ニュートラ銀座派というのは「銀座派」というネーミングから想像できるように、丸の内界わいの会社に勤めるOLのおネエサマがたが、コアをなしている集団です。
短大時代はニュートラ渋谷派だった女のコたちが、卒業してニュートラ銀座派(略してニュー銀)を襲名した、というケースとして理解していただいてけっこうです。
銀座派の典型的な悲惨パターンは、その前段階としての、渋谷派だった短大時代に、遠因があるので、ここは、たまたまボクが知っている、実在するカヨコちゃんの例を挙げて、詳しく説明しちゃいましょう。
このパターンというのは、短大時代に遊びに徹することができず、クラーイ二年間をすごしてしまったために、
「ビシバシ仕事のできるイイ男のいる一流企業に就職して、バッカバッカ遊びまくってみせるわ」
と、過大な期待に、大きくもない胸をふくらませてしまったことに、すべての過ちの出発点があるわけです。
どんな場合にも、何かに、必要以上の期待を抱くのは、失敗の始まりですね。
そして、「期待過多」の状態が続いていた時期が、長ければ長いほど、結果の悲惨さは、救いようのないものへと、そのひどさを増してしまうものなのです。
「絶望は愚か者の結論である」
ということばがありますが、ここではむしろ逆で、
「いたずらに希望を抱くのは、結論として愚か者である」
ということができますね。
これから書こうと思っているカヨコちゃんは、短大時代を通して「期待過多」だったうえに、その前の高校時代から、その状態に突入する「助走期間」があったのですから、その末路が、どうしようもなく暗く、愚かしいものであることは、容易に想像できるわけであります。
カヨコちゃんは、高校まで、東急|目蒲《めかま》線の沿線にある、洗足《せんぞく》学園に通っておりました。この学校には大学も短大もあるんです。どこの大学にでもある、国文科と英文科の他に、音楽科もあるという学校。大学と短大には、例のフジテレビ「オールナイトフジ」に出演してきてしまうような女のコも何人かはいますけれど、その大部分はジミな女のコの多いスクールカラーなわけです。
ですから、カヨコちゃんは、
「なんとかもうちょっと、メジャーめな短大に行きたい」
と、高校へ通いながら、つねづね思っていました。だまっていたら、そのまま上の短大へ入って、一生ジミな生活をすることになる、と考えてた。
スカートは長いし、モクはやるし、マッポにはお世話になるしの問題児が、ある日突然、学校に顔を見せなくなったと思ったら、いつのまにか結婚していた、なんてことがしばしば起きる反面、目蒲線洗足駅の脇にある「ケンタッキー・フライドチキン」と「ミスター・ドーナツ」に、三年間に一度も足を踏み入れたことがない、というコもいる、という両極端な校風なわけですから、カヨコちゃんが、
「ぜひとも、ハデめの短大に行きたい」
と思ったとしても、当然のことです。
で、カヨコちゃんが目をつけたのは、東京女学館なのでした。この学校は、高校までは広尾の高台にあって、遊び慣れている男のコの多い麻布、慶応、学習院、立教といった私立高では、
「館(ヤカタ)」
と呼ばれている、注目校であります。
リボンのついたセーラー服も、かわいらしくて人気もあって、ヤカタのコとつき合うのは、慶応や立教の男のコの間でも「勲章」もの、それ以外の高校に通う男のコたちの間では「あこがれ」とさえ思われています。
たとえば、一一月に行われるヤカタの文化祭は、チケットを持ってないと、校門をくぐれない、というチェックのシビアさもあって、
「ことしこそはヤカタの女のコとお知り合いになりたい」
と祈ってやまない武蔵工業大学付属高校や明治大学付属中野高校の男子生徒が、文化祭のとき、校門の前で、
「一枚、どうか一枚、だれかチケットを譲ってください。五〇〇〇円でどうです!」
といって頭を下げている光景が見受けられちゃいます。
ヤカタは、短大となると、渋谷から一時間以上もかかる田園都市線の南町田という駅から、さらに歩くこと一五分の畑のなかに移るわけですが、カヨコちゃんは、このヤカタを目指すしかない、と燃えてがんばったんですね。ヤカタの短大は、そのまま下からエスカレーター式に上がってきた女のコたちが、かなり慣れた感じで遊びまわっているところですから、なんとかヤカタに入って、こうした遊び人たちのグループにモグリ込んでしまおう、というのが、カヨコちゃんの考えだったわけです。
