小吉は、東間を遮って
「これ、殿様を、そんな目に逢わせてはいけないよ。はっ/\、おい、三次、お前、うめえところでやりやがったね」
笑っていた。
「この馬鹿が! いかに下司とは申しながら、場所もあろうに、あゝしたところで——叩っ斬ってやる」
東間は口を尖らせて真っ紅になっている。
「いや、あすこでうまく潔料《きよめりよう》を差出す気ッかけがついた。いゝ芝居だったではないか。先ずこれで何事もなく相済んだというものだ」
「といっても、余り——」
「切見世の女を対手にひょろ/\と日を送っている人間だ、人様の前で、千五百石の御旗本のきっちりと形の定っているお辞儀をしろというのが土台無理よ。それに、あゝ、こち/\に四角張ってからだをかゞめ、尻が浮くと屁も出るよ。元々好んで大役を引受けた訳ではなし、勘弁してやれ」
おまけに縫箔屋をはじめ、界隈の破落戸《ごろつき》見たような奴が、みんな侍姿で、しかつめらしく坐っていたが、どれもこれもしびれが切れて立つ事が出来ない。四苦八苦をしている図は、如何にも江雪の遺骸を安置したところらしくて、あの人があの世でにこ/\見ているだろうと思うと小吉は何んだかうれしかった。
三次は、平つくばってぼろ/\泣いている。
「いゝよ/\」
とそっちへ向いて
「お前は、夜も明けない中からわざ/\|おででこ《ヽヽヽヽ》芝居へ行って、奴頭《やつこあたま》を御旗本風に拵えて貰って来ただけでも大変な苦労だった。|かつら《ヽヽヽ》という訳にも行かない故、足毛《たしげ》を一本々々べた/\に堅糊でくっつけて、|びんつけ《ヽヽヽヽ》油をぬりまくり、眉を釣上る程に結ってある。頭から顔が時の経つにつれて、ぴり/\硬張って、その上、硫黄をいぶして、眼を泣き腫らすというのだから、お前は此度一番の貧乏籤よ。行先の知れない御旗本の偽者がおやじどの急死の御検視の前で、屁をやるなんぞは面白いよ。いゝんだ/\」
「す、す、すみません。先生、ど、どうぞ、あっしの首を落してお呉んなさい。この通りでございます」
三次は手を合せた。
「ところがまだ/\首は落されないよ。明日は友引で出せないから、明後日屋敷を出るお葬いはやっぱりお前が喪《も》主だからね」
「せ、せ、先生、どうぞ叩っ斬って下さい」
「うるせえッ」
小吉は本気で怒った顔をした。
「斬ってくれというならいつでも斬ってやるが、今も云う通り明後日までは斬れない」
そう云って、それっきり、奥様《おまえさま》と二人、奥の方へ行って終った。
「馬鹿野郎」
東間が後で平手でぱっと頬ッぺたを張ったが、三次はうつ伏して泣いているだけであった。
その夜になって、松五郎が眼をくる/\させてやって来た。
「先生は」
と玄関にいた東間へきいた。
「あちらだ」
遺骸のある次の間に、小吉は苦虫を咬みつぶしたように眉を八字に寄せて、腕組みをして坐っている。傍に堀田甚三郎もいるし、世話焼さんもいる。俄かに侍に化けた縫箔屋だの、切見世の奴だのが一人残らず損料借の紋付を着て、如何にも窮屈そうに弱り切って坐っている。縫箔屋が袴を無理に両側へひろげてその中で胡坐をかいていたのを見つかってさっき堀田に叱られた。
「見つからないな」
小吉は松五郎の顔を見るとすぐそういった。
「へえ、見つからねえどころか、先生、訳がわからない事になりやした」
「何?」
「殿様と一緒に間違いなしという米屋の娘ね、あれがちゃんと一人で行っている先が知れました」
「ほう」
「そこであっしが、あの娘を引出しましてね、実は斯う/\いう次第で御家の一大事だ、お前の出方によっては、おいらにも覚悟があるがどうだお前、殿様を知らねえかと訊きますとね。知らないという。知らないといってもそんな筈はねえだろうと、いやもう、脅したりおだてたりでききますとね、実は殿様はこの頃新しい女が出来ましてね、それに夢中で、わたしの事などは見向きもしなくなっている。何処か旅へでもお出かけなら、その方とご一緒ではないのでしょうかというんですよ。その上、ごた/\ごた/\殿様への恨みを並べ、この恨みはきっと晴してやるなどと——」
