東間は頭を押さえて
「しかし先生、此度はとことん迄百姓を叩きましたな」
「何、百姓を叩くものか。おれは無法は許すが、狡いは嫌えだといつも云うだろう。おれは、人間の狡猾というものと喧嘩をして見ただけだ。が、やっぱり敗けた」
「え?」
「代官は人がいゝから甘く勘定していたが、おれは百姓奴ら、とゞの詰まりは金を出さねえ事に肚を極め、内密にその談合がついていると見抜いたから、自殺の芝居を打ったのだが、御旗本が、あんな奴らからあゝ迄してやっと金を借上げるなんぞは、大敗けよ。おれは本当に嫌やんなった。東間、おれがようなのは江戸で剣術でも遣い歩いているが一番気楽でいゝなあ」
「そうでしょうか」
次の日、|七つ《よじ》発ちをして京へ向った。五人揃って歩き乍らも、長太は何にかしらびく/\している。しかし出発の時は、村の者は、その長太について何んにも云わなかった。
京は三条の橋際へ旅宿をとって、こゝで三日ゆっくりと休息した。静かで、冬枯れの山も美しく、加茂の流れのせゝらぎも銀糸を流したように綺麗だったがその底冷えは、小吉のからだに、骨へ徹る程にひどくこたえた。
「みんな駕で帰ろう。長太駕を五挺、旅宿のものへ云いつけろ」
「へえ。御願塚まででございますか」
「御願塚? あすこはもう用はすんだ。みんなで真っすぐ東海道を江戸へけえる」
「え? で、で、では、あたしは」
「ほう」
と小吉はわざととぼけて
「帰りたくねえなら帰らなくともいゝよ。御願塚村へ行って給金無しの一生奉公でもするか」
「せ、せ、先生」
「泣きゃがるな馬鹿奴。その代り、今度江戸で汚ねえ真似なんぞをしやがったら、すぐに腕を折ってやる」
「へ、へえ、へえ」
「はっ/\。お前が一緒に江戸へけえったと知ったら百姓共、地団駄を踏んで口惜しがるだろうなあ。いや、その面が見えるようだ。第一、代官もおれがこのまゝけえって終うとはこれっぽちも気がつかなかったようだから、あれも全くのお人好しだよ」
出発の日は朝からの糠雨であった。この雨の中に煙る東山の峰々の風情にいくらか心をひかれたが、とにかくひどく寒い。みんなの吐く息がもく/\と煙のように見えて小吉は余り口も利かなかった。
雨の日、風の日、曇り日、晴れた日、寒い日、暖い日。相州へ入って大磯で泊った旅宿の庭の梅が雪が積ったように真っ白に咲いていた。川崎の宿迄着いて丁度師走の八日。
翌日は江戸入。静かな晴れた日で、品川宿から見た海はまるで春が匂って、房総の山々も手に取るように近く、舟の白い帆は一つ/\が、鏡へ映っているようであった。
帰って来たら余り早かったので岡野のものはびっくりした。小吉は自分の屋敷へ足も入れず、みんな引きつれて玄関で、盥を持出させて、足を洗って上った。東間や堀田はともかく、五助と長太は裏口へ廻ろうというが
「云わば御使者のおかえりだ、玄関からへえるが当たり前だ」
小吉はそういって、引っ張り上げた。
孫一郎は奥座敷に炬燵をしてそれへ老人のような恰好で入って、今日も顔も洗わないのか、薄汚れて眼やにをつけて唯おど/\していた。玄関の次の間まで出て来て迎えたのは奥様《おまえさま》だった。
「唯今立帰ったよ」
小吉のそういうのへ、孫一郎は、まるで何処かすっかり緩んで終っているというような物の云い方で
「御苦労でした。で、しゅ、しゅ、首尾は」
「おい、殿様、その前におっしゃる事があるでしょう。この人達は」
とうしろに平伏している四人をふり返って
「わたしと一緒に命がけで苦労をして来たものだ。一言、御言葉が然るべきだ」
「そう。御苦労に思います。で、首尾は」
「ま、そう首尾はときかなくても、勝がこうしてけえって来たのだ。うまく行かずに帰る筈はないでしょう」
「うまく行ったか」
「確かに六百両借上げて来た」
「えーっ? 六百両」
