殿村南平は、小吉の顔を見るなり、泣きついて、暫くぶる/\慄えるだけで声は出ない。
空高く星が宝石のように冴えていた。
「そうか」
と小吉もごくっと唾をのんで
「自殺をしたか」
「せ、せ、切腹をなさいました。ど、どうしてあんな悲しい事をなさったのでしょう」
「あ、あれは馬鹿だ」
小吉はそのまゝ内へ燕のように飛返って、お信へ何にかいってすぐに仕度して出て来ながら
「万事はおれが指図をする、それ迄は岡野が屋敷へは何にも云うな」
「はい」
お信の返事がきこえた。
もう小吉は駈けていた。殿村はたった今、こゝへ来たばかりで息も切れているが、小吉に遅れてはならないと転がるようについて行く。
北中之橋から横堀に沿って、御弓同心の組屋敷の前を駈け乍ら
「あの不自由なからだで良く腹が切れた」
ひとり言をいって、急に足をゆるめた。
「殿村よ、世話になったねえ」
泣いているのである。
道傍の枯芝にうっすらと霜らしい白いものが感じられる。
小吉が殿村の家へ着いた時は、隠居は冷たくなっていた。それへ祈祷姿の白い法衣を着た清明が押しかぶさるようにしがみついていたが、小吉の来たのを知ったら、また堪らなくなって声をあげて泣いた。
隠居はうつ伏して、脇差で胸を刺している。
小吉はその肩をつかんで
「御隠居、死にやんしたか」
と、たゞ、それだけいって、後は眼をつぶって黙って終った。
隠居は、殿村と清明が加持に頼まれて、一寸出た隙にやった。腹を浅く切って、その脇差へおっかぶさって死んだのである。くれ/″\も注意して、刃物は手近に置かないように、小吉に云われてはいたのだが、加持祈祷に行かなくては、この家のくらしが立たない、仕方ない事であった。
夜がほの/″\と明けて来て、おもては一ぱいの霜であった。初霜である。鈍い朝日の光にぼんやり見えている隠居の屍へ
「御隠居、死にやんしたか。最後まで我儘を通したねえ」
小吉がまた切羽詰った声でそういった。
殿村の家は戸を閉めて一切留守の態に拵え、頃合を計って殿村が、小吉に云いつけられて買物に出て行って、また人を頼んで割下水の外科篠田玄斎を呼びにやった。
待っているところへ、篠田玄斎がやって来た。
「岡野の隠居が、ちょっと怪我をしてね。死んだよ。がこんな事で死んだんでは、隠居とは云え岡野の千五百石に疵がつく。どうだ、わかるか」
「ふん、野暮では、勝夢酔先生と付合は出来ないよ。まご/\したら、また自慢の国重をずばりと眼の先きへ突立てられる事さ」
「その通りだ」
「安心おし、玄斎は本所《ところ》もんだよ」
それでも、すっかり繃帯をしてちゃんと衣服を整えて、脇差をさして何事もない風にして隠居の駕が入江町の屋敷へ戻って来たのは、もう|七つ下り《よじすぎ》であった。
しかもこの駕の廻りにいるのは、小吉と東間陳助の唯二人で、途中迄いつも小吉に叱られては今日までおとなしく用人をつとめている堀田甚三郎が出迎えた。
「どうだ、殿様の行方は知れたか」
堀田は頭をかいた。
「八方手を尽しましたが、未だに知れません」
「困ったねえ」
と小吉は大きく舌打をして
「型ばかりだが嫌やでも検視の御役が下《さが》る。当主がいなくてはどうにもならない」
「はっ/\は」
堀田は笑って
「こゝ迄来て終えば居ても居なくても同じ事でしょう」
「こ奴」
と小吉はこわい眼をした。が、急ににゃ/\ッと笑った。
「そうだ、居ても居なくてもいゝような人だ——が、気の毒は奥様《おまえさま》、おれは、あのお方にお逢いするのが辛い」
「本当ですな」
と堀田も首を下げて
「あのお方はまるで仏さまですからね、しかし見方によっては余り御自分というものが無さ過ぎる。御隠居の好むまゝ思うまゝにおさせ申して置くのが、御隠居のために一番|幸福《しあわせ》だとばかり思込んでいられたところに、わたしに云わせると不満がありますね」
