小吉は鼻がくっつく程に顔を寄せて行った。丈助は少し逃げようとしたが、うしろが壁で一寸も退れない。
「頼みだよ。怖がる事あねえよ」
といってから
「お前も知ってるようにこの屋敷には勘定控もねえが、それよりもっとねえのが銭だ。そこで相談だ。どうだ。金を渡すは、十二月十九日まで待ってくれねえか」
「え?」
「十九日には間違げえなく渡す。その代り、前金にすぐ十五両渡すよ。勘定済になる間、この屋敷からの扶持は今迄通りちゃんとやらせる。遊んでいて扶持になるじゃあねえか。満更じゃあねえだろう」
「そ、それに間違いありませぬか」
「おい丈助、勝小吉はな、お前がように何処の馬の骨かわからねえ氏も素姓もねえ者とは違うのだ。御旗本だよ。一旦こうと約束をしたからには、間違ってなるものか——はっ/\、おれはとうとうお前のしつこい、しかも滅法|公事《くじ》に詳しいには敗けた、降参だよ。呑込んで承知をしろよ」
「よろしい。それでは十二月十九日を約定に承知をしましょう。その代りすぐに宅番もとく事だろうね」
「してくれといってもするものか、一日々々こっちは大層な物要りだよ。ところでお前、何にか云い忘れていねえか」
「え?」
「約定を違えたらまたすぐ御老中へ御駕訴すると脅かす事だ」
「云わなくとも、こちらは忘れては居りません」
「そうだろうな」
使をやって出羽守から十五両貰って丈助へ渡して直ぐに役所へ届けて宅番を解いた。
小吉は屋敷へ帰って来て顔を見ると
「お信、具合はどうだ」
といった。
「はい、お蔭様で今日は一日大そうこゝろよう御座りました」
「よかったねえ。麟太郎が時は、遂ぞそんな様子もなかったが、今度はお前もくらしの苦労が絶えねえから、知らぬ間にからだが弱っているのだねえ。すまねえなあ」
「ほほゝゝ、あなたはお珍らしい事を仰せられますね」
小吉は、ごろりと肱枕で横になって
「お前、明日、麟太郎を精一郎へつれてお行き。おれは、大川丈助に、さんざぶちのめされて、誰にも彼にも妙に顔を見られるが気まりが悪く、外へ出るはいやだ、剣術よりは余っ程骨身にこたえたわ」
「あなたのせいでもござりますまいに、さようで御座いますかねえ」
「といって引籠ってもいられねえ、これから金の工面をしなくてはならないのだ」
本家の岡野に出させる事に話は定めて来てある。が、所詮は借金になる、今の有様では元より返す的《あて》はないから、このために隠居の江雪も孫一郎も、行く/\大層困る事になる。元々分家の窮状を救うために、出す金ではなく、唯、評定所のさわぎになるのが怖いのと底深い考えもあるに定っている。
孫一郎の千五百石は知行取で村方は武州にもあるし伊豆にも、遠くはなれて摂津にもある。伊豆は近いだけにすでに借上げられるだけ借上げて、百姓はまるで饑饉の苦難だから、この上は一両も取れない。武州と摂津はまだ幾分の余地があると平川右金吾が用人をしていた時にきいた記憶が小吉にある。三百三十九両、何んとしてでもこゝから借上げるようにしなくてはならぬ。
「右金吾がいてくれりゃあなあ」
小吉はそんな事をいった。
ゆうべはお信に麟太郎を精一郎へつれて行けと云いつけていたが、朝になると
「お前、途《みち》でまた気持でも悪くなってはいけねえ。やっぱりおれが行く」
そういって小吉がついて行く事に変った。
お信が小さな鯛の塩焼を、小吉と麟太郎の御膳へつけた。
「麟太郎、うれしいか」
「はい。稽古を励んで一日も早く父上や島田先生をぶちのめすようになりたいのです。その時父上は、ほめて下さいますね」
「あゝ、褒めるとも。おれがお前の草履をなおしてやるわ」
「これが父上母上のお側をはなれて参ります三度目でござりますね」
「はっ/\。そうだなあ。初度《しよど》は御城へ上って青雲を踏みはずし二度目は兄上と喧嘩をして飛んで帰った。はっはっ」
