日中は然程《さほど》でもないが、朝晩は涼しいと云うよりも寒い日がある。ゆうべはいゝ月で、小吉が小便に行って窓から庭を見たら、もう芝草にきら/\露が光っていた。霜を結ぶ夜の来るのも遠くはないだろう。
昼下りの刻限であった。小吉はたった一人で、ふところ手で雪駄履きでぶらり/\と浅草の新堀に沿って歩いていた。その影が狭い堀に長く映っている。片側にずらりと寺々の門や塀が並んで、此辺へ来ると何処からともなくぷーんと抹香の匂いがする。抹香橋《まつこうばし》と名のついた橋がある位である。堀を西側へ渡ると少し永雨だと、まるで沼のような湿っけ地で、あっちこっち歩み板を渡さなくては歩けないところだ。が、この日はお天気であった。しかし妙にこう静かである。
小吉はにや/\しながら門前町の厳念寺前からその抹香橋を渡って阿部川町へ行った。その曲り角から少し入ったところに小さな長屋を三軒打抜いて、継ぎはぎ見たいな造作をした島田虎之助の道場がある。
小吉は今日は不思議な風態をしている。小紋の短か羽織にしゃれた着物の着流し、しかも下は緋縮緬の長襦袢で素足である。
その上、刀はなくひょうし木を削ったおもちゃのような木刀を一本さしたきりである。門の外へ立って、足を停めて、暫く四辺を眺め廻して、ぷうーっと深い息をした。
「強い強いというだけで、どれ程の男か、大切な伜を預けてあるんだ。試して見なくちゃあねえ。むごく癇癪持でみんな叩き伏せられたというから、相応に荒えだろう」
そんな事を考えて門を入るとすぐ玄関で
「おい、虎さんいるかえ」
とのっけから人を嘗めた調子で声をかけた。若い侍が一人出て来て、ぴたっと坐ると丁寧に手をついて、じっと小吉の顔を見た。小吉はほっとした。妙に麟太郎が出て来なくてよかったような気がしたからである。
「静かだね。今日は稽古は休みかえ」
「はい」
若い侍は眼をぱち/\して、ぐっと唾をのんだ。
「誰方《どなた》様でござりましょう」
「おう、うっかりしたわ。おれは勝の隠居だよ、夢酔だよ」
「は?」
「ここに勝麟太郎という塾生がいるだろう、あ奴のおやじの隠居だよ。お前もやっぱり塾生かえ」
「は」
「伜がいろ/\世話になるねえ。頼むよ——が、とにかく虎さんに取次いでおくれな」
剣術をやる以上勝小吉の名前位は知っている。若い侍は少しあわてたように、奥へ入って行くと、それと一緒に虎之助が出て来た。木綿ずくめで、肩は少し上り、大きな眼のぴか/\する頬骨の高い如何にも一徹らしい顔つきであった。
虎之助はこの時二十四歳である。
両手をついた。腕は棒のように太く逞しかった。
「島田虎之助で御座います。御光来忝う存じます」
が虎之助も心の内では小吉の異様な風態に先ずびっくりした。
「飛んだ事だ」
と小吉はにこ/\顔だが、眼光は鋭くじっと虎之助に焼きついて瞬きもしない。
「伜が偉く世話になるを、男谷からも東間陳助からもよく/\聞かされてね、一度、おのしに親しく逢ってお礼を申したいとは思いつゝも、かねて聞いたことでもあろうが、あたしは身状が悪いものだから他行留やら何にやかや、行きたいところへも行けない始末でね。顔を出すも遂い遅れたよ。今日は日和もいゝ事だから、蟹が穴からはい出すように入江町からやって来たわ」
「はあ、ともかくどうぞまあお通り下さいまし」
「そうかえ」
小吉は虎之助について奥の座敷へ通った。座蒲団を上座に敷いて、虎之助は下座《しもざ》に坐り
「どうぞ」
とそっちへ手を差しのべた。その間にも、小吉が歩く度にちら/\する緋縮緬をひどく気にして、不愉快そうな目つきを、小吉はもうちゃんと見ている。虎之助は武士が絹の羽織を着たり、派手な恰好をしたり、刀の鞘の色から印籠の事まで、ふだんやかましく論じ立てる。男谷の道場でも、若い者が、間違ってでも華美な服装などをして来ようものなら、稽古で今にも息が絶えるようなひどい目を見せるばかりでなく、多勢の前で怒鳴り立て、中には道場の外へつまみ出された者もあるという。小吉はこれを知っている。
