堀田も同じようなしかめっ面をした。
「如何に馳走酒だといっても、よくまああゝがぶ/\恥も外聞もなくのめるものだ。しかし本当は、そんな事より、一体先生はこれから何にを遣り出されるかその方が心配ですねえ」
「そうよ。妙見の時だってうまく雨が降ったというから良かったようなものの若し降らなかったら、どうなさるお気《つもり》だったろう。先生のなさる事はいつも奇想だからね」
東間がそういうと、堀田は笑い出して
「雨が降らなかったら、お前ら、がや/\ぬかしやがって、人を軽んずるから神様がこっちの拝《はい》をお受けなさらない、お前らは太い奴だと、|むき《ヽヽ》に見せてお叱りなさる肚だ。よく怪しげな祈祷坊主などのやる手で、先生はお終いのところ迄、ちゃんと筋立をつけていると、わたしははじめから睨んでいたら、案外うまく行きました」
といった。
「しかしだな」
と東間は
「先生だって魔法遣いではない。どうして雨が降ったのだろう」
首をふった。
「それはわからない。だが、先生の祈りと、雨とは何んの関係もなかったのでないですかねえ」
「はっ/\はゝ。おい、堀田、そんな事をいうと先生に張りとばされてすぐに破門だが、真実《ありよう》はそんなところかも知れないなあ」
二人が暗い中で暫く深い息をして、座敷へ戻ったら、酒は片づいて村方の者は今度はみんな茶漬を振舞われていた。
やがてみんなくど/\と礼を述べて次の間へ退る。小吉は、堀田へ
「さっき申した通り仲間《ちゆうげん》に、水を汲ませて、庭先へ運ばせろ」
と云いつけた。今日新しい手桶を三つ買わせてある。
「は」
堀田が立って行く。すぐに仲間が手桶を運んで来た。
小吉はまた素っ裸になった。庭へ下りると、その桶の水をざあ/\と浴びた。木曽路この方、からだの調子は余り良くないのは知れている。それなのに——と五助や縫箔屋は泣きべそをかいて、水のとばっちりの来るようなところにしゃがんでおろ/\している。
充分浴びると、座敷へ上って、東間や堀田に手伝わせて出来たての白無垢を着て、その上へ葵の御紋服を付けた。座敷の真ん中へ蒲団を重ねて敷き大きな蝋燭をともした燭台を左右へ並べさせた。蝋燭の火がぽか/\と瞬くように揺れる。
床の間の白椿が薄昏《うすぐら》い中にくっきり見える。
「おい、みんなを呼べ」
堀田が酔った紛れに銘々に勝手な事をがや/\いってまだみんな帰らずにいる一と間へ行った。
「御代官をはじめ村方の皆々、勝様から申渡される事がある。一同、御座敷次の間まで出られますよう」
と声をかけた。代官は一度頭を下げたが、みんなをちらりと見渡して
「仰せではありますが、このように御馳走を頂戴いたしすぎてまして村方の者は何れも酩酊《めいてい》している。仰せ渡しは明日にしていたゞき度いが」
「いや、それはいけません。明日は大阪の堀伊賀守様へ参り、四、五日あちらに御逗留の予定だ。こうして一同寄っていられるこそ幸いだから、是非座敷へ出て、謹しんで勝様の仰せ渡しをきかるべきでしょう」
「そうですか」
暫くして、とにかく、みんな次の間へ出て来た。茂左衛門は苦虫を噛み潰した顔つきで、代官山田新右衛門のうしろに隠れるように首をたれている。
堀田が次の間から
「一同、出まして御座います」
と座敷へ声をかけた。小吉の目配せで東間が立って来て、間《あい》の唐紙を左右にさっと開けた。ふと見ると、さっき迄の唄をうたったりしていた小吉とはがらりと変って、御紋服着用の肩の張った姿である。
「はゝーっ」
代官をはじめ、みんな平蜘蛛のように平伏した。
小吉はじっとして口を開かない。みんな首筋を、ぎろりと大きく光る小吉の眼に射りつけられているのを感じた。
代官が一度、顔を上げようとしたが、たゞ上げようとしただけで、またいっそう畳へ顔をくっつけた。しーんとしている。
小吉が口を切った。
「外の事でもない」