「はい」
麟太郎はうつ向いた。遂いこの間の事だ。やっぱり先生や父上を早くぶちのめすようになりたいといった時に、よし/\とうなずき乍ら眼尻に皺を寄せて溶けるように笑ったあの父の顔が、はっきりと思い出されていた。
寒くて道が悪かった。
小吉は自分で麟太郎の大きな行李を引っ担いでついて行った。道場では精一郎が待っていて
「荷物はこれから門人を運ばせにやるところでした」
と、小吉を見て指さして笑った。
「頼むよ」
「引受けました。が、叔父上、わたしは麟太郎に阿蘭陀も学ばせる所存です」
「阿蘭陀? いゝとも、一切おのしに任せた。おれが子と思わずに、みっちりと仕込んでおくれ。が、男谷彦四郎先生がような年寄りにはならぬようにな。はっ/\は」
「しっ/\」
精一郎は手で制して笑った。
精一郎はこみ上げて来るような微笑を湛えて、その外には何んにも云わなかった。
道場には門人も大勢いる。東間陳助もいた。小吉はこれを側へよんで冗談をいった。
「どうだ東間、あの狐の宅番はいゝ修行になったろう」
「飛んでもございません。いや、もう気が違いそうでありました」
「実はおれもそうだった。人間もあすこ迄しつこく気が廻ると大したものだ。剣をふり廻して威張ってはいるが、おれらなんぞは子供も同然、剣術遣いなどというは、とんと気のいゝものばかりなのだなあ」
「はあ」
「だが、まだ/\後くさりが残っている。またおのしの腕を借りなくてはならねえよ」
「は。何んでも致します」
小吉は精一郎へ向って
「島田虎之助というは、どの仁《じん》だえ」
「今日は参って居ない。何にやら藩侯に召されたとかで」
「よく使うそうだねえ」
「わたくしも及ばぬかも知れませぬな」
「ほう。麟太郎がよく教えて貰うというから一度お礼を申したいと思ってねえ。改めてやって来るも億劫《おつくう》で遂い無精をしていたが、生憎居ねえは残念だ」
「一度伺わせましょうか」
「弟子がおやじのところへ顔を出す男でもないだろう」
「そうかも知れない」
精一郎は、ゆっくりして、みんなの稽古を見て行って呉れといったが、小吉は、そうもしていられない用事がある、東間もまた当分借りたいといって、やがて、東間をつれて二人で道場を出た。
麟太郎は、帰る父へ一寸目礼をしただけで剣術の道具をつけたまゝ道場に立っていた。
「いつの間にか、あ奴もおとなに成りやがった」
と途で東間へいった。
「麟太郎どのは、どうして/\先生、将来は大物になる。男谷先生もいつもそうおっしゃっているが、剣術遣いなどで、まご/\しているような人ではありませんな」
「鳶は鷹を生まねえよう」
「いや、そうではない、先生、麟太郎どのは鷹になる」
「はっ/\、こ奴、おれを鳶にしやがる」
「先生には悪いがこれは本当です」
「こ奴が」
といって、ぴしゃ/\額を叩いて暫く黙ってから
「逆にふっても血も出ない程絞り上げて終ってある岡野の知行所の百姓からこの上三百三十九両、借上げなくちゃあならねえ。おのしに、また一役やって貰う」
東間は不審そうに
「ゆうべのお話では、御本家からというような事でしたが」
と顔を寄せた。
「少々脅かしてな、出させる事にはしてあるが、名代な吝ン坊だ、後がうるさくなる。まご/\すると、孫一郎も詰隠居をさせられて、知行を出羽守に横領されるおそれがあるのだ。役筋の悪い奴にいろ/\繋がりのある人だからな」
「へーえ」
「知行所の百姓には気の毒だが、血も出ないとはいうものの、百姓というは元来が狡猾だ。おれは見事に丈助の狡猾に負けたが、どうしてもその狡猾という奴ともう一遍勝負をして見る気だ。百姓はまだ/\絞れば絞れるだろう。あ奴ら生れつき何んでも隠すから、持っているに相違ないのだ」
「だが、それでは百姓が余り——」
