動悸《どき》ッとしたが、途端に太吉が刀を振り上げた桜井へ小吉に教えられた通り真ッ正面からぶッかませるように力任せに組付いて行った。しかし対手はとっさに腰をふって、太吉を離して、目にもとまらぬような早技でさっと一太刀、股の辺へ斬りつけた。
血が見えた。と一緒に小吉はいつの間にか握っていた砂を桜井の顔へ凄い勢いでぶっつけてやった。
「あッ」
大兵の桜井は左手で顔を押さえて一度のけ反ったが忽ち背中を丸めて打伏せるような恰好になった。
「行け!」
小吉の大きな声がした。下半身血みどろの太吉と共に下役や小者達が雪崩を打って折重なって行った。下役にはこうした捕物に馴れた者もいる。小吉がにや/\して突立っている足許に、大きな獣ででもあるように転がされている桜井は、ぐる/\巻きに縄を打たれて、おかしな事に、すでに気絶していた。
「太吉を担いで行って疵の手当をしてやれ」
「はあ」
下役達が三人がかりで、持ち上げたが
「な、な、何に、大丈夫でございます。これ式に——」
顔にはすでに血の気がない。
「何にが大丈夫なものか。その儘置けばお前死んで終うぞ」
「い、いやあ——」
太吉は頻りに元気ぶっているが、無理に運ばれて行く途中でとう/\気を失った様子。
彦四郎がそこへ近づいて来た。小吉は桜井を見下ろして小首をかしげながら
「兄上、これはどうした訳でありましょう」
彦四郎は
「おい、牢舎《ろうや》へぶち込んで置け。黙っていても気はつくが、手桶で水でも打ちかけてやるか」
下役へいってから、はじめて小吉へにやりとして
「この辺の小者にはな、斯ういう捕物には、誰かが必ず下へくゞって、睾丸をとって引きすえる術があるのだ」
「はあそうですか」
「それにしてもお前は今怪我をした百姓を知ってるようじゃな」
「地蔵新田の太吉、強い男ですね。あれは何んとかしてやらなくてはなりません」
「あゝした乱暴人の捕物などには、百姓は狡いから、たゞ空騒ぎをして遠くから囃立て陣屋の者達にばかり働かせて、自分は決して損はせず、得だけを得ようという気がある。今の男に充分な報いがあれば、自然その気風もいくらかは変って来るかも知れんな」
牢へ入った桜井は不貞腐って、大きな眼玉でぎょろ/\睨み廻して、酒を持って来いとか、こんな飯が|食える《ヽヽヽ》かとか怒鳴りつゞけたが、彦四郎は、野荒しをした小|盗《ぬす》ッ人《と》などと同じような取扱いよりさせなかった。
小吉は面白がって、時々、この牢舎へやって行って牢格子の外からきょとんと白っとぼけて見ていた。桜井はにぎりこぶしで羽目板を割れる程も叩いて
「上州新田の者と知ってこの取扱い、貴様ら、切腹位ではすまんぞ」
「そうですか、こちらは天下の家人《じきさん》、それでも市井無頼の輩《やから》のように獄門にでもなりましょうか」
「黙れッ。新田家はいずれへ行こうと我儘御免、御法度の外を歩ける格式だ」
「はゝあ、それは豪儀至極。強請《ゆすり》詐欺《かたり》もお構い無しか」
「うむ」
「その強請者《ゆすりもの》に斬られて、お蔭で御領内の百姓が一人、生れもつかぬ片輪になった。これもお構い無しかな」
さっきも太吉の手当をした医者が、もう一人前の働きは出来ないといった。それが小吉の胸にぐんと来ている。
「何れにもせよ、新田へ当方から掛合の者が行った」
「新田へ?」
「桜井などというそんな奴は知らんと云えば——はっはっは、恐らくはそういうだろう——そうなればおのしをどう成敗しようと、御代官の自儘だ、面白いな」
