途端に、月代を延ばして、一人が額に疵のある、人相のよくない着流しの浪人風の奴が三人、市場へぬうーっと入って来た。一瞬商売人の縮み上ったのがわかった。小吉ははゝーんという顔つきで、ふところを押しひろげて、平然と扇子で風を送っている。
三人は眼をむいて四辺を睨み廻してから小吉の方へずか/\とやって来た。
「おい」
一人が精一ぱいの大声で怒鳴りつけて
「貴様、何処の奴だ」
とぬっと顎を突出すようにした。小吉は稲妻のように扇子を、さっと閉じたと思うと、ぴしッと対手の鼻がしらを打った。対手はわッといって鼻を押さえてのけ反《ぞ》った。
「お前らおれが面を知らずに、よく|ごろつき《ヽヽヽヽ》で飯が喰えるね」
「き、き、貴様、何処の奴だ」
一人は押さえた指の間から鼻血がぽたり/\と滴った。二人は刀をぬきかけて肩で大きく息をしながら爪先立ちに詰寄りながら重ねてきいた。
「おれかえ、おれは本所《ほんじよう》の勝だよ」
「か、か、勝?」
「剣術遣いの勝小吉だよ」
「えーッ?」
三人は一緒にものの六尺も飛びすさった。
「か、か、勝先生」
「帰るがいゝだろう」
「は」
「何にか筋の立つ銭儲けを考えてお出で。相談に乗ってやるよ」
「は」
小吉は三人一かたまりになって、かしこまっている前へ、すばりと立って行って
「帰りに蕎麦でも喰ってお行き」
紙へ包んだ二つ三つの小粒を一人のふところへ投込んでやった。
三人は出て行った。鼻血がその辺の板の間に点々と落ちている。市の者はみんな無言で、小吉の方へ頭を下げた。すっかり胆を奪われて言葉も出ないのだろう。
「ほら、その辺に血が見える。ふくがよくはないか」
「へえ」
この市の世話焼が、栄助とっさんの方を見て
「大層悪い奴らでしてねえ。ひどい晩は三両もとられましたよ」
と早口でいった。
「もう来ませんよ」
栄助がにや/\してそういう耳元へ口を寄せて
「滅法な御威勢ですねえ」
「頼まれたとて爪の垢程の悪い事などはなさらないお方故、悪党共はおそれますよ」
栄助はちょっと肩をゆり上げた。
小吉はこの夜、自分の儲けた金を一文残らず世話焼の前へずらりと列べて
「さ、この半分で、おれがみんなへ酒なり蕎麦なりを買おう。これから先き商売でいろ/\面倒を見て貰って儲けなくてはならぬ。みんな、どうぞよろしく頼む」
「飛んでもない」
とこの白壁町の市の世話焼さんのいうのを栄助が何にやら低い早口で押さえて、間もなく、酒や蕎麦が来たが、小吉と栄助だけは道が遠いからといって、帰って来た。
歩きながら栄助は何んとなく肩身が広くなったような気持がして、自然に心が浮き立つ。それにも増して神田の市では大変だった。
「いゝ旦那だねえ」
「栄助さんはあゝは云うが、小普請の御家人だ。どんなものだろうと思っていたが、いやもう心の底から頭が下りました」
「あの三人は、腕も強いし、ふだんからずいぶん|げじげじ《ヽヽヽヽ》見たようだが、ひとったまりもなかったねえ」
「悪い事をなさらないから悪党共は怖れると栄助さんがわが事のように小鼻をうごめかして云ってた、あの顔も見ものだったよ」
「あの人も気のいゝものだ」
夜道が更けて、両国川岸で小吉は出しぬけに
「世話焼さん、うっかりしてたが、もう、天の川があんなにはっきり見える。夏だ/\といっている中に、そこまで秋が来ていたねえ」
暗い大空を仰いで指さした。
それから小吉は、神田の市には無くてはならぬ人になった。行く度に道具屋達がいゝ売物買物には、みんな潮時を見て、そっと耳打をしてくれるので、売買の度に必ずいくらか儲けになる。その儲けで、その時に三十人いようが五十人いようが、みんなへ蕎麦なり酒なりを振舞って帰るので市の人達は、これでは勝様へお気の毒だといって、いっそう儲かるように仕組んで呉れた。
はじめは旦那々々といっていたのがいつの間にか殿様々々というようになっていた。
月が出ていた。