「別な女を探したか」
「探しましたとも——先生、そ奴がなか/\の曲者ですよ。薬研堀の裏店にいる粋な常磐津の師匠で柳橋などにもお座敷へ出る、日本橋界隈の大店の旦那衆に取入ってその店《たな》へも出入をしてやしてね。聞いて見ると腕っこき——芸の方じゃあござんせんよ男にかけてです。殿様どうやらこ奴に引っかかった」
「引っかけたところで鼻血も出ないから心配はないでしょう」
と横から口を入れた堀田へ
「米屋の娘のうしろには、姿をかくして例の大川丈助という蛇のような奴がまだ糸をひいている。おれは内心、殿様も母上が死んだら、表向き奥方として屋敷へ入れるの、やれ、化粧料に五百石やるのと口から出任せをいっているが、しかしあのまゝ満足していて呉れれあいゝと思っていたが、あの女を捨てたとなると、こ奴、ひょいとするとまたうるさくなるぞ」
「はっ/\、そうですなあ」
という堀田へ向いて、小吉は舌打をした。
堀田は小さな声で、ところで松五郎頭、その師匠のところへ行って見ましたか、という。
「行って見たらいない。三日前に、亀戸の天神へお参りに行くといって出ましたと、少々足りねえような飯炊婆《めしたきばゝ》がいうから、段々さぐって見ると、それがどうも殿様と、何処かで落合って行ったらしいんです」
「もういゝ、もういゝ」
小吉は手をふった。
「投ったらかして置け。どっちにしても隠居の葬いを出してからだ。切見世の三次を殿様で押通す」
「そうですね」
と堀田はにや/\して
「男というものは、新しい女が手に入ると並の人でも少しおかしくなる。ましてやあの殿様です、当《あて》にせぬ方が無事に参りましょう」
「何にをいってやがる。お前はこゝの用人だ。そんな女の出来たのを知らなかったのか」
「面目ありませんが、知りませんでした。公儀の掟も御旗本の定めもあったものではない、米屋の娘が来ないなと思うといつの間にかひょろ/\と出かけましてな。あの殿様の女出入を一々気にしたのでは、こちらの命が持ちません」
「不忠な家来《けれえ》だ」
「そうです。先生、この辺で東間さんとでも交代させて下さい。この葬式の後に、また先生さえ手こずった大川丈助でもねじ込んで、手切金だの何んだのという事になっては到底《とて》も堪らない」
「はっ/\。お前は、そういう事が好きではないか」
「飛んでもない」
「いや満更でも無さそうだよ。今度、丈助が来たら、お前と悪智慧比べをさせて見るがおれは楽しみだ」
「真っ平/\」
とぺこ/\頭を下げたり手をふったりするが、実は小吉のいうように、堀田甚三郎満更でもなさそうな顔をしていた。
「それはそれとして先生、御大身の御旗本などというものは、無類に薄情なものですな」
「そうだよ。今頃になって気がついたか」
「いやあどうも——隠居が亡くなったというに御本家岡野出羽守様をはじめ御親類方が誰方《どなた》お一人、お悔みに見えない。いくら生前、御迷惑をおかけ申したにせよ、ずいぶんひどいものだ。裏長屋に住んでいるその日ぐらしの者でもこんな事はないですよ」
小吉は黙っていた。瞼がうるんで来る。がふと気をかえて
「面倒でなくて、その方が却って助かる。隠居はな、唯人前だけを心にもねえお悔みをいうようなは大嫌えな人だった」
といった。
一日日をおいたがとう/\親類は誰も来ない。親類どころか殿様の行方は探してもわからない。亀戸の天神へは、松五郎頭が自分で行って調べて見たが、茶見世の女達も誰一人それらしい姿を見かけた者はいなかった。
「ひどいものだ」
堀田は沁々と何度も同じ事を云う。
「いやあの隠居の事だ。却ってさば/\しているだろう。今に、少し落着くと幽霊がおれのところへ出て、勝さん冥土というは案外いゝところだ、お出でよとか何んとか迎えに来るかも知れないよ」
「先生、行きますか」
「いや、おれはまだ娑婆《しやば》に未練がある。行かないね」