桜井の顔色が少し変った。
「御代官は新田様との御対決を大公儀に御嘆願を申しても、この黒白はきっとつけるといっている。天下三ぐずりの、新田岩松様の無法が通るか、それとも御領を預かる代官の存じ寄りが通るか——ね、面白いではないですか」
「天下三ぐずり?」
「いやわたしも昨夜御代官からうかゞったのだが。——野州|塩谷《しおや》の郡|喜連川《きつれがわ》侯、三州|宝飯《ほい》の郡《ごおり》長沢松平。これを天下三ぐずりというそうだね。だが、その中で喜連川侯も松平家もいじめる対手は大名だが、百姓を苛め廻るのは新田だけだそうだ」
桜井は妙に口をひん曲げて小吉を睨んだが、顔色は段々蒼ざめて行くだけであった。
喜連川は足利の旧門を取立て後ちに家康の第九子忠輝が養子となって天下諸侯の扱いを受けてはいるが無禄である。三河長沢の松平は家康の六男の家で、白無垢を着て年に一度だけ輿へのって登城する。これも無禄。
江戸から七十七里東海道赤坂の宿から松並木つゞきで、八王子橋、二つ橋と小さな川を二つ渡ると、こゝが長沢だ。
参覲交代の大名の上下。嫌やでも通らなくてはならぬ。二つ橋は長沢へ入ろうとする村はずれだが、長沢の当主は白無垢を着て、この橋の真ン中に床几をすえて大名行列のやって来るのを待っている。
金一封を持って飛んで行って挨拶をすると、すうーっと立って「何々の守殿へよろしゅう」とか何んとかいって姿を消すが、|へま《ヽヽ》をやると半刻でも一刻でもここを退《の》かない。近頃では行列の二里も三里も先きに走って来て家来が一封を渡すから面倒が起きなくなり、差上げる金額も禄高に応じて、殆んど定ったから、松平は活計《くらし》がおゝきに|らく《ヽヽ》になったと笑っているという。
小吉は牢の中のだん/\影が薄くなって行く桜井を見ながら、こんなことを思い出しておかしくなって終った。
「徳川《とくせん》が天下《おいえ》も隅から隅まで腐っているものだ」
吐き出すように呟いて、今度は桜井へ
「おい、いざという時にあわてねえよう覚悟あして置くがいゝね」
そういってぷいッと行って終った。
支配地の収穫は悉く済んで、もういつ江戸へ帰ってもいゝのだが、新田の一件が引っかゝって、彦四郎は江戸へ帰れない。
信濃の晩秋は輝やき渡るような日があったり、今にも雪か霙にでもなりそうに暗かったりした。
先頃までは、雁が群れて、月をかすめて幾百となく飛び去るのを見たが、今はもうそれもなく、鴉の声が時たま裏の雑木林から背中がぞく/\する程冷めたく聞こえて来る。
太吉はだん/\よくなると医者はいうが、今のところは斬られた方の脚が吊って、思うように身動きも出来ない。やっぱり片輪になりそうだ。
朝ぱら/\と大粒の雨が降った。小吉は、それが晴れてすぐ青空が見えたので、太吉の家へ見舞に来た。
「どうだ。わしを恨んでいるか」
太吉は激しく手をふって
「飛んでもありません。わたしは片輪にはなりましたが、何んだか、あなた様の仰せられた通りに男というものになったような気がしてうれしいのです」
「本当か」
「本当です。片輪にはいつでもなれるが、男になれる事は一生の間にあるかないか知れないものだとはっきり思い当りました」
「嘘にもそう云って貰うだけで、わたしはいくらか重荷が軽くなる。だが、やっぱりすまない事をしたと思っているよ」
「か、か、勝様、もしそんなお気持でいられるなら、あなた様は間違っていらっしゃいます。太吉を恥しめるのはお止め下さい」