小吉は途で栄助へ
「あの三人のゆすり屋はあれから後どうしているだろうなあ」
と出しぬけにいった。
「さあ、いっこうに噂もききません」
「そうかえ。何処かへ行っていっそ悪事を働いてるか、それともひどく困ってるかなあ」
「へえ」
「おれなどは果報者で、何にも出来ないにお前らみんなで親切にして、遊山の掛捨無尽まで拵えてくれたねえ。有難い」
「いや、みな、あなた様のなされ方がおよろしいからで御座います」
思いもかけず小吉が麻布今里の水心子秀世の家へやって来たのはそれから少し経ってからで、本当にもう秋らしいさわやかな微風が吹いて、空は拭ったように澄み切った日であった。
水心子はびっくりした。
「御用がございましたなら、一寸お使でも下さればよろしかったのに」
「邪魔をして不都合ではねえか」
「いゝえ、御預りの一口を磨上げまして、お渡し申したところで」
「そうか。実はいつぞや犬を斬って台無しにしたお前の上出来の刀の代。やっと三両二分出来たから、これだけでも入れて置いて貰おうと持って来たのだ」
「え?」
「おれは近頃は番入をした気で方々の道具市を毎夜のように精を出して廻って儲けているのだ。売物の|ぶいち《ヽヽヽ》という物を百文について四文ずつ除けて見たら知らぬ間にこれだけと、外に端銭《はぜに》が少々たまった。それで気になっていたお前の刀代の中を持って来たのさ」
「滅相もない」
と目を丸くする水心子へ
「無尽の掛捨で纏った金を貰ったはお前も知っているが、あんな金でお前の借銭はけえし度くなかった、云わばおれが勤《つと》めて儲けた金でかえしに来た」
「そ、それはいけませんよ先生。あの刀はわたしが灯籠を斬って」
「馬鹿をいうな。とにかくけえす銭《ぜに》だ。受取って呉れ」
応対をしていた店先へ、包んだ金を、ぽいと置くと
「残りはまた持って来る」
小吉はもう外へ出て終っていた。
「先生、先生」
水心子は履物を片っ方突っかけて、追ったが、小吉は角の旗本屋敷の塀について廻って、姿はなかった。
入江町へ帰ったのは夕方である。
麟太郎が大きな声で本をよんでいるのが屋敷のずっとこっちまで聞えている。にっこりして何気なしに入ると玄関の薄暗がりに、東間陳助が、しょんぼりと坐っていた。
「どうした」
「ちょいとお話があります。どうぞ」
あわてて、立って外へ出た。
大きな月が昇りかけたところだった。
「碌な話じゃあねえな」
「はあ。——お坊ちゃまがいられますから」
「何んだ」
「実は平川右金吾が逐電しました」
「隣りの用人様が逃げた? それにしては、こちらへ何にも云って来ないは妙ではないか」
「岡野様ではまだ気づかれないのでしょう」
「ほう」
東間の話によれば、右金吾が久しぶりにこの頃東間の住んでいる表町光徳寺稲荷横丁の裏店へやって来たのは、もう二た刻ばかりも前で、顔色も嫌やに青く、元気がないから、どうしたんだというと、実は先生の仰せつけであゝして千五百石の用人になったが、岡野家はとても自分の腕ではやって行けない、殿様の度々の金の御用で、先生があゝして道具市にまで行って、ちょいちょいお心をくばっておれの為めに拵えて来て下さる金ももう四十何両にもなる。それとて焼石に水も同然で、それにまた差迫って金の仰せつけだ。一体、何処まで金の工面をしたらいゝか底が知れない。その上あれ以来只の一度も剣術の稽古もしない、先生とは堅い約束をしてありながら仮りに竹刀を手にしようともしない。こんな次第で自分がまご/\していれば居るだけ、先生に御心配をかけるから、こゝら辺で思い切って身を退くという。
小吉は
「馬鹿奴、それではこれ迄がみんな水の泡だ。辛抱の足りねえ奴だ」
と思わず舌打をした。
「はあ、わたしもそれをいろ/\申したが、このまゝでは結局切腹でもしなくてはならぬ羽目になるのが落ちだと云いまして逐電するという。お詫はお前からくれ/″\も先生に申上げてくれ、右金吾は例え屍を何処かの草むらに晒すような事があっても先生の御恩は忘れないと声をあげて泣きました」
