丈助は飛上るようにした。もう飛蝗《ばつた》のように引っきりなしに頭を下げて
「そ、それはもう」
とやっといった。
「おれは奥歯に物の挟んだは大嫌えだ。何にか言分があったらみんな云え」
「あ、あ、ありません」
「そうか——が、てめえが方になくってもおれが方には言分がある」
「え?」
「てめえ今おれに、百両礼を貰ったといったが、こら、てめえ勝を見損ったか」
「そ、それは、わたしの、あれだけの事をなさったのだからとあなた様への本当の気持を申しただけでございます」
「どうだ、てめえ、あの三百三十九両は付懸《つけが》けだろう」
「と、とんでもない」
「嘘つきめ、正直に云えッ」
「あれは間違いはありません」
「よしッ」
小吉は、ぐっと丈助を引寄せた。と同時に肩を放した手がぱっと腕へかゝって、ずる/\と川っぷち迄引っぱったと思ったら、すっとからだが低くなった。大川丈助が、まるで天へ飛びでもするように、高く輪をかいて、大横川へ投込まれたのは、殆どそれと一緒であった。
観ていた者達が、思わず、あッと声を上げた。そして、誰からとなく川っぷちへ駈け寄って見ると、真っさかさまに川底へ頭でも打込んだものか、まるで川泥の中から出て来た人間のような姿で、あわててもがき浮んだ丈助を、こっちへ立って腕組みをして、にや/\これを小吉が見下ろしている。
「さ、揚って来いよ、も一度、投り込んでやる」
忽ちにして大変な人だかりだ。
丈助はやっと川岸杭《かしぐい》のところ迄泳ぎ寄って、足をついたら、水は胸迄で立てた。
「丈助、揚れ」
「か、か、勝様、許して下さい」
「何にを詫びる。貸した金をとって詫びる事があるか。さ、揚れ」
「ど、どうぞお許し下さい」
何しろ十二月だ。丈助は土色の顔をして、がち/\歯を鳴らし乍ら、川の中から小吉を見上げている。揚って行ったら、恐らくはまた投り込まれるに定っている。揚るに揚られない。
「許して下さい」
「揚れ、揚らねえと、小便を引っかけてやるぞ。おい、見ている人達、こ奴は大川丈助という|ひん《ヽヽ》用《よう》師にもまさる悪い奴だ。こんな奴をこの界隈にほうって置いては誰が何時どんな迷惑をかけられるかも知れないよ。みんなで一緒に頭から小便をひっかけておやり——さ、丈助揚って来ねえか」
小吉は本当に小便を引っかける気のようである。袴の前へ手をかけて、何気なくひょいと、法恩寺橋の方を見た。すぐ鼻先だ。左手に平河山法恩寺の天を突くような高い杉の立木が二本見えて、大きな寺の屋根の甍が反りかえってきら/\している。
今、この橋を寺の方からこっちへ渡って来る二人のさむらいがある。
「あッ、精一郎とせがれ奴だ」
小吉はびっくりする間もない。まるで急坂へ毬をころがしたような勢いで、清水町の露路の内へ逃込んで終った。
小半町のところに小さな稲荷の祠《ほこら》がある。あわてて、そのうしろへしゃがんで一生懸命息を殺している。
「あゝ、助かったわ。も、ほんの少しで丈助へ小便を引っかけているところを、せがれ奴に見つかるところであった。見つかっては取りけえしがつかねえ。あ奴におれが真似なんぞをされて堪るもんか。そ、それにあの精一郎がまた、妙にこう皮肉な奴だからねえ」
川っぷちの人のざわめきがまだこゝ迄聞こえて来る。
精一郎と麟太郎は丈助の川の中に立っているところ迄来た。麟太郎は唯笑い顔でじっと見下ろしている。
「岡野家の用人大川丈助という人ですよ先生」
「そんな事はどうでもいゝ。さ、行こう」
精一郎は真面目な顔である。
「先程のはやっぱり父上でございます」
「何にをいう、そんな事はない」
精一郎は、麟太郎の手を引くようにして、足早やに行過ぎた。
丈助が川から揚って、ぶる/\ぶる/\慄え乍ら何処かへ行って、それから、集っていた人達がみんな散って、四辺が静かになる迄には、それでも小半刻位はかゝったろう。この間に、稲荷のうしろに隠れていた小吉は
「勝先生だ」
「剣術遣いの勝小吉という人だ」
