一度道場へ入ろうとしたらしかったが、思い返して窓をはなれてそのまま竪川の方へ行った。町角にぼんやりと辻行灯がともっている。
道具市の世話焼さんにも明後日からの他行留を話して置かなくては、突然《だしぬけ》ではみんなが困るだろうし、それに岡野の家もいゝ用人が見つかる迄は、仮りに堀田甚三郎でもやって置かなくては、あの殿様がまた何にをやり出すかわからない。
小吉はふところ手をしてぶらりぶらりと来る。時々小さな石ころを川へ蹴飛ばして、それがぽーんと静かな音を立てる。川へ映っている町家の灯がゆら/\と動いた。
道具市で、いよ/\こんな訳だからいつになったらやって来られるかわからない。そのつもりで居れというと、世話焼さんがびっくりして、頬をふくらませて頻りにいう。
「勝様をそんな事にして岡野の殿様が黙ってはいられないでしょう」
「あれは人の前では碌に口も利けない男だ」
「だ、だって勝様、お、お、女を口説く——」
「それは滅法うめえようだが、唯それだけより出来ない。世の中にはあゝいう人は沢山いる」
「といって、勝様だけが馬鹿な目を見ていられる事はないでございましょう」
「いや御府内を無断で出歩いたは正におれだ。外の者に罪科《つみとが》はねえのだ。大層すまねえが、とにかく東間がところへ行って、あれと堀田甚三郎を呼んで来てくれ。おれはどうも脚がだるくていけない」
「ようござんすとも」
世話焼さんはすぐに飛んで出て行く。
やがて二人が寝呆け眼でやって来た。
「もう寝ていたのか」
「いゝえ」
堀田はあれから熊谷宿へ行って来たりして、すっかり旅の疲れが出て、ぐう/\ねて許りいるもんだから案外元気な東間までそのお付合をしてねてますという。
「呑ん気な奴らだ。鼻っ先きにお正月というにおれは明後日から他行留だわ」
「えーっ?」
「堀田、お前、当分岡野の用人をやれ。あの屋敷は用人が入用の工面をしなくてはならないが、当分は金があるから心配はない。お前は貧乏屋敷の用人には打ってつけだから行け」
「はい」
「東間は、おれが代りに江戸中そちこちの道具市、それから入江町の切見世の女どもを見廻ってやらなくてはならねえよ」
「はあ」
それから小吉は少しじっとして、ふところから紙入財布を出すと
「摂州行ではさんざお前らに骨を折らせたが、ありようは知っての通りだ。これで二人で飲んでくれ」
五つ六つの小粒を出した。小粒がきらっと光ったと同時に
「先生」
東間が先ず泣声で小吉の膝へしがみついた。
大きな男がぽろ/\涙が頬へつたって落ちる。
「せ、せ、先生、わたし共はききました」
「何にをきいたえ」
「せ、せ、先生が此度の礼に岡野からたった木綿一反を贈られたという話を」
「ほう、滅法早えな、それはおれがところのお信の外は知らねえ筈だが」
とにや/\しながらいった。東間は
「例の米屋の娘の口から吹聴されているらしく、岡野の殿様は、うまく行ったと自慢気にいっているそうです」
「これッ」
と小吉は突飛ばすようにして大声で叱った。
「馬鹿奴!」
「そ、それなのに、わたしらが先生からお金など頂戴出来ません」
小吉は、ぱっと東間の袖へ小粒を投込んでおいてから、堀田へ向いて
「少々遅いが、夜も朝もない屋敷だ。おい、おれと一緒に岡野へ来てくれ」
「は」
「東間は道場へ行った時は、力一ぱいで、おれがところの麟太郎をぶちのめせ」
「は?」
「精一郎は少し甘やかしている」
この三人が肩をならべて出た。
「ね、先生、その米屋の娘というものが大難物だと思いますが、これに対しては、用人としてどんな扱いをしたら宜しいのでしょう」
堀田が歩き乍らきいた。
「お前が好きなようにしろ、気に喰わなかったら庭へでも投り出してやれ、尻はきっとおれが持つ」
「わかりました」
「が、対手は女だ、面《つら》に怪我はさせるなよ」
「は」
孫一郎はもうねていた。米屋の娘がまた来ているという。