「仕様のねえ奴だ。お前、どうしてつかまえて此処へつれては来ないのだ」
「はじめは争いましたがだん/\話している中に、わたしも、それより外に法はないと思ったからです」
「何処へ行くといった」
「諸国を剣術の修行して歩く、若し駄目になったら乞食にでも何んにでもなると」
「ふところにいくらか銭を持っていたか」
「ありません——で、わたしも当座の路用だけでもと思い刀から衣類、洗い浚いを質《かた》に、金を借りようと出かけて、話を定めて大急ぎで戻ったら、もう平川は居りませんでした」
「お前が金を? 馬鹿ばかり揃っていやがる」
小吉は投げつけるようにいったが、月に眼の中がきらっと光った。うるんでいる。
「おれも家出をして伊勢路で乞食をした事があるが、剣術遣えよりは余っ程苦労だぞ。が、あ奴の腕は田舎へ行けあ先生で通る。乞食にならずとも飢《ひ》もじい思いはしねえだろう」
「しかし、右金吾は腹が弱いから、水替りの旅へ出るとそれが心配です」
「子供じゃあねえ。そんな心配はするな。この一件、お前、お信へ話したか」
「いゝえ申上げません」
「上出来だ。所詮はわかるが、悪い知らせは一刻も遅いがいゝわ」
「はあ。わたしもそう思いましたから」
小吉は東間に別れてその夜はそのまゝ知らぬ顔で黙っていた。
次の朝はびっくりして、岡野から誰かが迎いに来るだろうと思っていたら、ぷつりとも云って来ない。
次の日も/\——やっと五日目の夜になって、ます/\痩せ細った奥様が例の庭の切戸から姿を見せて、小吉夫婦の顔を見るや否や、わッと声をあげて泣いて終った。
「いかゞなさいやんした」
「はい、はい」
「用人が逐電と、友達からきいたが、どうして知らせませんでしたか」
「そ、そ、それは孫一郎が堅く秘しまして——」
「あゝ、そうか、殿様がまた何にか悪い案文をおかきですね」
「毎夜参ります米屋の娘の伯父とか申す大川丈助という者を用人にいたしました」
「はっ/\、入江町の岡野の用人は銭が儲かると、江戸中大そうな噂だから、|まかない《ヽヽヽヽ》用人のなり手は沢山ありましょう」
「本朝孫一郎が早くも五両の入用を申しつけましたところ立ちどころに用立てましたので、上機嫌でござります。勝様、——」
奥様はうつ伏して泣いて、その先きの言葉がよくわからない。
「は?」
「お助け下さいまし。このような苦しみをいたす位なら、わたくしは死んだが増しでございます」
「それはいけない。奥様、いつも/\申す通り岡野が家で、真《ま》っ当《とう》はあなた様お一人、後は皆々気違いでございますよ。そのあなた様が、そんなお気弱ではどうなさいます。わたしがお信を御覧なさいまし、貧乏などは何んでもないものです。あなた様が気違い共と戦って、この屋敷を守らなくては、折角の御名家が忽ち潰れて終いますよ」
「と申しましても、この、朝から夜中まで|どろ/\《ヽヽヽヽ》したような屋敷の中で、わたくしは呼吸をしているも苦しくて、もう/\堪えられなくなりました」
「まあ、もう少し御辛抱なさいまし。お辛い時は、わたしがところのお信へ来て、思う存分お泣きなさるがいゝ」
「用人は、さき程も、わたくしの目の黒い中にきっと殿様に御番入をおさせ申すなどとうまい事をいって居りました。何だか恐ろしい事が起きるでございましょう」
「御番入に先立つものは金だから、これで用人が大儲けをするつもりだ。まあ、いゝ、奥様、小吉が隣りからじっと見ている。板塀一重の隣屋敷、わたしはね、その辺で針が一本ころがってもわかる修行はしてあるつもりだ、伊達や酔狂で、永げえ間、木剣いじりをしていたんではありませんよ。まあ/\、秋もだん/\爽やかになる、お辛くも笑ってご辛抱なさいまし。すぐお側には小吉も居れあお信もいる。はっ/\、悪党共に何にが出来るものか」