と誰かがいっている大きな声を飽きる程繰返し繰返し耳にして、四辺からからだを押しつけられるような思いがした。
柳島の岡野の隠居江雪は、からだ中に大層むくみが来て、とかく立居もきついというので、小吉が行った時は臥ていた。清明が枕元へ坐って、その手を頻りにさすってやっている。
殿様からの三十両を出して、実は御願塚は斯々の次第だったと話すと、隠居はすっかり喜んで
「あすこの百姓共は、大阪という繁華な土地が近いだけに、人の顔色を窺っては狡猾な事ばかりやる奴らだ。それをこっちが知らぬと思っているのが心憎くてね、わしも何にかあ奴らの猿智慧の裏をかいてぐうという程苛めつけてやる法はないだろうかと、そればかりを考えていた事があったよ」
といった。
隠居は
「今度は膝の辺りをやってくれ」
と清明へ云いつけてまた改めたように
「しかしあ奴らの狡猾はわしの智慧ではどうにも出来なかった。おのしがわしの思いを達してくれた。あゝ、いゝ気味だった」
といった。小吉は苦笑して
「あなたがような地頭では百姓も実は可哀そうなのだ。五百石の村方から七百五十八両もすでに借上げてある。隠居、こうなると本当の狡猾はどちらだかわかりませんよ」
「はっ/\。そうかねえ」
「そこへわたしがような奴が乗込んで、妙見へ祈って雨を降らせたり」
「え、おのし、雨など降らせる事が出来るのか」
「そんな事は出来る訳はない。雨は降る時には降り、降らぬ時には降らぬ」
「ふーむ」
「その上で、大阪町奉行の用人の下山弥右衛門、ほら、隠居も知っているあの剣術仲間の男さ。あ奴とぐるで度々奉行の名前を使ったり、偽せの手紙を出させたり、それで足りずに御紋服をひけらかして、切腹の芝居までして脅かすのだから、考えて見ると百姓も堪らない。が、わたしはあ奴らの文盲で狡猾ばかりが現れている面を見ると無性に癪にさわってねえ——人の面を見て腹を立てるなどは馬鹿の骨頂と、お信にはいつも叱られるが」
「面白かったろう」
「何にが面白いものか」
「が、勝さん、おれももうそんなに長くは生きられないようだよ」
「どうしてです」
「息切れがしてねえ」
「酒が過ぎるのでしょう」
「清明もそういうが、もうこの世の中に楽しいという事が無くなって終ったような気がしてね。しかし勝さん、余命いくばくもなしと諦めるとこれまた気楽なものだ。ほっとしたというか、生きている一日々々が楽しいというか、この味は、やっぱり、そこ迄行きついた者で無くてはわからんねえ」
「そうですか」
「わしは、いつ死んでももう悔ゆるところはない。実に仕度い放題をした一生だった。わしが死んでもね、勝さん、悲しんで下さる事はないよ、当人が死ぬという事について、ちっとも悲しくも口惜しくもないのに他人が悲しんだり、くやんだりするのはおかしいからね」
「それでは、あなたが死んでも悲しまぬ事にしよう。だが、奥様《おまえさま》や殿様は」
「奥も、わしが死んだら、むしろ、安心するだろう。孫一郎などいっそうの事だ。わしは、みんなに迷惑だけをかけた男のようだから」
「この清明が悲しむよ」
「いや、これも悲しまない。やっぱり、わしに迷惑をかけられていた一人らしいから」
清明は泣いていた。小吉は
「まあ、そう諦めれば、人間も本当に気楽だろう。あなたは、折角そこ迄気楽になったのだから、このまゝ長生きするも面白いね」
と冷やかし半分の顔つきで云った。
「それもそうだ。生きる気もないが、別に死ぬ気もないからね」
隠居はくす/\いつ迄も笑う。
柳島を帰ったのは、もう黄昏で、少し暖いような気がしたら畑の道に靄《もや》が立罩《たちこ》めて、それでも途中で振返ると、隠居のいる家の表の八重紅梅が薄紅い霞を流したようにぼんやりと見えていた。
その道を駈けて来る草履の足音が聞こえる。一本道である。ぱったり逢った。
「あゝ先生」
「世話焼さんか、何んだえ」
「御新造《ごしん》さんから云いつかりましてね、お迎えです」
「子が生れるか」
