切見世の界隈はいつの間にか静かになった。調子はずれな空々しい女の笑声などが時々したが——。村田長吉はとにかく松五郎の家に落着く事になって松五郎と一緒に先きに花町|裏店《うらだな》に帰って行った。
伝次郎は切見世の顔役達と、会所で小吉に礼をする。伝次郎は
「これで、清七頭に頼まれ甲斐もあり、手前の顔も立ちまして、このような有難い事はござりません」
と幾度もくどく礼をいう。小吉は少し不機嫌になって
「もう止せ。これで二度と彼奴らが来なけれあいゝのだ。間違ってでもやって来たら、今度あ、一人残らず斬っ払ってやる」
ぷいと立つとそのまゝ帰って終った。
道端がびしゃ/\した気持の悪い切見世を急ぎ足で通るのへ、伝次郎がまだくっついて来る。
「困ったなあ、これじゃあおれも、ほんとにところの|ごろつき《ヽヽヽヽ》の親分だ。亀沢町《あに》の耳にでも入って見ろ、何にを云われるかわからない」
考え乍ら、途中で伝次郎を追い帰して、知らぬ顔で自分の家へ入って来た。
お信も麟太郎も夜中だというのにまだ起きていた。
「麟太郎、明日の稽古につかえるではないか。お信、お前、子供をこんなに起こして置くはいけねえね」
麟太郎は、にこっとして
「わたくしはまだおさらいがありましたので起きて居りました。お父上が、おいそがしくしていられますので、わたくしは先きに休むのは嫌やです」
「さらいというならいゝが、おれに構ってはいけない」
「どうしてでございますか」
「ど、ど、どうしてったってお前」
と小吉は言葉が詰って
「いゝから黙って早く寝め——仕様のねえ奴だ」
横でお信がくすっと笑った。
「お留守の間に、精一郎どのがお見えでござりました」
「ほう、珍らしい。用か」
「はい、御用と申す程ではござりませぬが、山之宿の喧嘩の一件がこの程になって、御兄上様のお耳に入り大層な御立腹で、また一間住居《ひとまずまい》にさせるよう御支配|方《かた》へ御願いするとの事で」
「はっ/\は。また座敷牢かえ、あ奴あ真っ平だ」
といって、ふと麟太郎へ気づき
「これ、早くねるのだ」
と叱った。
道具市の方から、今度は切見世へ来る乱暴者の世話まで見てやらなくてはならぬような羽目になって、小吉も内心は少し弱って来た。
それにもまして気になるのは恩のある篠田玄斎と約束をした秩父屋の一件で、とう/\蓬莱橋の料亭芳むらで、玄斎と一緒に三九郎夫婦に逢った。
三九郎は色の白い丸顔で肩のうすい白っちゃけた顔であった。内儀は痩せて小さく何処か冷たい顔つきだ。しかも
「へゝーえッ」
といって、平蜘蛛のように、必要以上にへえつくばった三九郎の首筋の辺りに、如何にも衰運がつきまとった家の人らしい黒い影と一緒に不思議にどきんとする程の狡猾の匂いらしいものを、小吉は感じた。
酒を出したが、小吉は一杯ものめない。玄斎が頻りに取持って、話をだん/\用件の方へ持って行く。
三九郎は声を低めて
「末姫様の御師匠番というお方があられますそうでございますな」
「おれは、そういう事はとんと迂闊《うかつ》だよ」
「へえ、それでで御座いますね。手前共へ御用達の貫札が下り次第、そのお方様には速刻当座のお礼と致しまして金子三十両差上げまする。それからそこまでお手引下さる阿茶の局様、またその中にお入り遊ばします御年寄様——」
「そんなに面倒かえ、おれあそれじゃあ嫌やだ」
「まあ/\そう仰せられず、秩父屋一生の御恩に着まして、後々、如何様の事も仕る所存——おかゝり合せのお方々様には、残りなく金子十両宛献じますでござります。元より、あなた様にも——」
といったら、横にいた玄斎があわてて、秩父屋の袖をぐいッとひいた。礼などといったら小吉は嫌やだと云いだすだろう。それがこうした商《あき》ン人《ど》だけに秩父屋もぴーんと来て、急にへら/\笑って終った。