「仏さまというものは慈悲だ。奥様は御隠居を慈《いつく》しんでやっていられた。あのお姿は尊いぞ」
「言葉をかえれば、あの御隠居に心から惚れていたからだとも見られますな」
「馬鹿奴、下司をぬかせっ」
小吉はそういってから
「それだけにお嘆きがお気の毒だ」
しかし屋敷へ駕がつくと玄関へ出迎えた奥様は驚く程しっかりとしていられた。
たゞ御急死とだけ申上げたが、これを申上げた堀田には、奥様はその時にはもう何にもかもお察しでいられることが感じられて、その事を、さっきも小吉へ話した。
御里方が御家柄とて流石は御立派なものだ、小吉はそう思った。お信もお順を抱いて、玄関式台の横の砂利に立って迎えていた。
誰も一と言も物を言わない。たゞ、黙って御隠居を駕ごと、奥の書院へ通し
「さあ、こゝでお静かにおやすみなさい」
駕から抱き下ろして小吉はひとりごとのようにいってからそして改めて、こゝへ床を敷いて仰向けにねせた。
「奥様《おまえさま》、御隠居のお顔をじっと見て上げて下さいまし。あなたなら、御隠居が、何にを云っているか、おわかりになる筈だ」
といった。奥様は
「最後まで、あなたの御親切をいたゞきました。江雪に代って、わたくしより改めて御礼を申上げます」
「何にをおっしゃる。しかし御隠居の我儘もこゝ迄来れば、恐入る外はありませんね」
「はい。自儘に死ねる境涯は本当に幸福でござります。それにしても、唯一人の子の孫一郎が、いま此際に行先が知れないとあっては、江雪もいさゝか心がかりかも知れませぬ。真実の父と子であり乍ら、互に血を流す程によく争いました。どう考えても、血のつながる父と子とは見えませんでしたが、そうした互の心が、こんな果敢ない姿になって顕れましたので御座いましょう」
「まことに申しようもないが、千五百石に疵はつけませぬから、御安心なさいまし」
「といってもお届け申せば、今夜にもお下りなさる御検視が——」
「わたしに考えがある。心配はない」
小吉は刻限をはかって、夜更けてから岡野江雪急死の旨を支配の松平伊勢守の組頭大塚三左衛門の牛込細工町の屋敷へ届出た。
大塚は男谷精一郎の門人だ。どうせ検視は明昼頃になる。それ迄にすべての仕度をして置けばいゝのである。
別間で堀田に何にか話していたが、やがて東間をつれて道具市場の世話焼さんへやって行った。
「おう、世話焼さん、お前、岡野の今の殿様を見た事があるね」
「ございますよ」
「何にをやってる奴でもいゝ、あれに似てるような男がこの辺にいねえか」
「藪から棒でございますね。が、いますよ」
「え」
「と申しますのはね。いつもみんなで然様《そう》言っているんですから考えて見る迄もなくお答が出来るんですよ。先生だってよっく御承知だ。当人は先生の身内だ/\といっていつも威張っているんですから」
「ほう、馬鹿な事では岡野孫一郎に似ているようだな。誰だ」
「入江町の切見世で女の世話を焼いている三次ですよ」
小吉は手を打った。
「うめえ奴がいたものだ。そうだ、あ奴そう云えば孫一郎に似ているな」
「似てるどころじゃあございませんよ。みんな瓜二つだ、岡野の殿様も大そう女が好きだと云いますが、あの三次もそれに勝っても敗けないという奴で、いつもきょとんとして、死人見たいな青い顔をして、がっくりと肩を落して、ぽそ/\と歩いている。だが女には類のない親切でしてね。切見世では人気がいゝんでございますとさ」
「鬢《びん》を奴《やつこ》にしていたな」
「それはそうですよ」
小吉は首をかしげたが
「よし、それ位は、何んとかなるだろう——世話焼さん、すまないが、三次を引っ張って来てくれねえか」
「おやすい御用」
といったら横から東間が
「あ奴、あれで文句をぬかす奴だ、わたしが行って来る」
「そうして呉れるか。それじゃあ、世話焼さん、今夜一寸、みんなの智慧を借りてえ事があるんだ。花町の松五郎頭をはじめ、おれが知っていてその辺にぶら/\しているような奴を皆んなここへ集めては呉れないか、お前さんにはとんだ迷惑だが」