それっきりまた暫くじっとしている。みんな何んという訳もないのに、重い物を頭の上へぐんぐんぐん/\積み累《かさ》ねられて行くような気持がして、息苦しくなって来た。
「先頃から、皆々の地頭岡野孫一郎が此度の大川丈助一件の思いも及ばぬ災難について申述べ懇《ねんご》ろに金談に及んだが、皆々は下知の趣を聞入れず、地頭を甚だ軽んじている。誠に以て不届千万。此上申すも無駄であろう。よっては、唯今を以って、金談は相断るから左様心得よ」
小吉は早口にそういって
「茂左衛門、どうだ」
と重ねた。茂左衛門は、顔を上げない。しかし低いがはっきりした声で
「有難う存じます」
と答えた。
小吉は、茂左衛門を見下ろした。
「有難いか」
といってから
「もうお前《まえ》らも察したろうが、わたしは岡野の家来ではない。御旗本だ。御旗本というはどんなものか、お前ら妙見の雨で知れたろう。どうだ、知れたか——それとも知れねえか」
「へゝーえ」
村方の者は、古ぼけた畳へまるで人の背中を敷き詰めたようになって終った。
「その御旗本が岡野の余儀ない頼みで、病気のからだを無理をして上《のぼ》って来た。言葉を低く、頼んでいると、今迄の用人と同じに見くびって更に取合わねえ不埒者奴。それのみならず御旗本に対して、寺の鐘を打ち、一揆同然の竹槍三昧、聞捨てならぬ雑言も度々《どゝ》だ。何んと心得て左様の扱いに及んだか、その仔細をきこう。さ、答えて見よ」
が、答えるどころか、身動きもしない。
「次第によっては堀伊賀守へ談じ、厳しく糺明する。さ、性根をすえて挨拶に及べ。茂左衛門どうだ。お前は御願塚一の智慧者というが、田舎ッぺえの猿智慧をどれ程の物だと思っている。さ、速かに挨拶に及べ」
茂左衛門の首筋がぴく/\と動くだけで、顔も上げない。
小吉が見ていると、ぽたりと涙が一つ畳へ落ちた。
隣りに坐っているのが、顔を伏せたまゝで小さな声で茂左衛門と何にか囁き合った。そしてその男の方が怖る/\眼を上げて
「此段はわたくし共が重々の心得違いでございました。何卒御慈悲にお許し下さいまし」
といった。真っ青で生きている人間のようではない。ぶる/\慄えてかち/\歯が鳴っているのである。小吉はそれを見ただけで急にこう、何んだか可哀そうになって終った。いろ/\苛《いじ》めつけてはいるが元々は孫一郎が悪いのだ。五百石の知行所から七百両の余も借上げて、今度また少なくとも五、六百両位は出させようという。考えるとこっちも気がひける。が、何分にも切羽詰っている。邪であろうと非であろうと、このまゝ引揚げては行けないのである。
「お前らは慾の外には何にもない、隙があれば支配であろうが地頭であろうが馬鹿に扱おうとしている。が、考えて見ると目先のことよりは見えない根が大の愚昧者だ。許してやろう」
といってから
「しかし山田さん」
代官へ真っすぐ向き直った。
「百姓共の騒動の無礼は許してやるが、あなたをはじめ村役人に別段の頼みがある、きいてくれるか」
「はあ」
やっと返事をした。代官も最初《はな》っから小吉の剣幕に胆を失っている。
「外でもないが、今度は金が無いといよ/\岡野は潰れる。百姓共も代々この土地に安住していられるは岡野の恩ではないだろうか。自分の算段ばかりをして目前に主家の潰れるを見て平気とは禽獣にも劣るとわたしは思うがどうだろう」
「は、はい、はい」
「千両や二千両の金は、一言堀伊賀守へ頼めば直ぐにも出来るのは知れている。が岡野が潰れ、殿様の孫一郎が地借をして肩身を狭く世を送るとあっては元の知行所の百姓共も余り大きな顔は出来ないのだ。世の笑い物、義心の者には唾を吐かれる、わたしは村方の者にそんな思いをさせたくないから、金談を持ちかけ、その功名にしてやりたかったのだ。が、それもこれも今は無駄である。あゝ——おれの志は無になった」
言葉を切った。そのまゝで、またずいぶん長い間重い沈黙をつゞけた。