その夜はいゝ月であった。
小吉は次の日、まるで消えて終う程に小さくなって御城へ上って、麟太郎の事でいろ/\心配して貰った阿茶の局に逢って、実は、これ/\の次第でのっぴきなりませんのでと頼んで見たら、阿茶の局はいゝ塩梅に承諾してくれて、御本丸の御年寄瀬山という老女へ親類の者故とうまく引合せてくれた。
「ヘン、商ン人なんぞというものは世間には知れねえ御本丸内の事まで何んでもかでもよく知っていやがるわ。そんな手蔓をたよっては儲けよう/\としていやがる。末始終いゝことがあるものか。侍の御番入日勤も同じだが、世の中というのはこんな道ばかりが多いようだ」
小吉はそう思った。
月を見ようとして高い山へ登る。道が三筋ある。真ん中が一番嶮しくて、鼻をするようである。右を行けば道は平らだしところ/″\に喉をうるおす清水もこん/\と湧いている。左を行けば道傍に花が咲き小鳥が歌っている。右を行った者はやがて月を見た。が、それはそこにあった鏡のような湖の面に映った月であった。左へ行った者も月を見た。しかしそれはそこを流れている小川へ映った月であった。この二つの月は水が無くなれば一緒に消え去って、本当の月ではないのだ。只、真ん中の嶮しい道を、息を切らし汗を流し、苦しみ苦しんで登った者の見る月だけが、正真正銘の月である。
小吉は御年寄の瀬山につれられて御師匠番の紅井《くれない》さんという人に逢った時に、いつか両国橋畔で、何気なしにふと立聞きした汚ない坊さんのこんな辻説法を、何んという事なしにふと思い出した。
「おれあ今度あ、こすっ辛え商ン人の片棒を担いでいるわ。あ奴らあの坊さんのいう本当の道を歩いちゃあいねえ仲間《なかま》だ。ふゝン」
思わず、心の中で自分を嘲り乍ら、紅井さんへ平伏した。
話が定った。
紅井さんは、ちらりと四辺を見廻してから低い声で
「心得がありましょうの」
「は?」
「礼の事じゃ」
「は。それは秩父屋が申して居りました。貫札の下り次第当座の御礼として三十両——」
「間違われぬようにの」
「は」
小吉は眼尻に深い皺を寄せてにやりとした紅井の顔をちらりと仰ぎ見て、喉がげッ/\という程薄汚い嫌やな気持がしたが、鄭重に御礼をして帰って来た。
「さて/\、世の中には碌《ろく》な奴はいないものだ」
濠端へ唾をした。
十日ばかり経って終った。
彦四郎が山之宿の一件で怒っているという事が、いくらか気になる。もし本当にまた一間住居にでもされては、麟太郎の気持がいじけて終うだろう。こういう事になると無性にがみ/\いう彦四郎だから本当に、支配|方《かた》へそんな事を持込むかも知れない。
「精一郎と相談するかな」
こういって、家を出て男谷の道場の途で、ぱったり篠田玄斎に逢った。
「秩父屋にまだ沙汰はないかねえ」
という小吉へ玄斎は
「さあ、あれっきり秩父屋から何んとも云って来ない」
云い乍ら頭をかいた。
玄斎は少ししかめ面で
「叶うたら叶うた、駄目なら駄目と云って来そうなものだ。あれっきりという法はないな。今日にもわたしが|しか《ヽヽ》ときき合せて見る」
とぶつ/\口叱言のようにいうのを
「いや、あっちが黙って居れば叶わぬに定っている。秩父屋はまだ金を一文遣ったではなし、これでこちらは肩の荷が下りる。そっとして置こう、そっとして」
「そうはいかんよ」
玄斎はてれ臭い顔をして別れて行った。
今日は風がしみる程冷たい。秋もすっかり濃くなった。
あれっきり入江町には浪人などは一人も来なくなったし、松五郎の家にいる村田長吉はまたぽつぽつ漆喰絵をはじめているというので、小吉は、近頃になくほっとした気持になった。
