空は真っ青だが、岡野の庭の太い松の梢と梢の間にだけ、線をひいたような白い雲が見えている。
小吉がずか/\と用人部屋へ入って来た。
「お前かえ、用人の大川丈助てえのあ」
「はあ」
丈助はもう四十がらみの、額にも頬にも皺の多い小柄な人間であった。
「おれあね、隣屋敷の勝だが、御隠居にも殿様にも頼まれている。お前、何んで挨拶に来ねえ」
「はあ」
丈助は部屋の隅っこ迄飛びすさって畳へ額をすりつけ乍ら
「殿様の仰せで、お直々にお引合せ下さるとの事でございましたので」
「そうか」
小吉はちょっと舌を出して、こ奴、何んとなく気に食わねえ、一筋縄の奴じゃあねえなと心の中で思った。
奥へ行ったら孫一郎がまた寝ていた。
「いゝ用人が来て大そう結構な様子だね。殿様も御番入の日勤をはじめたというがいゝねえ」
小吉はにや/\していった。
「いやそれはやらない。用人がやって呉れている。わたしは黙っていてもいゝと云うよ」
「へーえ、そ奴あいっそ結構だ。御支配の松平伊勢守様とおっしゃるは滅法癇癪のお方というし、戸塚備前守様はひどい吃りで万事組頭の松平利右衛門というがやっている。これが利慾の強い男ときいたし、伊勢守様は麻布の百姓町、備前守様は牛込の飯田町。これは殿様の日勤も並大抵ではないと思っていたが、御番入に黙っていてもいゝは前代未聞な結構な話だ。殿様、あなたとんだ仕合《しあわせ》ものだね。今度は、奥様も御安心なさいやんしょう」
「しかしね勝さん、本当をいうと用人は頻りに力むが、わたしは御番入などはしたくないよ。知行所の百姓達をうまくだまして、まとまった金でも借上げられたら、その方がいゝのだ」
「まあ、そう云わずに、一つ、御勘定方にでもなって、馬へのって槍を立てて登城をしなさい。入江町もこの頃のように江戸の芥《あくた》の掃溜見たいでは仕方がない」
小吉は上べはまじめでそんなことをいっているが、からだ中が掻いようで何んだか気持が悪くなって来た。
「米屋の娘は別嬪だと評判だね」
「そうか、みんなも然様《そう》云うか」
小吉は、とう/\堪らなくなって飛出して帰りかけたが、ふとまた気がついて、用人部屋へ入って行った。
丈助は奥の様子へ聴耳を立てていたところへ小吉が引返して来て、ずばりと自分の前へ坐って、瞬きもせずに顔をじいーっと見詰めているので、次第に背中が冷めたくなった。
小吉は、自分の刀を軽く叩いて
「これはね、池田鬼神丸国重だよ。元は備中の刀匠だが、摂津の水田に移って代々名刀を鍛えている。わたしなどはとても及びませんと水心子がよくいうがね」
にや/\笑って
「殿様の御番入が出来たら、お祝に差上げるつもりだ。その代り、誰か悪い奴が殿様をたぶらかして金儲けをしやがったら、そ奴の胴を斬り払ってやる。三つ胴は試し済みだよ」
「はあ」
丈助は眼を伏せた。
「お前、殿様の御番入で大層はたらいてるというが、金はもうどの位要ったえ」
「はあ、今のところいくらでも御座いませぬ」
「いくらでもといってどの位だ」
「三十両でございます」
「ふーむ、三十両ね。その外に柳島の御隠居江雪がところへいくら届けた」
「五両でございます」
「偉いッ!」
と小吉は手を打って
「お前、如何に|まかない《ヽヽヽヽ》用人とは云い乍ら滅法金の工面がつくじゃあねえか。御番入成就までにどれ程のもとでを注込むつもりだ」
「はい。それはわたくし共にはまるで見当もつきませぬが、五百両程もと——」
「はっ/\/\は」
小吉は出しぬけに大きな声で笑い出して
「馬鹿奴、おれが親類で三千両つかって、やっと甲州の代官になった奴がある——が、お前は智慧者のようだ。それ位で番入を物にすれあ、おれも一つ頼むとしよう」
