小吉は頭を叩いた。
「はっ/\、中津の田舎から出て来て、粋も洒落《しやれ》も解《わか》らねえ男を吉原は女を買うばかりのところじゃあないと、おれがだまして連れて来たのだから、そ奴あ面白かったろう」
「面白いどころでは御座いませんよ」
とおかみは大仰に顔をしかめて、
「でもやっとお鎮まりなされました」
「とう/\女と寝たかえ」
「はい」
「はっ/\/\/\。面白いねえ」
「でも、まだわかりませぬ。そっと廻《まわ》り女に覗かせましたら、折角あたしが無理を利かせて撰りに撰った華魁と背中合せでねていらっしゃるそうで御座います」
「いよ/\面白いねえ」
「先生は気軽ろく笑っていらっしゃいますけれど、あれでは華魁へこちらの顔が立たず、取持の者達は、もう命懸けでございます」
「いつもかけるは迷惑ばかり。おかみさんには申訳ねえ」
小吉はそれから一人で寝たが、夜中に、お糸が三度もその座敷へ忍び足で覗きに来た事はちゃんと知っている。
三度目は、襖の外で明神のおときが頻りに押込もうとしたのもちゃんと知っている。が結局は誰も入っては来なかった。
「馬鹿奴ら」
舌打をした。
夜が明けてすぐ虎之助が帰るといって仕度をしているとの知らせで小吉も仕度をして、そこへ来たおかみへ
「おい、佐野槌は化物が出るよ」
と笑った。
「え?」
顔をしかめるのへ耳打をした。
「お糸によく似ていたよ」
小吉と虎之助はやがて肩を並べて大門を出て来た。虎之助は相変らず肩肱を張っているが少してれ臭そうである。互に一と言も口を利かず、山谷堀から舟を出させて明けたばかりの隅田川を下って来た。
出しぬけに
「別世界だろう」
と小吉がいった。虎之助ははじめてにやっとして
「はあ」
といって、昨夜小吉から貰った莨入を出して、舟にある莨盆の埋め火の頭をつゝくようにして莨をつけて吸った。
「別世界さ」
「はあ」
新堀に近い御廐河岸の渡し場で
「では、またお目にかゝります」
そういって虎之助は舟から上った。
小吉は長々と肱枕で横になった。空は銀をいぶしたような色で晴れてはいたが川風は肌へしみるように冷めたかった。
「舟頭、竪川へ入れて三つ目までやってくれ」
そういって、さしていた拍子木の木刀をぬくと、埃《ごみ》でも捨てるように、ひょいと川の中へ投り込んだ。木刀は一度沈んだが、また浮んでこっくりをするような恰好で流れて行く。
道具市の世話焼さんの住居は、もう、ちゃあんと掃除が出来ていて表の往来へ、あっさりと水を打ってあった。
ぶらりと入って来た小吉を見るとすぐ
「如何でした」
といった。
「正直ないゝ男だったよ」
「そうですか」
「それはいゝがこの風態には、われから仕組んだ芝居だが、いやもう極まりが悪くて、おれは冷汗のかき通しよ。この緋縮緬が、足元にちら/\するはほんに弱った。がいゝ塩梅に、麟太郎には見つからなかった」
「さよで御座いますか」
「おい、世話焼さん、麟太郎はね、この節は禅の学問もしているとよ」
「へ?」
「向島の弘福寺。知っているだろう、おれが将軍家《だんな》が御鷹狩のお休息所《やすみどころ》。勿体なくも麟太郎奴、こゝで参禅をしてるとて道場には居なかったわ」
「それは良かった」
「はっ/\。本当だ。塾生はあ奴一人かと思ったら、外にも二人いたよ」
「さよで御座いますか。それでは麟太郎様の御苦労もいくらか軽い」
「おい、世話焼さん、お前さん、馬鹿だねえ。麟太郎は、みっちりと骨身にこたえる苦労をしなくてはいけないんだよ」
「と、と申しましてもねえ、まだお年若ですから——」