「お子様は五月でございますよ。実は亀沢町の男谷様から度々の厳しい御使だそうで」
「ほう、兄上から——何んだろう。逢ったらきっときまってお叱言だが、真逆さっき大川丈助を大横川へ投り込んだ、あれがもう知れた訳でもねえだろうに」
「大川丈助を川へ」
「はっ/\、面白かったよ。尤もこんな事で溜飲を下げるようじゃあおれも案外小さな江戸っ子だとしみ/″\自分で思い知ったがねえ」
「いや何、近々にみんなもあ奴を袋叩きにした上で水雑炊を御馳走する手筈になって居りますんで——松五郎頭なんぞは、御留守中にも毎日その催促にやって参りましたよ」
「もう止せ/\。あんな奴は放って置いてもどうせ碌な死方はしねえものだ」
流石に小吉も急ぎ足になって、入江町の屋敷へ帰ると、お信に云われて、お茶一ぱい飲まずにその足ですぐ亀沢町へやって行った。
彦四郎は相変らずである。
自分は大きな座蒲団を二枚も累《かさ》ねて敷いて、立派な大名火鉢を横に、膝の前には紫檀に銀拵えの莨盆を置いて長い煙管《きせる》で莨を吸い乍ら、平伏する小吉をいつ迄も大きな眦《まなじり》の切れ上った目で睨みつけていた。
「御旗本が御支配頭の御許しもなくみだりに御府内を離れてよろしいかどうか、文盲とは申せ、お前は、それ式の事も知らぬか」
狡みつくような声だった。小吉ははッとした。心の中で、はっ/\、とう/\摂州行きの尻がばれたか、支配頭から叱言が先ず兄へ来たな、そう思って
「はゝッ」
と平伏した。
「御支配頭戸塚備前守様から、本来|一間住居《ひとまずまい》を申しつくべきではあるが」
彦四郎は少しの間息を切った。落着いた顔をしているが余程興奮している。
彦四郎はそれからごくり/\と二度つゞけて唾をのんだ。
「御筆頭松平伊勢守様、何事か有難きお口添があり、他行留《たぎようどめ》を仰せつけられる事になったそうじゃ。明後日《あさつて》お呼出し、申渡されるが、確と覚悟を極めて出頭、仮初《かりそめ》にも見苦しい振舞はあるまいぞ」
「はゝッ、恐入りました。しかし——」
小吉が何か云おうとしたら
「黙れッ!」
と怒鳴りつけた。
「お前も、もうやがて二人の子の父ともなるというに、御旗本なら御旗本らしく、正しい日常を過す事は出来ぬのか。そのような事でどうする。子は父の姿をそのまゝに映すものじゃ。がそれは今更云うても詮ない事であろう。唯、御支配頭の前で、決して狼狽|弁疏《べんそ》など、未練がましくあってはならぬ。いゝか。男谷彦四郎が実弟、精一郎が叔父、麟太郎が父である事は、片時も忘れるな。それだけじゃ、退れッ」
本当に小吉は顔を上げる事も出来なかった。そのまゝ、退って廊下へ出て、はじめてほっとした。
明後日から他行留になるとすれば、またいつ裟婆の風に当れるかわからない。自分では恥しい事をしたとは思わないが、掟を破ったのは間違いないから仕方がない。心の中では肩肱を張ってはいるが、妙にこう淋しくなって、その足が知らず/\精一郎の道場の方へ行った。
激しい気合が聞こえる。竹刀《しない》の音、木剣の音。小吉は、そうーっと門を潜って、道場の武者窓へ近づいて行った。
ひょいと覗く。麟太郎が、若い侍の真っ正面から、さっと矢のような突きを入れたところであった。対手は一度のけ反って、危うく立直ったが、つゞけ態《ざま》にまた麟太郎が突きを入れたら、今度は仰向けにどーんと道場へ打倒れて行った。
「凄え」
小吉は思わずいって口を押さえた。
今度は精一郎が麟太郎をよんで、何にか手をとって教えてから、自分で小《こ》竹刀《じない》をとって道場へ下りた。
「やッ!」
また麟太郎の突きが出た。元より軽ろくかわされると同時に、精一郎の小竹刀がぴしッと胴へ打込んだ。
麟太郎はよろよろっとした。が小吉は、精一郎は甘やかしている、今の打込みは真物ではない、あれは型を教えているようなものだ。麟太郎がぶっ倒れて、起上れない程に打込んでやらなくては、その技があ奴の身につくものではない——そう思って、いっそう武者窓へ顔をくっつけて覗いた。