大阪まで行って帰るとなると日数がかゝる。その間道具市は留守になるので相談に行っていると、すぐ後から東間陳助が、実にうれしそうな顔をして追って来た。
「東間、九日には発足だが、実は読書きのよく出来る侍が一人欲しい。居ないか」
「居ます」
「ほう」
と小吉は眼を丸くして
「妙に返事が結構だな。どんな奴だ」
「先生がこの間狐ばくちで篠田玄斎の用心棒に行かれたでしょう。その時にばくち場にいた三人組——」
「あゝ、あ奴らか、あ奴らあ馬鹿だよ」
「その馬鹿に、男谷道場へ東間陳助をたずねて行けと云われました」
「剣術が修行したいとぬかすからな」
「あれが来ましてね、修行もだが、是非勝先生の身内になりたい、その願いが叶う迄、あなたのところへ置いて下さいといって、三人、わたしのあばら屋に居坐って動かない」
「お前がところに食客かえ、これはおどろいた」
「しかしみんないゝ人間です。早川十郎、大和平蔵、堀田甚三郎。これに綽名がありまして、早川がごて十、大和が油虫、堀田が先生です」
「ふーん。先生とは何んの先生だ」
「儒者です。一と頃、田舎廻りの儒者で食っていたということで、嘘か本当か知らんがなか/\学問が深そうな事をいう。書もうまし——」
「よしッ」
と小吉は手を打った。
「そ奴を連れて行く」
東間は自分事のようによろこんで
「あゝ、あの男も思ったより早く仕合《しあわせ》が来た」
小吉は傍らの世話焼さんへ
「これで揃ったというものだ」
といった。
「然様でございますね。では、わたしも長太さんを迎えに行って参りましょう」
「そうして頂こうか。が、ねえ世話焼さん、あ奴は近頃とんと面を見せないが、生業《かぎよう》の縫箔屋などは表向き、内々は野放図もなく|ぐれて《ヽヽヽ》いると噂をきくがどんな塩梅だろうね」
「へえ、そういう噂はわたしもちょい/\ききますが、酒癖は悪いが、あれで根が至極の好人物だから、勝様の前へ出ては|ぐれ《ヽヽ》た真似などは頼んでも出来ませんでしょう。お供を仰せつけてここら辺で少々お絞りなさいますも宜しゅうございますよ」
東間が堀田甚三郎を連れて来たら、狐ばくちの次の日の黄昏に、松平能登守の下屋敷の塀のところで出逢って、弟子にして呉れと口をきいた三十がらみの痩せたあの男だった。予め話をきいて来たので、天にも登る心地だと、にこ/\にこ/\崩れるような顔つきをしていた。
「後で、弁治がきいたら、どんなに残念に思いましょうね」
と世話焼さんが、しんみりした。
「お前よく云ってお呉れ。あゝして折角その日のくらしが風波一つなく静かにやっている。外からあれを揺ぶってはいけないのだと、勝がいっていたとね」
「へえ。でも、一度上方見物をさせてやりたいような気がしまして、女房があちらですからねえ。わたしも足腰が丈夫ならお供をお願いしたいのですけど、何しろお手足纏いになりますから」
「そんな事はない。が、お前の世話で、毎日この市で、生業《なりわい》をしているものが何十人もいる。お前が四十日、五十日こゝを留守にしてどうなるものか」
「へえ」
「それに御旗本のおれが御上《おかみ》の目を盗み掟を破って江戸を脱け出して行くのだ。後のお咎めで、供をしたばかりにこの市場を閉めよとでも云われて御覧な。それこそ大事《おゝごと》だ」
「へえ」
世話焼さんは、まじ/\と小吉を見上げた。そして、次第に目の中がうるんで来た。
小吉が江戸を出発した日は、寒さはきびしかったが、青い空が鏡のように美しかった。