「おれがところのお信をはじめ、精一郎でも東間でも、お前でも、みんな甘やかすから生意気になる」
口先でそんな事はいってはいるが、にこ/\笑って
「早く、おれが着物とっけえなくては見っともない」
「はい、はい——おいう、婆さんや、早く先生のお召物《めしもの》をお出し」
世話焼さんは、台所で頻りに何にかこと/\やっていたおかみさんに声をかけて、間もなく、いつもの小吉の姿になる。
飯を炊《た》いて、熱い味噌汁でお膳が出た。
「すまないね」
「何にをおっしゃいます。お味噌汁は、家の婆さんの自慢でございます。先生、すみません、まずくてもどうぞ、お代りをしてやって下さいましよ。お味噌汁だけは誰方《どなた》にもほめられる、年をとってもう先きも余り長くはなし、これだけが楽しみで生きているような婆さんですから」
小吉は一口吸って
「いや、これあうめえ」
といった。
「有難うございます」
世話焼さんは頭を下げて
「余るお金があるというではなし、贅沢をしてうまい物を喰べるというではなし、物見遊山に参るではなし、年がら年中、わたしにがみ/\云われて次第に年をとって行く婆さんの自慢、褒めていたゞいてほんとにうれしい」
そういってから
「婆さんや、先生が、うめえと褒めて下さったよ」
と台所へ叫んだ。
「おや、まあ」
おかみさんの喜ぶ声がきこえて、小吉はまた
「本当にうめえ。その辺の料理茶屋へ行ったって、こんな汁で飯を出してはくれないよ」
といって、持ったお椀を静かに、額のところまで捧げた。
それから三日目の夕刻に小吉はやっぱり道具市からの戻り道で、ぱったり下谷車坂の井上伝兵衛に出逢った。
「ほう、先生、これは意外」
と小吉は立停って鄭重に礼をした。
伝兵衛はその頃、公儀|御《お》徒歩《かち》のお役を養子誠太郎に譲って隠居し、玄斎と号して、剣術の門人達も余り取立てず、もっぱら茶会などを催して風流に静かなその日をすごしていた。元々温厚な人で、今年は五十三である。痩せて小柄であった。
「茅屋へもお立寄り御茶一服召上って行って下さい」
「忝けないが、わたしは男谷先生のところへ参るお約束の刻限になっている。横堀の大島雲四郎殿のお茶会が思ったより長くなりましてな。時刻が手詰って終った」
「そうですか、精一郎がところへお越しですか」
「如何です。あなたもお見えになりませぬか」
「はあ、実は要用もあり、お差支なくばお供を致しましょう」
「あなたが御一緒は却って有難い。おはなしに花も咲きましょう」
精一郎は、道場の奥の座敷で、伝兵衛を待ち受けていた。伝兵衛は頻りに四辺を見渡して
「こゝへ来ると故真帆斎先生を思い出しますなあ。あの方は本当に古今の名人でしたな」
といった。
伝兵衛がこの日に横堀へ来るという事をきいて、それならばという精一郎の招きだから、極立った用事はない。精一郎は、大酒ではないが、何によりもお酒がお好きな伝兵衛のために、蔵元からのいゝお酒を用意してあったので、頻りに盃をすゝめた。
伝兵衛は酔って来る。
「どうも近頃の世の中は面白くないですな。公儀当路の諸役は、上は上、下は下なりに、唯々権謀術策に明けくれし、賄賂横領飽く事無く、真に国を憂え、庶民を案じ、御奉公の心などは少しもない。わたしは止むを得ない事情から、或る権門《けんもん》に出稽古をしているが、実に嫌やだ、その日常は眼を掩いたく、その心情は唾棄すべしでしてね」