「が、みんな殿様へお渡しは出来ねえ。路用に借りて行った四十両は武州領の次左衛門にけえす。それから今度の路用はみんなで六十七、八両かゝったから、六百両の中から二十七、八両は減っているよ。それからもう一件御本家へ十五両けえさなくてはならない」
「結構々々——。勝さん、わたしはね、大川丈助の三百三十九両の片がつけば後はどうでもいゝ。おのしの好きなように使って下さい」
「馬鹿を申されてはいけませんよ。年の暮を鼻先にして、屋敷の諸払、柳島の御隠居への御手当。殿様、こんな事では足りないかも知れないよ」
「ほう。そう/\、忘れてた——あの米屋の娘にもいくらか遣わし度い」
「え? 米屋の娘がまた来ているのか」
奥様《おまえさま》が極まり悪そうな顔をして下うつ向いた。
「あれが来ないと、どうにも淋しくてねえ」
孫一郎は平気な顔でそう云うので、東間も堀田もかねてきいているから、思わず顔を見合せて軽んずる笑いをした。
「しかしね」
と孫一郎は
「武州の百姓奴らは、勝様が御上阪なされても百両も所詮むずかしいとぬかし、本家の出羽守も五十両出来たら、勤めを退くなどといっていたが、六百両とは全くよく出来たものだ」
他人事《ひとごと》を云ってるような顔つきであった。
孫一郎は今になって実はどっちでも良かったのだと云ってるようでもあり、いつもながら張合がない。
大川丈助を迎えにやって、金を渡してその日の中にすっかり話の片をつけ、次の日は堀田甚三郎が、名代で、武州熊谷の次左衛門へ金をかえしに出発する手筈をちゃんと定めてから、小吉は残りを一文残らず紙へ並べて孫一郎へ差出した。
「これで、おれの肩の荷は下りた」
「そうです」
「え?」
と小吉は、おれも馬鹿だが、孫一郎というは底が知れないと、そう思って
「明日か明後日は柳島の御隠居に逢いに行く。その時御手当を預って行きましょう」
「いくらやればいゝか」
「親御に対する子の勤めだ。それがわかったら自然金高はわかりましょう」
「わからぬ。云って下さい」
「取敢えず五十両差上げたらどうです」
「え、取敢えず五十両? それは多い。三十両でいゝであろう」
小吉は何にも云わなかった。
屋敷へ帰った時はもう日が暮れていて、お信は行灯を引寄せて、麟太郎の肌着をぬっていた。
こんなに早く帰府出来るとは思ってもいなかったのでびっくりしている。小吉は立ったまゝで
「からだに変りはねえか」
といった。
「はい、お蔭様でわたくしは何事もござりませぬが、あなた様は、道中御難儀はなされませんで御座いましたか」
「いろ/\あった。今度ばかりは、おれもほんとに疲れた」
「御苦労様でございました。唯今、御飯のお仕度を仕ります。先ず、お茶を一ぷく」
「有難う」
お信が茶を出した。小吉が静かにそれを喫し乍ら、珍らしく沁々とした調子で
「お信、貧しくもやっぱりおのの家が一番いゝものだね」
「さようで御座りますか」
「あれから麟太郎は来たか」
「いゝえ、唯の一度も顔を見せませんで御座います」
「そうか、あ奴め」
とにこ/\笑って、お信が勝手へ立つと、例によって不行儀に肱枕でごろりと横になった。
「今度はな、まるで出鱈放題《でたらほうだい》をやって来た。だが、妙見へ雨を祈ったら、よもやと思ったにほんとに大降《おおぶ》りに降ってね。驚いたよ」
「はい?」
「だから今夜は横川へお礼詣に行くよ」
二日ばかり経つと、小吉は妙に疲れが出たようで起《た》ち歩くのも少し億劫《おつくう》になった。
「きのうは一日ゆっくりお休みなされと申上げましたにお聞入れがなく道具市へ行って、大勢の人にお逢いなされたのがお悪かったので御座りましょう。今日はもうお出ましなさらぬがおよろしゅう御座います」
「いや、柳島の隠居がところへだけは参る気だ。殿様が三十両上げるという。隠居も困っているだろうからね」
「でも、何にも今日明日と申す事もござりませぬで御座いましょう」
「おれは性《せ》ッ急《かち》だ。やる事はさっさとやって終わなくては安まらねえからねえ」