お信は麟太郎の手をとって、門の外まで送って出た。世話焼さんも来ていた。
「呉々もからだに気をおつけ。それを片時も忘れちゃあならねえよ」
「はい、有難うござります」
「お、麟太郎、お前は、この父がけえって来る迄に島田虎之助の胴を一本革が裂ける程に極《きわ》めて見ろ。けえって来て、それが出来ていたら、こんどからおれは、お前を麟太郎様とよぶよ」
麟太郎は黙って、にこ/\笑って
「島田先生より先きに、いつか父上の胴を一本極めます」
「どうしてだ」
「島田先生より父上の方がお強いでしょう」
「はっ/\。そうかねえ」
それっきりで別れて行った。
途で、考えながら
「おい、世話焼さん、おれがところの麟太郎は、時々人の意表をつく事を云うよ。怖い子だね」
といった。
「はい」
「順当に行けば今は一橋刑部卿の御近侍だものなあ」
「さようでございますねえ」
小吉はふと首をふって気をかえ
「みんな市へ来ていたかえ」
「はあ、堀田さんなどは薄暗い中から見えてました」
「あれも東間が云う通りほんとうにいゝ者らしいな」
「さようでございます」
小吉の来た気配で旅仕度をした谷中観音堂の五助と東間陳助が、勢よく飛出して来た。
「見えた、見えた」
声に応じて堀田甚三郎と縫箔屋の長太も転がり出て来た。上下一行五人である。侍が東間と堀田、云いつけられてすっかり下僕風の拵えが五助と長太である。市場の人達もみんな出て来る。
「御旗本が江戸を脱け出すにしてはちと賑やかすぎるわ」
小吉は大声でそういって歩き出し乍ら、ふり返って、世話焼さんにいった。
「お信がことは頼むよ」
「はい/\。確かに承知仕りました」
少し行った。
「おい五助、お前、ちいーっと見ぬ間に大層肥ったねえ」
「さようで御座いますか」
「もう強請屋はやってまいな」
「御冗談を——堂守の強請屋はございませんよ」
「妹は丈夫か」
「へえ、お蔭様ですっかり元気で、どうやらあ奴を目当の参詣人もたんと殖えているようでございます」
「結構だ。その中にはいゝ人でも出来るだろう」
「ところがあ奴、とんと男嫌えでございましてねえ」
「強請屋の五助とも云われた奴がそれをまともに受けてやがるか、馬鹿だねえお前」
「へえ」
「早くいゝのを見つけてやれ」
板橋の宿《しゆく》を出るまではみんな真面目な顔で、蕨《わらび》をすぎる時に、寺で打つ|四つ《じゆうじ》の刻の鐘をきいた。
「東間、今夜の泊りは何処だえ」
「大宮|宿《じゆく》です」
「あすこ迄あ確かに七里の余だねえ、五助と長太はふだん、のらくらだ、大丈夫か」
二人一緒に口を尖らせた。
「冗談ではござんせんよ。今から閉口垂れちゃあ話になりやせんよ」
「その通りだ。が、な。熊谷宿で金を受取る迄はふところは手一ぱいだよ。酒なんぞは飲めないよ」
「わかって居ります」
「それに人様の前では何処迄も、お前らおれが家来だ、行儀を正しくしろ」
「へえ」
「それから、おれは千五百石岡野孫一郎の家来、左衛門太郎七だよ。間違っても、先生だの勝様だのと云ってはならない」
「へえ、へえ」
といって五助が
「そ奴が一番厄介なんだ。なあ長太さん」
「そうだって事さ、どうにもひょいと口に出そうでその度に冷やっとするんだ」
浦和辺りで日がかすれて、針ケ谷村の松並木が途中で少し登りになって、その真ん中を小川が流れ、土橋がかゝっている。
この土橋の袂に江戸では見た事もない大きな山茶花が、一ぱい花をつけて、これへ沈みかけた冬の夕陽が、地を逼うように下から代赭《たいしや》色に照りつけぱあーっと浮き出していた。美しかった。