「よろしゅう御座いますとも」
「たゞね、谷中の五助は元より仕立屋の弁治だの漆喰絵の長吉だの、ほんの堅気になっている奴はいけないよ。これらの心をゆさぶっては気の毒だ、みんな下地のある奴らだから、ひょいと誘い水をしたらどんな事になるかも知れないからね。それから緑町の縫箔屋の長太は是非来させてくれ、あ奴どうなったか、見たいからね」
それからあっという間にみんな集って終った。行灯を横に小吉はいつもの大座蒲団へ坐って
「岡野の隠居が御通夜をこゝでやっているような塩梅だな」
そんな事をいって笑った。岡野の屋敷との間は、東間が何度も/\行ったり来たりして、堀田とうまく連絡をとった。その序手には小吉の方へも寄って来るので、今、お順ちゃんが泣いていました、今はすや/\とおやすみです、そんな事迄手にとるようにわかった。
依然として孫一郎の消息はわからない。たゞ例の米屋の娘と一緒な事だけは確かで、ひょっとしたら公儀の掟も何にもあったものでない馬鹿だから、ふら/\伊豆辺りへ遊山湯治に行ったのではないだろうかというような噂をしている者もあった。
「あの殿様の事だ。とんだ怠け者だから徒歩で行く気遣いはない。|しらみ《ヽヽヽ》潰しに駕屋を調べて見てくれろ」
松五郎頭がこの役を仰せつかって、すでに八方へ組《くみ》の若い者を走らせている。
小吉は、前に出した莨盆から火をつけて、一服吸った。そしてじっと隅っこにいる切見世の三次を眺めた。
「おう三次、お前は明日の立役者だ。しっかりするんだぞ」
「へえ」
三次は膝へ頭をぶっつける程にぺこりとして
「大丈夫です」
「対手は御役人だぞ。しかもお前の芝居を、ものの二間とはなれないところから御覧《ごらん》なさる。寸刻の油断をしても見破られる。見破られたら岡野家千五百石に疵がつくばかりか、お前は元より打首。このおれも切腹だ」
「へ、へえ」
次の日、小吉の予定通りの刻限に、予定通りに大塚三左衛門と、相支配の戸塚備前守の組頭松本利右衛門がやって来た。組頭は御役料三百俵という役柄、ずーっと入って来たら、勝小吉が平伏して出迎えた。その次に東間、その次に堀田が控えている。大塚も松本も小吉の顔は知っている。
「どうぞこちらへ」
やがて小吉が案内したが、二人は立ったまゝで、隠居の遺骸へ一礼をして、顔を掩うた白布《しろぬの》を取って見ようともしなかった。
隠居を安置した横に三次の化けた孫一郎と、奥様が並んで少しこゞみ加減にしていた。三次はこち/\にからだを硬ばらせて真っ紅に眼を泣きはらしている。
「確と御見届け仕った。御愁傷に御座る」
大塚は型通りにそういって、そのまゝ、すぅーっと遺骸をはなれた。
奥様と三次が、一緒にぱっと平伏した。千五百石の旗本のこうした場合のお辞儀の姿勢もいやになる程稽古をさせられて来たのだが、そも/\三次などという男は生れて以来こんなお辞儀などをした事はない。知らず/\胸が畳へくっついて、尻の方がひょっこりと浮上った、と思ったら途端にぷッと一発小さく短い奴だが、もらして終った。
一同はっとする。その間髪を入れず、堀田が大塚へ東間が松本へ、黒いお盆へ載《の》ったお目録を頭より高く捧げて差出して
「お潔め料に御座ります」
といった。二人とも、今の三次の一件は気がついたか、つかないか、黙ってこれを受納して、小吉へちょっと目礼すると、そのまゝ振向かずに帰って行った。お潔め料は検視の仕来りである。
みんな玄関へ送って出る。が、三次はべったりと腰を落したまゝ、そこから身動きもしない。正に腰がぬけた。
検視役が門を出るか出ないに、東間が飛鳥のように、引返して、いきなり、ぱっと力任せに三次を蹴飛ばした。でーんと仰向けに倒れるのを、今度は胸倉をとって引き起こし、庭の方へ引きずって行った。
三次は、足が逆にねじれて、立つ事も逆らう事も出来ない。