「おのしら、田舎から出て来た者は近頃の江戸の侍は遊惰《ゆうだ》でいけないと思うだろうね」
「そう思います」
「人間一人々々がみんな世の中の姿だよ。世の中が遊惰になれば、人の姿も遊惰になる。仕方がないね」
小吉がそう云った時、虎之助は苦虫を咬みつぶしたような顔つきで、今にも、何にか云おうとしたらしかった。
瞬間小吉は、がらっと調子をかえて
「あたしはね」
といって、にっこり笑った。
「今日ははじめて参るから、何にか心ばかりの土産を持ってと思ったが、おのしは何にが好きやらわからないので手ぶらで来たわ。おのし、酒はどうだ」
「飲みませぬ」
「じゃあ甘い物はどうだ」
虎之助の額に、じり/\と脂汗のようなものがにじみ出して来ている。
小吉は
「藻掻《もげ》えているな」
そう思った。島田もおれと逢ったら一度遣って見てえと思っていたのだ。ふっ/\、敗けたと思っていやがる。何にが敗けるものか、島田はおれより余っ程強いよ。が、この男は正直だ。麟太郎にはいゝ師匠のようだねえ——そんな気持が湧いて、胸の中が妙にこう温くなって来る。
「甘い物は大好物です」
虎之助は、はじめて心がそこへ戻って来た顔つきで指を揃えて額の汗を拭って微かに苦笑した。
「然様ならば、誠に御苦労だが浅草辺まで付合ってお呉れな」
「は、御折角ではございますがどうも」
「はっ/\、江戸一の強気者が、このあたしの風態は困るかえ」
虎之助は黙っていた。
「往来であたしが姿を見て、一人でも笑った奴があったら、謝るよ。今の江戸はこんな姿を笑わねえ江戸だよ。おのしも、剣術ばかりでなく、世の中の姿も、とくと見る事だね」
「は」
「とにかく一緒に来て呉れ」
虎之助は、何んという事なしに自分の云いたい事も、やりたい事も、一々この人に先んじられて終っている。内心はとてもこの人と一緒に町を歩く気にはなれなかったが、それでも断る事は出来なかった。
二人で出た。玄関で小吉が
「麟太郎奴はいないね」
といった。
「は。今日は向島牛の御前の弘福寺へ参禅《さんぜん》して居ります」
「参禅? あれは禅もやっていやんすのか」
「はあ、わたくしの考えで致させて居ります」
「おのしが弟子だ、勝手だよ。今にこンおやじが定めしいろ/\と遣込められる事だろうね。はっはっ/\は」
小吉は大声を上げて笑った。その大笑が、虎之助をさっと苦しい夢から救い出したような感じを与えた。この時に、虎之助は、はじめて腹の底から落着いた。勝負を終って笑いながら、互に汗を拭っている——丁度そんな気持だ。
浅草の奥山へ来ると、その辺の矢場は元より、往来で商いをしている香具師《やし》などがみんなお辞儀をする。小吉はその一人々々へ、野放図もない冗談を飛ばして歩いた。
若いいゝ女が来た。
「あら先生」
「ちょっと見ねえ間に烈しく使うと見えて大層尻が大きくなったじゃねえか」
「まあ」
女も手をふって打つような真似をしたが、これには虎之助も、思わず、そっぽを向いた。如何にも閉口した顔つきである。
小吉は女よりも、虎之助の弱っているのを面白がって
「これはな、島田虎之助とおっしゃる日本一の剣術遣いだ。どうだ可愛がって貰いたくはねえか」
「御冗談ばっかり」
女は駈出した。小吉は高笑いをして
「虎さん、あれはおれが能勢の妙見の世話をやいていた時に、よく酒屋をやってるおやじにつれられて来た子供だが、いつの間にかいゝ新造《しんぞ》になりやがったよ。堅気だがこの辺に居れば大勢そんな女がいるから色気が先きに立ってねえ」
という。虎之助は
「はあ」といってから、今日は道場にいろ/\用事がありますから、この辺で帰していたゞきたいといったが、