小吉と精一郎がちらっと眼を見合せた。伝兵衛が権門といっているのは、町奉行鳥居耀蔵一門の事である。その奸佞は知らぬ者がないが、伯父が筆頭御儒者衆三千五百石の林大学頭、うしろ楯が浜松六万石の老中筆頭水野越前守忠邦では何人もどうにも手が出ないのである。いやその手を出そうというものよりも耀蔵は役者が一枚も二枚も上であった。
「といって、自分の力では何にも出来ない。その不甲斐なさに我れながら愛憎が尽きましてな、剣術を教えるも気がすゝまず、先ず卑怯と申せば卑怯だが、茶事などに逃避して老後を平穏に送ろう算段、いや、誠に面目ない、お笑い下さい」
「御心中は、わたし如きにもわかりますよ。ともかくもう一盞」
小吉は酌をした。
伝兵衛は酔って上機嫌で、やがて精一郎が駕で車坂へ送ってやった。小吉と二人門の外まで送った。
元の座敷へ戻って、精一郎は膳部を悉く下げさせて
「ところで叔父上。この間は島田が思い知らされたようですね」
と、から/\笑った。
「おれは後で、飛んだ悪い事をしたような気がしてね、恥かしいよ」
「いや、結構でしょう。しかし流石の島田も恐入っています。それにつけても麟太郎どのを、預け置きまするは如何でしょう、叔父上の御意見は」
「あれはいゝ。麟太郎はおれがような放埒の者の子だ、血が同じだ、間違ってもおれがような男になられては大変ではないか。虎之助は田舎っぺえだが、生真面目だ。あゝ云う男に叩込んで貰わなくては駄目だ、阿蘭陀の外に禅もやらせているとよ」
「それはわたしが申しつけました」
「そうか」
「叔父上はすでにお試しなさいました。さて島田の腕をどう御覧になりますか」
小吉は顎を撫でた。
「まあ駄目だねえ」
「え? わたくしは、あれは、わたくしより強い、三本の中、二本はとられると思っていますが」
「ふっ/\ふ。弟子を甘やかしてはいけねえよ。いや、ひょっとしたら、竹刀勝負なら、虎はお前に勝つかも知れないねえ。が、精一郎、お前もわかっている筈だ、お前の剣術と、虎が剣術とは、違うよ。あれはまだ/\本当の道を歩いてはいねえよ。例えば、おれが剣術のようなものだ」
精一郎は、じっと小吉を見詰めていた。
「竹刀や木刀で飛んだり跳ねたりで、打合うだけが剣術の稽古ではない。精一郎、も少し性根を入れてぶちのめしてやれ」
「はあ」
「だが、あの男はお前と違い麟太郎を本気でぶちのめすだろうから、いゝよ」
「さようで御座いますか。叔父上はそれを御承知でございますね」
「元より——。お前もそのつもりでやったのだろうが」
「はっ/\/\」
二人が顔を見合せて、一緒に大きく笑って終った。
「しかし島田は叔父上の服装には驚いて居りました。そして、それを見ても江戸の人は誰一人笑いもしなければ、不思議そうにもしない。これが江戸だと教えられて、大いに自得するところがありましたといっていました」
「まるで茶番の姿よ。虎も江戸が呑込めただけでもいゝ修行になったろう」
「そうでしょう」
更けて帰りに、自分の息が、はっと白くなった。空が何んとなく白ッちゃけて、薄い銀の板を張ったように見える。
「もう冬かあ」
その夜明けに近い頃である。とん/\とん/\、物凄い勢で、小吉の門を叩く者があった。それが余り激しいから小吉は思わず刀を引っ下げて出て行った。
「野中の一軒家ではないんだ。静かにしろ」
怒鳴りつけると
「せ、せ、先生、ご、ご、御隠居様が」
「おう、殿村南平だな。隠居がどうかしたか」
「い、い、いけません」
「死んだか」
「ま、まだお息はございました。——が」
小吉は跣足で飛出して行って、門を開け乍ら低い早口で
「おう、真逆、自殺じゃああるめえなあ」