やがて帰って行く小吉を、丈助はぺこ/\しながら送ったが、うしろ姿が無くなって、やっとほっとして、べったりと尻を落して坐った。
「お、お、おどかしゃあがる」
ぷつりといって
「が、男谷家という立派な兄を持ち乍ら御番入も出来ない、知れた男だ、力では叶わねえが、智慧ならこっちが敗けるものか」
唇をゆがめてにやりとしたが、おどかしゃあがるとも一度呟いて汗をふいた。
三ツ目の市へ行くとすぐ小吉の後を追って北組十二番の纏持松五郎と、竪川向いの中組八番の頭取伝次郎がやって来た。小吉はじろりと睨んで
「何んだお前ら」
「へえ、お願いがあってめえりやした」
と年上だけに伝次郎が先に口をきいた。
聞いてやろうと小吉は云ったが、二人とも四辺を見廻して暫く口ごもっていた。世話焼さんが目ざとくこれを見て、こちらは埃《ほこり》っぽいからと、自分の住居の方へつれて行った。
「また喧嘩でもしやがったか。おれは知らねえぞ」
と小吉はまじめな顔をした。
「飛んでもありません」
と松五郎はお辞儀をして
「伝頭《でんがしら》から申上げて下せえよ」
伝次郎がうなずいて
「先生、お叱りなさらねえでおきき下さいやし。実は御存知の入江町の切見世でござんすが」
とやっといった。
「坐り夜鷹《よたか》がどうかしたか」
「へえ」
「余り跋扈《ばつこ》がひでえから近々にお取潰しになるかも知れねえと噂をきいた」
「そうなんで御座んす。それでいっそうひどくなりましてね。元来あの辺りは緑町から花町、吉田町、吉岡町にかけ十八カ町を北組十二番の持場でござんして、清七と申す頭取が揉め事喧嘩一切を取捌いて居りましたが、近頃、ひどく腕っ節の強い御浪人達が毎夜八、九人はやって来ましてね。どうせお取潰しになれば、何にもかも有耶無耶になるんだから、今の中だという次第で」
「侍の火事場泥棒か。ひどいね」
「先生」
と松五郎が膝を乗出して
「遊びに来る客が一人や二人は必ず斬られる。それどころか、お金ばかりか着ている物まで引っ剥がれる、打たれる、蹴られる、見世の前に夜っぴて人が打倒れているという有様でしてね。それで町方《まちかた》の御役人方へお訴え申しても、てんでお受付けは下さいません。河岸の番屋にお姿が見えているから、実はこう/\とお訴え申しますと、こちらは御用多《ごようおゝ》でとてもそっちへ廻ってはいられぬ、所の者で取鎮めろといって、さっさと何処かへ行って終います」
「へーえ、役人も怪我をするは嫌やだからな」
「先夜も北町御奉行所の本所御見廻の御下役村田、田辺、持田というお三方が与力の加藤又左衛門様お揃いで長崎町東河岸番屋へお立廻り遊ばしたので、丁度その時、浪人が暴れていましたのでお訴え申すと、捨て置け/\といって、ぷいッとお発ちなさった。それっきり未だに一度のお見廻りもござんせん」
「へーん」
「御浪人方は図にのって、一夜に女一人について五十文、お客一人について五十文ずつを出せといって押込同然に見世からこれを攫って行く」
小吉も少しあきれ顔だ。
市場の方で世話焼さんの頻りに何にか忙しそうに云っている声がもれて来る。
「一切《ひときり》百文がまるっきり|ふいてこ《ヽヽヽヽ》になりやすですからね」
と松五郎はだん/\小吉へくっついて来て
「切見世の方からこゝを持場にしている清頭《せいがしら》のところへその尻が来る。清頭が出て行って掛合ったが、腕ずくでは叶いやせんよ、これがあべこべにやられて額を割られ、それっきり寝込んで終いやした。若い者達はわい/\いうが、いざとなると、手がでません」
「それで」
と今度は伝次郎が
「嬶の縁つながりで、清頭からあっしのところへ持込んで参りました」
