突然ですが、ボクの持論を紹介させてもらいます。
人間っていうのは、結局、能力と運と、努力とでできてる、と思うわけです。
能力がもともとなければ、運もない。能力がある人には、運もついてくると思うんですよね。そういう人が、ちょっとばかり努力すると、素晴らしいことができる、と。
つまり、もともと能力のない人が、どんなに努力してもダメなわけですよ。
だから、ボクは決して江川にはなれない。だれでも努力すればいい、なんていうのはナンセンスですね。努力したからって、できっこないことは、いっぱいある。でも、それだけに、努力するってことが、面白いということもいえるわけです。
努力しちゃいけない、といっているんじゃないんです。努力してもできない、要するに、人間にはそれぞれ限界がある、ということを認識したうえで、それでもなおかつ、そこへ向かって努力をするっていうところに楽しみがあると思うんですね。
「努力すれば何だってできる」と思い込んでやっていると、努力してもできなかったときに、挫折《ざせつ》する。メゲる。みんな「積木くずし」しちゃうわけですよね。
それではいけません。
人間は、みんな違うし、いろんな職業や生活があるのは、それぞれの能力が違っていて、したがってそれぞれの限界もある、というところから出てきているわけでしょう。
恋愛の場合にも、何でもできる、っていう風な「努力」のしかたをしなければいいと思うんですよ。限界突破を目指して、毎日汗流してるような、そういう「努力してます」みたいなのはよしましょう。余裕を持って、努力すればいいのです。
そうすると、楽しいわけです。
相手を喜ばすということを楽しむ。自分を喜ばそうとするんじゃなく、相手を喜ばそうとすることで、自分に楽しさが返ってくる、というメカニズムですよね。
これは、相手を喜ばせてあげたい、というサービス、ですね。
ちょっぴり教養をひけらかしてしまうと、「サービス」というのは、もともと、神様の名のもとにおいて、人に仕える、という意味があるんです。サービスということばには、こういう本来の意味が、全然入っていないから、わからなくなってしまうわけですよ。
だから、日本でいうサービスというのは、
「お金をもらう分だけのサービスしかしない」
ということになる。そのサービスを受けるお客の側も、
「お金を払ってるんだから、このサービスをされるのは当たり前だ」
と思っちゃってるわけです。
そうじゃありません。
恋愛についても、そんな風に考えている人が多いですよね。愛してやるから、愛されるのは当然だ、という感じです。
そうじゃない。
好きになった相手に、神様の名のもとにおいて、徹底的に尽くすわけです。それが「サービス」なんです。
それが、ひいては自分の喜びにつながってくる。だから、そういう意味において「努力」する。「サービス」の喜びを享受するんですね。その「努力」は、高校野球に励んでいる少年たちの「努力」とは、違う。汗水流しての努力とは違うわけですね。
また、恋愛の場合にも、努力してもかなわないことが出てきます。ムダな努力、というやつです。
このときには、ダメだ、限界だという部分が見えてきたら、諦《あきら》めざるをえません。しかし、それまでとは別の切り口に、方向を転換して努力してみる価値は、あるかもしれません。甲子園と違って、恋愛の対象は生身の人間ですから、一回戦で負けても、まだ完全に望みを捨てるのは早いかもしれないのです。
あるいは、恋愛の対象そのものを別のほうへ向けるテもあるわけです。つまり、他の人間とつき合う、ということですよ。
恋愛は、ある特定の人間とだけしか成り立たないことではありませんからね。要は、自分の「サービス」を向けるだけの価値ある人間を見つけられるか、ということなわけですよ。
ただし、恋愛というものは、お互いの相関関係によるもののわりには、自分から奉仕するという能動的な面ばかりが、強く自分で意識されることがあって、副作用として、相手に幻想を抱いてしまうケースもあります。自分の相手を思う気持ちに、自分が押し潰《つぶ》されちゃうこともあるんですよね。
これが、恋は盲目、といわれる現象です。ここまでくると、相手も困ってしまいますし、何もいいことはありません。
ですから、「サービス」する対象は、ひとつではなく、何か所かに分散したほうが安全なんですね。これが並行恋愛という形になってくるわけです。