「可哀そうというかえ。おれはね、兄上が代官のときに一緒に信州に行って、あ奴らの狡いはよくよく知っているのよ。江戸のものの狡いなどとは、まるで質《たち》がちがう。と云って別に好き好んで苛めることはねえのだが、今度は自分らの殿様を救うのだといって、恩に着せて借上げてやる」
「どうも驚いた」
「おのし、百姓の出か」
「いゝえ、わたしはそうではないが、縁辺に百姓が沢山いる」
「では、今度はおれに加担をしないか」
「い、いや、いや、例えどんな事があっても先生をはなれる気はない。善悪共にだ」
「はっ/\は。おれをとう/\悪党にしやがるか。借上げるんだよ、奪い取るという話じゃあないのだよ」
それから一寸岡野へ寄った。この騒ぎだというのに孫一郎が相変らず眼やにをつけた寝ぼけ顔で
「勝さんの云う通り武州の知行所の次左衛門という庄屋へ使をやった。明後日は上《あが》って来るでしょう」
といった。
「物のわかる奴だろうね」
「わかるだろう——それにしても勝さん、あの米屋の娘は何度使をやってもいっこう来ないが、わたしは淋しい。何んとかならぬものだろうか」
小吉の眼が光った。ずばっと前へ出た。今にも力一ぱい張り倒しそうに呼吸を詰めたが、俄かに、ふゝンと力をぬいて
「殿様、あなた長生きをするねえ」
といってから
「よし/\、何んとか話してやろう」
「頼む」
小吉と東間は外へ出た。
「隠居の江雪はまだしも、あの男は殴るのも嫌やだ」
地べたへ唾をした。
武州の知行所の庄屋次左衛門はその頃の百姓に似ず、嫌やな掛引などはしないで、小吉の前でずばりといった。
「この上の事はとてもわしらの力では出来ませぬ。借上々々と申されても召上げられるので御座いますから」
「借上金は成崩《なしくず》しに年貢米から差引いたらいゝであろう」
「そのお言葉もこれ迄に何十遍何百遍となく仰せきけられ、唯の一同もお履みなされた事はござりません」
小吉は頭をかいて笑った。
「そうであろうな。尤もだ——が、今度の入要《にゆうよう》は御家の大事にかゝっている。おれは唯地借人というだけで、こうして命がけで骨を折っているのだ。お前、これを如何に見るか」
「あなた様に然様に仰せられましてもわたしら共はなあ」
小吉はきしッと居ずまいを直した。
「勝小吉が頼むのだ。今度の事は岡野孫一郎がいっているのではないのだぞ。どうだ、おれが摂州へ出て行く道中の入用四十両、これはおれが借用だ。十二月晦日には必ずけえすと云っているのだが、お前は、それを信用しないのか。対手は岡野ではない、勝だぞ」
「は、はい、はい」
次左衛門はちょっと剣幕に驚いて、ぺこ/\とお辞儀をした。
「返さなかったら、おれが坊主になって詫をする。御旗本が坊主になるはどういう事か、お前、知っているであろう」
「は、はい、はい」
「どうだ、岡野へではない、勝小吉へ四十両貸すか。それとも、どうしても貸さないか」
次左衛門は眼を伏せて、少し慄えている。小吉が気合をこめて、貸すか貸さぬかと詰寄ったのは、ちょっと凄味が利きすぎたようであった。
「よろしゅうござります。勝小吉さまに御用達いたしましょう」
「おう、そうか。わかって呉れたか」
と小吉は
「有難く礼をいう。おれも余り長くは屋敷を空けられない事もあるが、千五百石の御旗本の浮沈に関する一大事だ。この九日には江戸を発足する予定にしている。中仙道を上るから、気の毒ながら熊谷宿まで金子を持参で出て来て貰いたい」
「承知いたしました。すぐに立帰って村方の者とも相談し、その手順をいたしますでございます」
「有難く恩に着るぞ」
次左衛門は飯も喰わずに間もなく、岡野の裏門から帰って行った。小吉はそこ迄送って出て、斯うなると本当に気の毒なような気持がした。
玄関の座敷に東間陳助が待っていた。
「来る九日おれは岡野孫一郎の家来という事で大阪へ上る。お前も一緒に来るのだ」