一生懸命やりました。高校へ通いながらも、心はすでに、山のあなたのヤカタのもとへ。目蒲線の電車のなかで、
「今度の日曜日、映画を観に行きませんか」
とかいうクラーイ誘いをかけてくる、都立小山台《こやまだい》高校や田園調布《でんえんちようふ》高校、はたまた南高校の、どうしようもなく大したことない男のコたちなど、「完全無視」していました。
そうしたニキビ少年たちにはシカトしながら、カヨコちゃんは、心のなかで、こう叫んでいたのです。
「フン!! ヤカタの短大へ入りさえすれば、慶応も立教も、よりどりみどりなんだもんね。こんな、ザコと、いまつき合ってるヒマなんかないもーん!!」
ところが、カヨコちゃんは東京女学館、山脇、玉川学園と、それぞれ短大を受験して、受かったのは玉川だけでした。玉川は、カヨコちゃんの住んでいるところから、非常に行きづらく、遠いので、ヤダナー、と思いましたが、他に受かったトコがありませんでしたので、しようがありません。
最初は、ヤカタの夢が破れて、ガックリきていたカヨコちゃんも、玉川の、丘陵地帯に広がるキャンパス、それに外国の大学かと錯覚してしまうような雰囲気に、
「まあ、なんてステキな環境なんでしょ」
と、次第に玉川ッコに変身。しかも、
「男女共学の四年生の大学も、同じキャンパスにあるから、男のコもワンサで、もしかしたら、楽しいこともあルンルンじゃないかしらン」
と考えてしまい、めでたく入学しました。けれども高校時代をジミな女子校ですごした人特有の、まちがった考え方なのですね、これは。
この際、はっきりいっておきますが、
「男のコにモテたい」
と真剣に考えるならば、
「共学の大学、あるいは共学の大学が併設されている短大へ行ってはイケナイ」
のであります。モテるのは、そういうところに通っている女のコではなく、
「女子大か女子短大に行ってるコ」
なのです。モテたいのに、共学の大学へ行くなんていうのは、自殺行為に等しいです。
どうしてでしょうか?
答えは簡単です。共学の大学へ入ると、そこの学校の男のコとしか、仲良くなれないのですね。ごくまれに、どんな大学に通っているかには関係なく、どういうわけか、やたらと他の学校の男のコに顔が広い女のコもいたりしますが、フツーは、まず、その大学内にいる男のコ選びの範囲が、限定されてしまいます。
クラブも学内のメンバーだけだし、女子大なら他の学校との合同クラブが豊富にある。このことだけを考えても、まったく不公平です。おまけに、運命を共にしなければならない学内の男のコたちが、思い切りダサいのばかりだと、そーとー悲劇的です。
また、医学部や慶応のテニス同好会とかの主催するディスコパーティーのチケットも、女子大で大量に出まわり、共学の大学へは届きません。共学併設の短大にしても然《しか》り、です。なかには、卒業するまで、世の中に、そんなパーティーが存在していることさえ知らずにすごしてしまう、生きた化石、はたまた、シーラカンスのような人もいます。
この現象を、
「女子高ウッ屈性共学大学パラドックス」
といいます。最近は、この現象の深刻化がとみに問題視され、女子高時代にハデに遊ばせるしかないのではないか、いや、それでは従来の需要と供給のバランスが崩れる、などと、識者の間では議論が盛んです。
つまり、
「もう、女子校なんてイヤ、男のコにモテたい!」
と思って、セッセとお勉強をして、立教や学習院、上智といった共学の大学へ入学しても、期待に反して、知り合いになれるのは、同じ学内の大したことない男のコたちだけなのに、彼女たちよりも模擬テストの点が悪かったものだから、もっとミーハーな女子大に入っちゃった女のコのほうが、やたらといろんな大学の男のコから誘いがくる、という逆説的現象が起きるわけです。
共学大学に併設されている短大の場合は、わずかに、青短や学習院の短大など、ごくごく少数の「メジャー短大」ならば、チャンスは残されていますが、カヨコちゃんの通った玉川あたりだと、
「慶応のパーティーチケットはまわってこない、学内の男のコたちはインポ少年」
といった状況になっちゃいます。こうして、カヨコちゃんの期待は、
「高校から短大へ、短大から就職へ」
とまあ、夢は枯野をかけめぐっちゃうのでした。