「さようで御座いますか——おや、お庭から奥様《おまえさま》がお出でなされた御様子でございますよ」
踏石《ふみいし》づたいに、小さく響く奥様の足駄の音は聞き馴れているから直ぐわかる。
「おゝ、そのようだな。奥様も、やっと御安心なされたろう」
小吉の言葉が終るか終らぬに、奥様の声がした。小吉は内から障子を開けて
「丈助がいなくなって、また庭木戸が開きますか。さあ/\」
と笑って、ちょっと見ると、何にか包物を捧《さゝ》げるように持っている。頭を少し下げただけで黙って縁から座敷へ上って、いきなり、うつ伏してわあと声を上げて泣いて終ったものである。
「如何なされました。何にかまた殿様が——」
きくのへ、奥様は首をふって
「か、勝様、お恥しいッ」
「何にがでございますか」
「こ、こ、これが」
と、包物をすっと小吉の方へ押して
「あなたへの孫一郎の御礼でございます」
「お礼?」
「大阪まで御苦労をおかけして、そ、そ、そのお礼。とにもかく、御覧下さいまし」
「拝見いたしましょう」
小吉は、その包物を解いた。手織らしい木綿の反物が一反、水引がかゝっていた。
「はっ/\。結構な物だ。奥様、恥しいという事はないでしょう」
「たゞそれだけ——勝様、どうぞおゆるし下さい」
「いやあ」
「その為に唯今までも口論をいたして居りました、が、あ、あ、あれは本当に気が狂うて居ります」
「奥様、これでいゝのだ。勝小吉はですね、千両万両お礼を下さるといっても、行き度くなければあんな事をやりに大阪くんだり迄、出ては行きません。これで結構、これで結構だ」
岡野の奥様は顔を伏せたまゝ、お信がお茶をすゝめても、身動きもしない。
「奥様に、そう心配をおかけしては却ってこっちが心苦しくなる。さ、どうぞ、お顔をお上げ下さい。わたしもからだ具合はよくないがこれから柳島の御隠居がところ迄行って参ります。どうぞごゆっくりお信とお話をなすってやって下さい。五月にはまた子が生れます」
といって次の間へ立った。着物を着替えるためだ。お信もそこへ来る。
「着物位は一人で着れる。お前は唯のからだではねえ。今迄のように、おれが事に気を遣うな」
「はい、でも」
「いゝよ」
仕度をすると、小吉は奥様へ鄭重に一礼して出て行った。雪駄の裏金の音が暫くちゃッ/\と聞こえる。
岡野で金を受取って、入江町から長崎町へ抜けて、丁度南割下水の尻、北中之橋の袂へかゝるところで、向うから、少し背中を丸くして、こせ/\と急ぎ足にやって来る大川丈助とぱったり出逢った。
「おい、丈助。金は受取ったろうな」
小吉は大きく声をかけた。大川は余っ程ぎっくりしたらしいが、急に腰を折って
「おや、これは勝様、いやもう此度は誠にどうも有難うござりました。お蔭でお金は返していただきました。その間の御扶持お手当、まことに助かりましてございます。改めて勝様のお屋敷へも御礼に上りますが、しかし流石は勝様、よく僅か五百石の御願塚からお金が出来ましてございますなあ。それはそれは本所深川、おなじみの者共は大層な評判でございますよ」
ぺこ/\うるさい程にお辞儀をして
「それにつけても唯今も清水町の角で米屋の亭主に逢いましたが、勝様も百両金の御礼は取られたろう、それが当たり前だなどと立話を仕りましてな」
といってから
「え、もし勝様、お気持によっては殿様お気入りの娘から百両がおろか二百両も差上げるように申させましょうか」
小吉の眼がぎろッと光った。丈助は、はっとしたと同時に
「で、では、また何れ改めまして」
一旦尻込みをしてからだをくねらせて、小吉の横をすりぬけるようにして行って終おうとした。
途端に小吉の手が、ぱっと丈助の肩先きをつかんだ。
「こ、こ、これは勝様、な、な、何にをなされます」
お天気の日で、往来をいそがしそうに人が通っている。二人の気配に、みんな自然に立停って、じろ/\こっちを見ている。
「おい、丈助」
と小吉は顔をぐんと寄せて
「てめえには、もう、こっちは些かも弱え尻はねえぞ」