「お前、山之宿の佐野槌で、鳶口長鈎でおれに向って来た程の奴だ。出て行って押さえろ」
「も、もう昔の事はおっしゃらねえで下さいましよ先生。そう云われると、穴を見つけてへえらなくちゃあなりやせん。そこでまあ松五郎と相談しましてね。これあ勝の先生へ」
「はっ/\、お前ら、おれを喧嘩に向けるかえ。おれあ嫌やだよ。第一、あすこは小便臭くていけねえ」
「え?」
「山之宿位|離《はな》れて居ればまだいゝが、切見世は、すぐ其処じゃあねえか。おれがところのお信はな、化物見てえな妙な女がその辺にうろ/\してるのが何にかにつけてひょいと目につく事がある。麟太郎もきっとあれを見かける事がありましょうから、一日も早く何んとかして、外土地《ほかとち》へ地退《じだ》ちを致しましょうと云っている位だ、そんな眼《め》と鼻のところでおれが喧嘩が出来るか」
「へえ」
「すぐに家へ知れて終うわ。それにお前ら何んだい。この節の火消の者あ大そう意気地がなくなったものではないか。おい松五郎、お前、どうしてもおれに喧嘩をさせてえなら、そっとお信と相談をして来る事だ」
「へ」
「さあ、お信は何んというだろうな」
「弱い小前の者がそ奴らに苦しめられてひどい目を見ている。そんな無法者を黙っている人ではないから、松五郎、御案内を申せ——と、へっ/\、こうおっしゃいやしょうね」
「こ、こ奴が、こ奴が」
と小吉は額を叩いて笑った。
そこへ世話焼さんが顔を出した。
「勝様、またお客様でございますよ」
小吉は妙な顔をした。
「また来やがったかえ。何あんでえ、どうせ碌な奴ではないだろうが誰だ」
「割下水の外科御医師篠田玄斎先生でございますよ」
「おう」
小吉はいさゝか驚いて、同時に眉をよせて閉口した。
「おれが子の麟太郎が——おい、伝次郎、お前がところの犬に睾丸を喰われた時に疵口を縫って貰った外科|方《かた》だが、おれは貧乏だから未だに碌な薬礼はしていねえのだ。きまりが悪いよ」
「そんな事はくよ/\なさる事はないでございましょう。お逢いなされましよ」
世話焼さんは引返してすぐに玄斎を連れて来た。
「やあ、その節は」
小吉は、古ぼけた畳へ平つくばって迎えた。
「面目次第もない」
「いやあ、それはこちらで申す事。あの時にあなたが、大刀をずばりと畳へ立てて、池田国重だ、これを見ろと云われた時に、わたしは、はっと正気づいた。あれ程の急所の疵を縫いおゝせたのは医者冥利、勝さん、あなたのお陰だ」
「恐入った——ところで、わたしがこゝにいるとよくおわかりだったね」
「あなたが、市日にはこゝにいられると、もう本所では知らぬものはない」
「はっ/\、御旗本の恥っかきが、そんなにも知れ渡ったか」
みんな笑った。玄斎は暫く黙っていたが、やがて、松五郎や伝次郎を半々に見乍ら
「お頼み事で参ったが」
「せがれを助けて貰ったのだ。出来る事ならやりましょうが、喧嘩はいけませんよ、もう先口がありやんすから。はっ/\は」
松五郎、伝次郎はうつ向いて頭を押さえた。
「いや、然様な事ではない。実はわたしの妹というが若後家でしてな。これが通町《とおりまち》の秩父屋三九郎と申す公儀|小遣物《こづかいもの》御用達の奥向に奉公をしている。ところがその家が段々衰えましてな、今ではその株が外にも出来て、一向に御用がない、家が衰える一方でまことに困っている、何んとか法はないものかと、わたしに相談がありました。そう云われて見たところで多寡が町医者のわたしに法のある筈もない。妹の身の上も思いあれやこれや気の毒に思っていると、昨夜また妹が来ていうに、此節末姫様が芸州へ御引移りとのことで——」
「よし、わかった」
と小吉が手をあげて、玄斎の言葉の先きを制した。