「まあいゝではないか。どうだ、おのし鮨飯《すしめし》を喰うか」
「それは大好物ですが、もう沢山です」
「ま、待て。世に島田虎之助とも云われる剣術遣いが、そうびく/\していては駄目だ。いゝからお出でな。面白いところで上等の鮨を上げるから」
「またにして頂きましょう」
「いゝからお出で」
虎之助は、とう/\吉原へ連れ込まれて終った。大門を入りかけると
「御免いたゞきます。こんなところは真っ平です」
虎之助は逃げかけた。小吉は、虎之助の右腕をぐいと鷲づかみにして嫌やがるのを面白がってぐん/\歩いた。
「田舎者はね、吉原と言えば女郎を買うところだとばかり思込んでいる。そんな事ではとんと世の中が暗いというものだ。伜がおのしに仕込まれる代りに、あたしがおのしに江戸を仕込んで差上げる。何にも修行だ。あたしに任せることよ」
小吉はとう/\仲の町のお亀鮨の二階へ虎之助を引上げて終った。
亭主が出て来て平蜘蛛のように小吉へ挨拶をした。
「虎さん、おのし、莨はのむか」
「は、のみますが、修行中故やめています」
「馬鹿な事だ。そんな肝っ玉の小さな事で、修行の出来る筈はない。世間ではおのしが事を豪傑だというがそんなちっちゃな事で、江戸の修行は出来ないよ」
「はあ」
虎之助は、さっき道場ではじめて、ちらっと見合った時のあの瞬間の戦慄するような勝小吉という人をふとまた思って、ぞっとした。対手は白っ呆けてはいるが、それだけに自分は背筋に汗が流れて来る。
「然様なら、今日は吸いましょう」
と少し低い声でいった。
「そうかい」
小吉はにこっとして
「おい亭主、上等の莨と莨入と煙管を買わせてくれ」
といった。亭主は心得て階下へ降りて行く。やがてやっぱり亭主が自分で鮨を運んで来る。虎之助は余程好きだと見えてこれは遠慮なくよく喰った。
此度は小吉が酒を飲めという。虎之助は少々位は飲めますがやっぱり修行中ですからと——ほんの正直だからまた下手な事をいう。これも遂々飲まされた。
中途で虎之助が、失礼ながらといって盃を小吉へさしたら、小吉は
「あたしは酒に当たる病《やめ》えで医者の篠田玄斎という奴に堅くとめられているので飲めない。修行中故飲まないというんではねえよ」
と受けようともしなかった。
日が暮れて来た。
それからそれと行灯へ美しく灯が入って、吉原は絵のようになる。
「この吉原をどう思うえ」
と出しぬけに小吉が訊いた。
「誠に別世界の感がします」
虎之助は少し酔って頬の辺りが紅くなっている。日焼けのした真っ黒い顔が妙に見える。
「別世界の隅々を、これからあたしが案内をして上げる。さ、出よう」
お亀鮨を出ると、小吉は尻を端折った。真っ紅な縮緬の襦袢の裾が膝の辺りまで出ているが、さっき小吉のいった通り、行逢うもの誰一人笑わない。
虎之助は、小首をふった。
「江戸というのはこういうところか」
自分の故郷の中津などで、こんな風態をしてものの小半刻も歩いたら、翌日から人付合《ひとづきあい》が出来なくなる。さて/\世の中は広い。本当に勝先生のいう通り、われらの修行もこれと同じだ——沁々そう思って小吉のうしろに黙って付いて歩いた。
土地《ところ》の火事で一と頃山之宿の仮宅で生業《しようばい》をやっていた佐野槌が、立派に仲之町に建って、万事に凝って一際目立っている。
仰げば水色の紙へ薄く描いたような秋の月が出ている。
「虎さん、お出で」
小吉は佐野槌へ入って行った。男衆がちらっと見たが、小吉の風態が風態である。
「まことに相済みませんでございます。相憎とお座敷が一ぱいでございまして」
「ほう、そうか」
といってから小吉は
「お前、新米だな。おれが面《つら》を知らねえね」
「へ、へえ、へえ」
「おかみさんにそう云うのだ。勝の隠居が来たが断ったと」
「へ」
「虎さん、外へ行こう」