「といって、おれはこのまゝで江戸へ帰る事には行かないのだ。見す/\岡野の悲惨を知っていながら、駄目だったと御旗本がどの面で御膝下《おひざもと》へ帰れる。よって、今夜此処で自殺をして江戸へ申訳を立てる」
「えーっ」
座敷の隅から隅まで何にか噴出すようなざわめきが起きて、村方の者はみんなほんの少し顔を上げた。
「山田さんや村役の者、まして茂左衛門へ頼みたいというはこのわたしの死骸の事なのだ」
山田も村役もいよ/\歯の根が合わない。
「わたしの伜麟太郎というは日本一の剣術遣い男谷精一郎がところで修行をしている。わたしが死骸はこの辺の地に埋めずに江戸表へ運んで斯々《かく/\》の次第で自殺をしたと詳しく話して引渡してやって貰いたいのだ」
小吉はまた黙った。
「それから——おい、堀田、お前はさっきおれが此度の一|埒《らち》を詳しく認めたあの手紙を持ってすぐに江戸表へ出発し、岡野孫一郎へ渡して呉れろ」
また黙った。
「東間、お前はかねて約束をしてある通り、|たいぎ《ヽヽヽ》だろうが介錯をせよ。その上で江戸へかえり、おれが妻子へよく此一条を話して呉れろ」
また黙った。寺の鐘が鳴った。さっき迄星が出ていたのに、妙にこう暖くなって雨がぱら/\と落ちて来た。
「五助、長太。お前らにはおれが預けてある金はみんなやる。明日にも立退いて心のまゝにするがいゝ」
小吉はそれから、今度は厳しい声でまた
「山田さん」
といった。
代官はいきなり脳天をぶたれたようにぎくっとした。
「はい」
「最早この上云う事はないが、わたし如きが血で御紋服を汚しては恐れ多い。一先ずあなたが預って、わたしの死骸と共に粗相のないよう江戸へ届けて貰いたい」
小吉は、ぱっと御紋服をぬいだ。内は白無垢である。堀田が心得て傍から広蓋《ひろぶた》を持って進んで御紋服を受ける。咄嗟《とつさ》に小吉は刀を東間へ渡して
「性根をすえて静かに首をぶち落すのだぞ」
そういってから、じろり/\とみんなを見渡した。
「頼み事は相違無く心得ろ」
「は」
堀田が平気な顔でいった。小吉は脇差を抜いて、用意をしてある白木綿で巻いた。悠々として
「こら一同、許すから顔を上げて、御旗本が自殺をよく/\見て置け」
と今度は調子高に怒鳴りつけるようにいって、白無垢の胸をひろげ脇差を取直した。
「か、か、勝様」
代官が真っ先にその手許へすがりついた。東間と堀田は、思わず顔を見合せて、にやりとしそうになって、あわてた。
「侍の最後に邪魔するな」
小吉は叱りつけると代官はひるんだ。
「東間、介錯しろ」
「は、はっ」
しかし東間は今度は平伏したきりになって顔も上げない。
「馬鹿奴、たった一人の首をぶち落すも出来ねえか」
大声で叱った。
「はっ」
東間は是非ないというような顔つきでやっと立って、うしろへ廻って、すうーっと国重の刀を抜いて、静かに右肩に|※[#「木+覇」]《つか》を押立てるように構えて行った。二尺九寸五分、重ね厚の刀は淵のように青い肌だ。
茂左衛門と外に村方の者二人、一方からは代官が押しかぶさるように東間へかじりついて行った。外の三人が気違いのように、小吉の腕へしがみついた。
「し、し、暫くお待ち下さいまし、一同が一言申上げる事がござります」
堀田がそれに間髪をいれず、横から
「早く申上げろ」
「へえ」
茂左衛門が、はあ/\急《せ》わしく呼吸をしながらいった。
「先達より仰せの儀は残らず畏まりました。わたくし共、家財を売払っても確と御受け仕りましたから、ど、どうぞ、御生害の儀はお留まり下さいまし。お願い申しまする」
小吉は苦笑した。
「今になって何にをいう。心を落着けおれが自殺の態を見よ。邪魔だ、手を放せ」
振払った手が、力余って、うしろ脇に東間へしがみついていた代官の膝の辺りを打った。代官はよろよろっとしてそのまゝどかーんと尻餅をついて、何にか云おうとして口をぱく/\させている。腰が抜けたのだ。