こゝ迄来る間、枯れた冬野の遠くに、銀色をした川が帯を展べたように見えていたり、小さな沼があったり、雑木林の漆の葉が、火をつけたように真っ紅だったりしたが、どうした訳かこゝの風景が一番みんなの眼に焼きついた。
次の日、熊谷の宿の棒鼻《ぼうはな》、いづみや作左衛門という旅宿へ着いたのが、やっぱり、もう日のくれ方であった。旅宿の前に馬子が大勢がや/\していたが、その少し手前から松平下総守十一万石の忍《おし》の城下へ入る広い道が別れているので、本街道で稼いでいる馬子達と、こっちから出て来た馬子とが丁度出合ったためだったろう。馬が尾をふって頻りにいななく。
いづみやの若い女中が行灯をつけに出て来た。東間陳助が、馬の間をぬけるようにして行って
「次左衛門という百姓が来ているだろう」
といった。余り出しぬけだったから女中はびっくりし
「へ、へえ」
といったきり、暫く目をぱち/\してから
「お出でで御座ります」
とうなずいた。
「岡野家の者が到着したと伝えろ」
「はい、はい」
女中はあわてて広い土間へ飛込んだ。
次左衛門は、村の者三人と一緒に一刻余りも早く着いて待っていた。小吉は約束の四十両を受取って
「確かに勝小吉が借りた——おい、堀田、その旨証文を認めて渡せ」
といった。
次左衛門は、証書を貰っても
「お間違いはござりませぬな」
と何度も何度も念を押した。東間は腹を立てたような眼つきをしたが小吉は鄭重に酒の膳を出して振舞って帰してやった。
「御本家が出そうというのに、先生は何故あんな百姓へ頭を下げて御借上げになるのですか」
東間が百姓達が帰ってもまだ腹を立てている。
「岡野の隠居が生きている間は、何んとかしてあれにだけはおのが家の潰れるを見せたくないのでなあ。いゝ人間だから可哀そうだわ」
「え?」
「本家の出羽守というのは、前にもたった百両の貸金で分家を一つ喰っているのだ。金で首を絞めて横領よ」
「へーえ」
「芝の愛宕下に岡野右京という五百石の家があってな、こ奴がまた道楽で、とう/\本家に横領された。あれは御支配にも御老中にもいろ/\と用いる手を知ってやがる。だから、三百三十九両、ごっそりとって、一時を凌ぐは世話はないが、滅法後が怖え対手なのだ」
「そうですか」
それっきり、みんな暫く黙った。
「ところで堀田、お前、ほんに字がうまいね。あれなら田舎廻りの儒者は充分に勤まる。ばくち場の用心棒など凄味な事をやるよりは余っ程いゝじゃあないか」
「はあ。わたくしは、時と場合、都合次第でどちらでもやります」
「講釈も出来るか」
「は、大学孝経ならばうまくやります。馴れて居るから。何しろ田舎の大百姓に泊込んで、近所の者を集めて、嘘でも本当でも、面白おかしくやればいゝ。対手は根っから文盲ですからな。一晩やれば五日や十日は遊んで歩ける位の銭はみんな包んで出します」
「出さなかったらどうする」
「仮病をつかいましてね。十日でも二十日でも逗留するのです」
「はっ/\、こ奴は驚いた」
「それでも出さなければ、実は武者修行だといって威張るのです。大抵出しますよ」
「東間が相棒には、いゝ人間が出来たものだ。はっ/\」
その夜、はじめてみんなに少し酒をのませた。
小吉は
「堀田、酒は好きか」
「さあ、好きと申しますかどうですか、いくら飲んでも酔わぬ方の質《たち》のようです」
「暴れるかえ。暴れると、おれは酒が嫌い、東間は短気だから、斬るよ」
「それは困る」
とどっと笑って終った。