「御隠居が恨みましょう」
「そうだ、恨むね。薄情だなあと、眼を細くして笑う隠居の顔が見えるねえ。ほんとうにいゝ人だった、おれはいつも擲ったり、肥溜へ投り込んだりしたが——」
「しかし、お葬式の喪《も》主が世間を一人前では通らない切見世の男だったなどという事は痛わしいですなあ」
「まあ、そういうな」
お葬いの日は、夜の明け際に銀色をした大粒の雨がばら/\降ったが、すぐやんだので、雲は低く薄ぐもりでひどく寒かったが、みんな助かった。
喪主の三次は、仲間の奴らに、もう三日もこうして髷を堅糊でくっつけてあるので自分の顔が、自分のものか他人のものかわからなくなって、頬をつねっても痛くないような気だなどとぶつぶつ愚痴をいった。
が何分にも|おなら《ヽヽヽ》の一件がある。堀田に睨まれても小さくなり、東間に見られても小さくなる。まして小吉にじろりとでも見られたらすぐに真っ青になって慄え上った。
お昼少し前に、ちゃんと定っている千五百石の型通りの隠居の葬式が出た。
「奥様、これで江雪どのともお別れです。武家の葬いに女が出てはならぬ作法ですが、そんな馬鹿な話はない。あなた、みんなと一緒にお輿《こし》を玄関まで支えてやって下さいまし」
「はい。勝さん、到れり尽せりの行届いた御恩は一生忘れませんで御座いますよ」
「御恩も何にもない。わたしは隠居が、いつものように屈托なく、にこ/\笑って勝手放題をいって、そのまゝすうーっと極楽へ行けるようにしてやりたいだけでしてね」
「はい。有難う存じます」
奥様は、小吉へ向って、痩せた手で泣き乍らじっと合掌した。
「さ、参りましょうか」
小吉が大きな声で指図をした。
岡野の菩提寺は、深川万年町の増林寺である。これが図らずも男谷家の寺で、小吉の父平蔵がねむっているところだ。
葬列の指図は一切堀田に任せた。この男は実はこんな事には思ったより馴れてもいたし気も利いた。隠居の輿の前後に行列してみんな地面を摺《すり》足で静かに歩いてくのは、なか/\立派で何処から見ても千五百石の貫禄である。
津軽屋敷の表門の前を通って一つ目の通りから二ツ目橋を渡る時に、輿が竪川の水に映って、きら/\と光るように感じた。南へ真っすぐ|高ばし《ヽヽヽ》へ出て、霊巌寺の門前町から、仙台堀の正覚寺橋を渡ると直ぐ鼻っ先きが増林寺だ。
その霊巌寺前で何気なしにひょいと見ると、丁度牧野備前守|下屋敷《したやしき》前の辻行灯のところを、往来をもはゞからず、もつれるような恰好でこっちへやって来る男女の二人づれに気がついた。
「あ、殿様だ」
思わず口走った堀田が小吉を見る。小吉も流石にはっとした顔つきで堀田をちらッと見たと思ったら、そのまゝ葬列をはなれて、真一文字に飛んで行った。
如何にも岡野孫一郎。相変らず気のぬけた青い顔つきで、がったりと肩が落ち、小紋の羽織に同じ袷の重ね拵え、雪駄ばき。傍の女に倚りかゝりでもしたいような風態である。女は如何にも初顔だ。細っそりした丈の高いきりゝとした粋な姿である。
小吉はその前へずばっと立った。
「殿様生きてましたね」
「え?」
孫一郎は、深い編笠の小吉を窺き込むようにして
「あゝ、勝さんか、お葬いだね」
「そうです」
「誰方《どなた》?」
「殿様《とのさん》の知らない方だ。岡野江雪という人だ」
「えーっ?」
「あすこにいる喪主は岡野孫一郎どの」
「ふっ/\/\。脅かしていけないよ勝さん」
といった時に、小吉の腕はぐッと孫一郎をつかんで、女の方へ大きな眼をむいて
「女、おれは入江町の勝夢酔、文句はいつでもきくぞ」
吐きつけるように怒鳴ると、もう、子供を引きずるようにして橋の袂にある薄汚ない馬方《うまかた》蕎麦屋の縄暖簾の方へ連《つ》れて行った。
「お、お、お前」
と孫一郎は、振向き/\、女の方へ云いかけるが、女はもう逃げ出している。孫一郎は未練にじたばたするが身動きも出来ない。
「馬鹿奴!」
小吉はそれを、どーんと暖簾の内へ投げつけるように押込んだ。