新しいお洋服を買っても、いいレストランに入ってお食事をしても、心の充足というのは、ただその瞬間だけで終わってしまいます。そういう断片的充足を繰り返し、エスカレートしていっても、結局、虚しい。
で、その虚しさをなんとか埋めようと、恋愛に走るわけです。
恋愛に代わって、その虚しさを埋めてくれるものは、もはや見いだせない時代ともいえます。そうなるとつねに、肉体的にも精神的にも、抱き合っているほうが安心できるわけです。もちろん、それにしたって、その瞬間、その瞬間の充足感、でしかないことは、確かです。でも、だからこそ、
「いっぱい恋愛したい」
という衝動は、うしろめたいものではなくなるのです。そんな風に思う必要はないんです。そう思い込んで、恋愛することに尻ごみしてはダメです。もちろん、失敗も恐れてはいけませんね。
確かに、従来、文学や映画などに描かれてきた、恋愛は「魂の交歓」であり、恋とは相手の生を生きることであり、愛とは耐えることだった、という、古典的な恋愛のパターンからは、かけ離れているかもしれません。
しかし、ドラマ化された「恋愛」は、えてして、そういう考え方を美化して印象づけるために、都合の悪い部分を省いてあったりもするもんです。
たとえば、『小さな恋のメロディ』って映画がありましたよね。あのラストシーンは、愛しあってる少年と少女が、親からのがれて、二人でトロッコを動かして、地平線の向こうまで続いてるレールの上を走り去っていくんですよね。
あのシーンを見て、だれもが、
「ああ、いいな」
と思うかもしれません。ボクだって感激しました。でも、物語はそこで終わってるんですね。地平線の果てに小さくなって消えちゃって、その先のドラマは描かれないわけです。
ところが、ボクたちは、そのラストシーンを観たら、映画館を出て、ちゃんと暮らしていかなくちゃならないわけですよね。ボクらには、具体的な人生がある。なんとかして生きてかなくちゃならないわけでしょう。小説や映画のなかの主人公たちは、別に、本当に生きてるわけじゃないから、ただ観客の心をモテアソブだけでいいんですね。
ボクらだと、トロッコを片づけないといけないし、寝るとこを確保したり、毎日の食事をどうするか、マジメに考えなくちゃならなくなるわけです。
かつては、そういう都合のいい恋愛なんていうのを、小説や映画のなかで、ドラマとして疑似体験して楽しんでいたんですが、もう、いまやそれもかなわなくなってきてる。そうでしょう。子供ならまだしも、オトナがいまどき『小さな恋のメロディ』を観《み》て、シラケずにすむもんでしょうか?
それと同時に、恋とは、愛とは、っていう形而上学《けいじじようがく》的なものの考え方が、どう考えても「ウソっぽい」と思うようにもなってきたのです。だって、現実の世界は、当然のように形而下的に展開してるわけだし、哲学者のいうようないいまわしは、それこそ、本のなかにしか実在しないんですから、リアリティーが感じられないわけです。
もちろん、声高に、あいもかわらずそういうことを叫ぶ人たちもいます。だれだって物語のなかで暮らすことはできないんだけど、躍起になって「文学的」な恋愛至上主義をまかり通らせようとする人たちがいますね。
崇高な愛と、それを断ち切ろうとする現実社会、その板ばさみになって苦悩する主人公たち……といった古典的恋愛パターンが、依然として「現実的」だと思っている「文芸評論家」の諸先生がたなどが、その代表選手です。
ところが、その実、そういう先生がた自身は、というと、これがまことにもって「非文学的」恋愛を得意としていたりするんですね。プラトニックなものよりも、肉欲的なもののほうを、一段下にランクしてます、みたいなことをいいながら、実地には、まったく逆の行動パターンをとっていたりするんですよ。
「田中康夫の小説は中身がない」
とか、
「女子大生が銀座で酌《しやく》をして働くなんて、けしからん」
なんて書いていたりする文芸評論家のオジサンなどは、前にも書きましたけれど実際に銀座のクラブへ行くと、
「お、このオンナいいなー。今晩ホテルに行きてェなー」
とか思って、しきりと焼き肉屋に誘おうとするわけですよね。
「青春小説におけるみずみずしさとは何か?」
みたいなことをいったりしてる人も、結局、一番関心あることは、銀座のおネエサンを焼き肉屋に連れてったあとで、セックスにまで持っていく、ということなわけですよ。
つまり、形而下の問題が、最も人間らしいことなのに、口ではそうはいわないんですね。でも、体は正直だから、ちゃんとやりたいように行動しちゃってるんです。
ですから、そういう従来の恋愛論っていうのは、本来、「裸の王様」なんですよね。ただ、崇高な文学的恋愛論をぶって王座についているというだけのことなんです。しかし、恋愛小説にしろ恋愛映画にしろ、毎日を実際に、現実的に暮らしている人たちから見たら、「絵空事」以外のなにものでもないことになる。「裸の王様」が、本当はやっぱりムキ出しだ、ということが見えるようになってきているんですよね。これから先も、その傾向は、ますます強くなると思います。
恋愛についていえば、だれでも、
「結局、肉体的なヨロコビにまさるものはないんじゃないの?」
という風に思い始めているわけです。そうです。みんな敢えて、声に出してはいわないけれども、表立っていないにせよ、だれもがそう思い始めてるんです。この「だれもが」ということが、大切ですね。
この傾向は、日々の日常生活を、「感性」という「女の理論」で生き抜いている女性のほうに、色濃く反映されつつあります。「論理」でものごとに決着をつけようとする男性は、どうしても保守的になりがちで、いまだに古色|蒼然《そうぜん》たる変愛論の幻想を抱いているような、純情少年や鈍感オジサンたちが、ワンサカ大勢いますね。
�気分の時代�をとらえるには、女の理論である感性をもってしたほうが、ピッタシくるのは当然で、いままでの古いパターンの恋愛を、刷新していくのは、女のコたちが中心となっていくことになるでしょうね。
女のコの場合、はっきりいって、キスされるときも、ただ目をつむっていても、できるわけですよ。もっといえば、バージンを捨てるときでも、自分が「イヤじゃない」と思える許容範囲内にいる男のコならだれでも、自由にチョイスできますし、目をとじて横になっていればいいんです。
そして、キスにしろセックスにしろ、
「この人、ヘタね」
と思えば、もう、その男のコとつき合わなきゃいいわけですね。恋愛において、いろんな面で技術的に劣る男のコたちは、どんどん、女のコによってハネられていく。これからの、いや、いまももうすでに始まっていますが、「恋愛は、積極的な女のコ主導型になっている」ということをはっきり断言できるでしょうね。