獣《きじゅう》でもなく、もちろん人でもない。
獣《けもの》であることは確かだった。鹿に似た体躯《たいく》と雌黄《しおう》の毛並み、金の鬣《たてがみ》の意味が分からぬ者はこの国にはいない。府第《やくしょ》で、廟《びょう》で社で。あらゆる場所のどこかに、ひっそりと描かれた姿を必ず見たことがある。
「……騏麟《きりん》」
呆然《ぼうぜん》と声をあげる人々をかき分け、陽子は走る。委細構わず、声をあげた。
「——景麒《けいき》!」
それは低く宙を走って、歩墻の上に駆けおりる。驚愕《きょうがく》とも畏《おそ》れとも、——あるいは歓声ともつかない声がその場にあがった。陽子はおろおろと足踏みする人々を押しのけるようにして、まっすぐその獣に駆け寄った。
「来てくれたか……!」
憮然《ぶぜん》とした声はその獣から。
「こんなところにお呼びになるか。——しかもひどい死臭がなさる」
「……悪い」
「心配するなとおっしゃってそのありさまか? そのうえわたしの使令《しれい》をあれほどお汚しになるとは」
「苦情はあとでいくらでも聞く。王師の陣まで連れていってくれ」
「わたしに騎獣のまねごとをなされと?」
「言わせてもらうが、禁軍を出したのは、お前の責任だぞ」
紫の目が陽子を見て、ふいと逸《そ》らされる。
「景麒、少しだけ辛抱《しんぼう》してくれ」
戦場に置くべき相手ではないと、重々分かっている。陽子を乗せるのは苦痛だろう。あれだけの返り血を浴びた後では。
「……いたしましょう」
見事に優美な首が閑地《かんち》に向かって返される。陽子はその背に飛び乗った。
「——陽子!!」
高い声は隔壁の下、見下ろした広途《おおどおり》で手を挙《あ》げる祥瓊と鈴《すず》を陽子は認める。笑みを返す間もなく、その獣《けもの》は飛翔を始める。王師の旗に向かって疾走《しっそう》を始める刹那《せつな》、景麒のひそかな声がした。
「あの子供、——一命をとりとめました」
そうか、と陽子は笑みを浮かべる。