何処にも此処にも無法な浪人や破落戸がはびこって、しかもそ奴ら、どれもこれも他愛もなくつぶれて終うが、また何処かへ手をかえ姿をかえて現れているのだろう。小吉は
「あ奴らも、みんなほんとの悪党ではないが、江戸というは、全く掃溜だから蠅は追っても追ってもやって来る」
そんなことを考えたりしている。
御城の紅井さんからお話申したい事があるからとの内々での使者が来た。秩父屋ともあれっきりだし、玄斎とも逢わない。
「あの話また何んとかなったのかな」
小吉がお城へ出た日は朝っからの雨であった。雨の一粒々々が光るように眼にしみた。
逢ったら紅井さんは、大変な不機嫌であった。平伏している小吉へ
「阿茶の局どのより瀬山どのと、順を以てのたってのお頼み故、わたしもこゝろよくお引受け申したが、人を愚かにするも大抵になさるがいゝ。約束はどうなされてじゃ」
言葉尻が、ぴーんと上った。小吉ははっとした。そしてあわてて
「わたくしは、御願の儀がお許しいたゞけなかったものとばかり思って居りました」
「何にを申される。あの三日後ちには、御用達の貫札も下渡し七十両余程のお小物の御用も仰せつけましたぞ」
「えーっ?」
「そなた知らぬ筈はござるまいが」
「はッ。誠に以て迂闊千万。存じませんでござりました。さ、早速、早速——」
小吉はもう紅井の前にはいられない。からだ中がくゎーっとして、しゃべり乍ら後ずさりをすると、そのまゝ御部屋を出て、大廊下を駈けるように出て行った。
通町《とおりまち》の秩父屋へ来た小吉は、袴の裾から胸前へかけて、びっしょりと雨にぬれていた。
「何んで約定を果さぬ」
平蜘蛛のようになっている三九郎夫妻を前に、割れるような大声で怒鳴りつけた。廂の深い大座敷の縁の外は竹を植えたいゝ庭で古い石灯籠を雨が小さな音を立てて叩いている。
最初小吉が感じたように、秩父屋は夫妻とも狡猾な奴である。
「は、は」
と低く対手の気合をぬいてから
「実は、これから、篠田先生に御一緒をいたゞき、あなた様のおところへ参上仕りましょうと、仕度をして居りましたところでござりました。もう、ほんのちょっと、あなた様のお越しが遅ければ、お叱りを受けずに相すみますところでござりましたに。これが——」
と内儀をかえり見て
「女の事とて、何にかと詰らぬことに手間取り、遅れたばかりに、お叱りを受けます仕儀となりまして」
ともそ/\いった。
「おれが事ではない。紅井さんとの約束はどうしたと訊いているのだ」
「へえ」
「もう十日も前に貫札も下り、御用も仰せつかったに、どうしたのだ」
「へ、そ、それがで御座りますよ」
と三九郎は
「勝様、実は仰せつけはまだ七十両そこ/\でござりまする。まる/\利得いたしましても、これだけの事。これでは三十両のお礼は差出し兼ねるのでございます。三百両が程も仰せつけいただきましたらばその砌にお礼金も持参いたします考えでございました」
「話が違う。貫札が下り次第といったぞ」
「いゝえ、決してそのような事は申しませぬ。失礼ながら、そんな事では商法が成立ちませぬ。それは勝様のお聞き違いでござります」
「馬鹿奴」
小吉は、もう刀を下げて立った。そして、右の平手でぱッと三九郎の横頬をなぐりつけると、そのまゝ、一と言も物を云わずまた雨の中へ出て行った。
三九郎は、その後でもじっとして座敷へ坐っていた。そして、内儀と顔を見合せて、にやっとしたが、やがて、わッはッ/\と、腹を押さえるようにして笑い乍ら
「知られた剣術遣などといっても、あゝいう子供と同じ一本気がいるから、こちらは儲かる。おい、ひょいとすると、これは礼金が踏めるわ」
といった。
小吉は真っ直ぐに南割下水の篠田玄斎の家へ来た。