「丈助奴、まだこの屋敷を喰い物にする気だ」
小吉は眉をひそめてひとり言をいって、とにかく女中に殿様を起させた。
ひょろ/\したような恰好で庭へ向いた座敷へ出て来た。真っ白い筒袖の寝巻に同じ白の細い帯をしめたまゝだった。
「殿様、勝はね、摂津行の尻が出て明後日から他行留だ」
「そうですか」
全く自分に無関係なもののようなきょとんとしたような顔をしている。
「この堀田甚三郎は、摂津で共に苦労もしたし、文字も深し腕も立ついゝ用人だ。これを屋敷でお使いなさい」
「よろしい」
「云って置くが、入用の工面は出来ませんよ」
「え? そ、そ、それは——」
「殿様、あなた、用人に入用の工面をさせ大川丈助の二の舞を踏んで、千五百石を潰してえのか」
小吉はぎろりとした。
彦四郎が明後日だといったから、小吉はその心づもりにして、支配頭からの呼出しを待っていたら、明後日どころか、いよ/\年の暮も押迫ったというのに、今にも来そうで、さて何んの沙汰もない。
「兄上、一ぺえ喰わせたな」
お信を見てにやりとして、そのまゝいつもの通り道具市へ行った。道具市はこの頃が書入れである。むん/\した人いきれと、莨《たばこ》の煙でまるで霧の中にいるようだった。
が、小吉は今日は刀の鑑定《めきき》の外に一両近い稼ぎになって、笑顔で帰って来た。
「まだ沙汰は来ねえかえ」
「まだで御座います。が、信は今日、道場へ参り精一郎殿にお目にかゝりました」
「道場へ? お前、とんと馬鹿だねえ、そんなからだで——第一あすこは女なんぞの行くところじゃあねえよ」
「精一郎殿は叔父上の他行留は、父上がいろ/\御奔走で、年が明けてからという事になった様子ですと申されました」
「ふーむ。年の内にそうなれば、借銭の云訳が出来たにねえ。兄上も余計な事をするものだ——。そうかえ、精一郎に逢ったかえ、おれもあれに云ってやる事があった。はっ/\/\。お前、内心は麟太郎が顔を見に行ったのだね」
「ほゝゝゝゝ」
お信は笑っただけでもう何んにも云わなかった。
新しい春になった。それでも麟太郎を一日も帰してはよこさない。噂では男谷の屋敷で精一郎の次の席について屠蘇《とそ》を祝ったそうだ。家の者達の年賀を少し反り加減に一人々々びくともせずに受けた麟太郎の立派な態度が、早くも屋敷中の評判になって、これがまた道場の者達から、小吉の耳へも入った。
小吉は
「そうかえ」
今にも溶けるような顔でにこ/\した。
やって来るみんなが
「他行留なんて、初春と共にとっくにお流れになったのですよ」
といってよろこぶし、小吉もひょっとしたらそんな事になったかも知れないと思っていたら、二月に入って早々にとう/\御支配頭戸塚備前守から使者が立って牛込船河原町逢坂の屋敷へ呼ばれた。備前守は千二百石で意地の悪い人だったが、彦四郎からの手が廻ったので小吉の出方によっては何んとか穏便にしたい気持もあったらしかった。
が出て行った小吉はこの人の顔を見ると、最初《はな》っからむか/\っとした。夢中になって御番入《ごばんいり》の日勤をやって、冷めたい板敷に平伏していたあの頃のいろ/\な対手の態度が、急に思い出されたからだ。
備前守は押しつけるように、ひどい早口で、しかも吃りで摂津行の糺問をした。ところ/″\はっきり聞きとれなかった。小吉は
「確かに参りました」
と突っかゝるようにいった。
備前守は、頬をぴく/\して、こめかみに青い筋が太く見えた。余程の癇癪持《かんしやくもち》のようだ。
「た、た、他行留ッ」
そういうと、すっと立って、そのまゝ奥へ入って行く。
「旗本も千石以上になると云い合せたようにみんな嫌やな人間になる。妙なものだ」
小吉は心の中でそう呟《つぶや》いて、これもさっさと退って外へ出た。
お天気が良くてそよ風が今迄の窮屈だった頬をそうっと撫でる。気がつくと、門の内側の植込みに大きな雪柳の花が目立って真っ白に咲いていた。