「有難う。勝小吉もやがては江戸へ帰る。わたしは、役人になる事など真っ平だが、あの兄上のお気性、どうしてもわたしを御番入をさせずには置かないかも知れない」
「へえ」
「自然、なか/\二度とこの信州へは来る事などは無いだろう。何にかの時にはお前江戸へ出て来て呉れ——といっても、脚が不自由ではなあ」
「何あにお目にかゝり度くなれば、片脚ででも参りますが、あなた様のお家柄、御代官にでもお成りなされましたら、またこちらへ」
「いや、そういう事はない。兄上にはお子はないが別に養子を迎えることになっているから、わたしは男谷の家とは何の関係もないのだ」
太吉は芋を煮て小吉をもてなしたが、その戻りの道に、櫟の森の古い地蔵の前まで来たら、またばら/\と霰が降って来た。
この晩とう/\粉雪になった。信濃の初雪。
彦四郎は、酒をのんでいたが不機嫌で、何にかにつけて仕えている女を叱りつけた。
「小吉。間庭はずいぶん手間取るな」
新田へ掛合に行っている手代の事を出しぬけにいい出した。
「上州から江戸へ廻るのですから、これ位はかゝりましょう」
「それにしても彼奴め、途中から凡その|たより《ヽヽヽ》を差立てる事もわきまえん。帰ってきたら解雇だ——おれももうふつ/\江戸へ帰りたくなった」
「わたくしも然様《さよう》です。唯、太吉の一件が気になります」
次の日も次の日もつゞいて雪。しかしうっすら白粉をまいたようにはなるが降っては消え、降っては消え、雑木林の枝裏や地べたの窪地などに、ひょっと白いものが見えたりする位のものである。
この朝もさら/\といつもの白粉雪が時々降ったり止んだり、時には青い空がびっくりする程に拡がったりしている中を、手代の間庭がやゝ疲れてはいるが、元気で陣屋へ戻って来た。
土間へ入ってまだ草鞋もとらない。彦四郎はそれと知ってつか/\と出て行った。
「どうだ」
「はッ」
と間庭は少しびっくりしたようにして顔を上げて、眼をぱち/\しながら
「新田家におかれましては——」
「然様な者は知らんと云ったろう」
「はア。申しました。桜井甚左衛門などと申すもの聞いた事もないとの仰せでございました」
「確《しか》と然様だな」
「間違いございませぬ」
「よし。で、地蔵新田の百姓太吉の件は」
「は。御郡代屋敷の皆々様御評定の上、大公儀様御役方へ願出でました結果当人一代三人扶持——」
「下さるか」
「は」
丁度、奥からそこへ出かゝっていた小吉の方へ彦四郎はぐッと顔をねじ向けて
「聞いたか。太吉に三人扶持下さる——おい、わしが勝った。新田の無法の鼻をへし折ってやったわ。これで諸国の代官百姓が助かるぞ。わッはっはっは」
彦四郎はからだを左右にゆり動かして腹を叩いて大口を開いて笑った。
「そうですか。太吉へ三人扶持」
「三ぐずりの一つを平らげるのはわれら武士《さむらい》当たり前のこと。太吉への御扶持は、御仁政だ。小吉、徳川《とくせん》の御家は大磐石だ」
「はあ」
「これでやっと年の内に帰府出来るわ。お前江戸へかえったらまた忙しくなるぞ」
小吉はそれには無言で首を垂れた。
次の日は雪は降ってはいなかったが、空一面に鉛を張ったように重く雲が垂れて、山も見えず、野も見えず。
陣屋の手代が三人、下役や小者が五人もついて牢舎へやって行った。桜井はあの時の服装のまま大きなからだを、隅っこの羽目板に持たせて両膝を抱えてその上へ顎をのせて、如何にも寒さが身にこたえる様子でじろりとこっちを見た。見違える程に痩せて、眼が窪み、頬も顎も髯で一ぱい。肌は薄黄色く垢じみている。