「いよ/\他行留だ。これからはとんと退屈なことだ」
胸を張って大気を一ぱいに吸って大手を振って逢坂を御濠端牛込御門へ降りて来る。
丁度この降りる途中に田中玄仲という医者があって、その隣りに狭い間口の、古い茶道具などを売っている店があった。どっちを向いても武家屋敷の塀《へい》ばかりのところだから、これが大層目についた。
小吉も世話焼さんの道具市へ行っている中に、自分では気がつかないが、知らず知らずこういうものが、いくらかわかるようになっていたのだろう。
立停って内を覗き込んだ。
あかい禿頭のおやじが、何にか丸い壺を抱くようにして頻りに布でふいている。
「古い瀬戸かねえ」
いきなりそういって来た小吉を見て、びっくりして
「おう、これは/\勝先生」
「おや、お前さん、誰だったかねえ」
「御尤《ごもつと》も。本所の三ツ目の道具市で三度程お目にかゝりました」
「勘弁おし。とんと人の顔を覚えられぬ質《たち》でねえ」
「その説はお刀のおめきゝをいたゞきまして大層儲かりました——おい/\」
と奥へ
「お茶を持って来な」
といった。小吉は瀬戸の壺を受取って頻りに眺めながら
「売物かえ」
おやじのうなずくのへ
「ほしいが銭の持合せがねえ。三ツ目の市の世話焼へ廻しておくれな」
「へえ/\、宜しゅうございますとも——もし何んでございましたらお金などはいつでも結構でございますから、お持ち下さいやして」
小吉はへら/\笑った。
「たった今御支配頭から他行留を受けて来たところでね。謹慎の身が道具を持っての往来は天下の御威光を軽んずる恐れがある。市の方へ頼むよ」
小女がお茶を出したが、それも手にせず外へ出た。途端に高い空で、雲雀のさえずりが耳に入った。
「すっかり春だな。本所《ところ》と違いこの辺は江戸の真ん中だが、雲雀が揚っている。世の中がどうとか斯うとか云われても、長閑《のどか》なものだ」
お信は心配していたが、小吉は案外平気な顔で帰って来た。
「おれが脚気も余り良くねえし、他行をしねえはおれが為めには却って都合よ。これが番入でもしている役人なら、大変なさわぎだが、別に立身出世を望む身でもなし、どっちにしても四十俵に疵はつかねえ。はっ/\呑ン気なものだ。が雲雀の揚る春だというに明日から座敷に閉じこもるはとても退屈だろうねえ、それが今から|せつない《ヽヽヽヽ》よ」
「ほゝゝゝ。あなたにせつない程退屈をさせて下されば宜しゅうございますがねえ。今日もお留守の間に東間さんをはじめ、世話焼さんから、花町の松五郎|頭《かしら》、縫箔屋さん、みなさん、引っきりなしに見えまして御座いますよ」
「仕立屋の弁治は来ねえかえ」
「そう申せばあの人は見えません」
「馬鹿が、おれが、摂津へ縫箔屋や五助をつれて行き、てめえばかりをのけ者にしたと滅法ふくれているそうだが」
「さようで御座いますか」
「それはいゝが、道具市へ行けねえとなるとまた屋敷は貧乏になる。お前に気の毒だねえ」
「何んの悪い事もなされずに然様になりまする事なれば、どんな苦労も貧乏も、信は少しも心にかゝりませぬ」
「すまねえね」
途端に勝手の方で世話焼さんの声がした。これで今日は三度やって来た。
小吉は顔を見るとすぐ
「牛込の逢坂下で、古い瀬戸の壺を見つけてね。何んとも云えねえいゝものだったよ。市へ持って来るように頼んだから、来たら頼むよ」
「か、か、勝様、そ、そんな事より、御他行留の事はやっぱり、さようで御座りましたか」
「あゝ。おれがように、じっとしていられねえ男には何よりも退屈が辛いと今もお信と話していたところさ」
「や、やっぱり、さ、さ、さようで御座いましたか」
「御旗本が自儘に関所を越えるのは不埒《ふらち》千万と、大声で叱られたわ」
「へえ」
といってから暫くうつ向いて世話焼さんはいつになくもそ/\した口調で
「で、ですけれどもねえ勝様、困りました、勝様に引込んでいられては。あの市場が成立ちませぬ」
といった。