桜井が牢の外へ引っ張り出されて、頭の皮がひんむける程にがり/\剃りにされ茣蓙一枚と菅の笠、大握飯一つを恵まれて、足許が今にも倒れそうにひょろ/\しながら追放されたのは、それから間もなくであった。いゝ塩梅にその時は空が晴れていた。
村はずれの雑木林へかゝると、うしろから小吉が一人で追って来た。
「おい、今夜は雪のようだ。野宿をしては凍え死ぬだろう。銭をやろう」
紙へ包んでいくらかやって
「尻ッぽをつかまれれば、そ奴を知らぬ存ぜぬというのはどこの家《うち》でもお定まりだ。諦めろ」
といったが、桜井は返事もしなかった。
「天領の百姓を一人は片輪、三人は相当の疵、かすり疵や浅手は七、八人もあるという大暴れをして首も落されず坊主位で済んだは滅法安いものだ。——まあ達者でくらせ」
そういうと、くるりと踵をかえして小吉はとっとと引返した。桜井は突立ってじっとうしろ姿を見送っていたが、小吉は振返りもせず。
その夜、寒さが骨に透ってやっぱり雪になった。小吉は大炉へどん/\薪をくべさせて、手代の間庭と外に大島、小島の三人、ぐるりとこれを囲んで世間話をしていた。炉の煙が時々幕を張るようにこっちの顔へ流れて来てむせそうになったり、真っ紅な焔がぱっと立って向い合いの人間を不動のように見せたりする。
「岩松満次郎も薄情な人間だなあ。永年あの桜井を手先に思い切り甘い汁を吸ったろうに、確かにおれの家来だ、家来ならどうしたというんだ位に、こゝンところ尻をまくって来るのが本当だがな」
小吉がそういうのへ間庭
「勝様、そうは参りませぬ。一人の家来よりは御家が大切でございますからね」
「馬鹿を見るは家来ばかりか」
「百人千人あんなのを斬ったとて大根《おおね》をやっつけなくちゃあ何んにもならんというのが御代官の御趣意ですからあの男も助かりました」
「まあそういう事だな」
広土間へ小者が飛脚をつれて急ぐ恰好で入って来た。
「御代官様へ江戸からの御飛脚でござります」
「そうか、すぐお取次申そう」
間庭が封書を受取って
「知らずにいたが、外はずいぶん降っているようだな」
飛脚は、何処もこゝも真っ白であった。
彦四郎は炬燵へ入って、女に肩をもませ乍ら、行灯を引寄せて何にやら古い書物《かきもの》を見ていた。無言で間庭からの封書をとると、ちらりと見ただけですぐに
「小吉を呼べ」
といった。
また叱言《こごと》か、そう思って小吉は渋々座敷へ入ったが、彦四郎は上機嫌である。
「明日江戸へ帰る。用意をするように」
「江戸へ?」
「油堀の屋敷が度々の|つなみ《ヽヽヽ》を蒙るのでかねて父上が屋敷替の御嘆願を申上げ裏々でも然るべく贈賄《まいない》していたが、俄かに本所亀沢町へ替地を賜わったそうだ。高潮の度には心配して避難したお前の生れた油堀とももうお別れになるな。それに小吉、面白いではないか。お前の御支配石川右近将監は卒中を発して急死したそうじゃ」
「え?」
「御支配は大溝主水正。大久保上野介が頭《かしら》を仰せつかったわ。大久保なら少なからぬ縁がある。お前の御番入も今度は叶いそうじゃな」
小吉は渋い顔をした。江戸へ帰るのはいゝが、また御番入騒ぎか——胸の中がむか/\して来る。
今ッといったら今、待て暫しのない性《せ》ッかちで我儘な兄だ。何にをいったとて何んともならない。
手付や手代達も急も急、明朝の出発ときいてびっくりしたらしいが、居残りの番に当った小島、大島の二人だけが陣屋へ残って、後は代官と一緒に帰らなくてはならぬ。
次の朝は昨日からの雪。
「みんな達者でいよ」
彦四郎は例によって馬上から、仕えていた女達などにそういって、ふと馬の首を立直したところへ、旅仕度をした何処かの代官所の下役らしい若者が急ぎ足で近寄って来るのが見えた。
小者は、彦四郎へ丁寧に一礼してから間庭の方へ近寄って何にかいった。
「わかりました」
間庭は、ふところ手帳へ、矢立をとって急いで対手のいう事を書留めてから、後へ残る大島手代へ早口にそれを伝え、大島もまた手帳へ認めた時は、もう、先きの若者は、そこを去っていた。
「何事だ」
面倒臭いといわぬばかりに眉を八字にした彦四郎へ
「小諸で牢抜けをした者がありまして、その手配でございます」
と間庭が告げた。
「何者だ」
「上田生れの音吉というばくち打ちで、子分が二百もあります由、人を殺し小諸の牢舎《ろうや》にて二百日余調べ中を破牢いたしました。なか/\腕が立ちますそうで」
彦四郎は、途中からもうそッぽを向いて碌にきいてはいなかった。馬が蹄を鳴らして歩き出している。
信濃路を追分の宿へかゝった日は、お天気で暖かった。浅間の煙がその青い空へ殊にくっきりと立ちのぼって、三ツ家村の橋を渡るところで、間庭は、もう江戸の匂いがするようですねと小吉へ話しかけた。が、まだ江戸までは四十里ある。
馬上の彦四郎の風采から供の者の様子、代官一行とはすぐにわかる。雲助や馬方などはみんな道をぎり/\のところ迄引退って、そこに土下座をして頭を下げている。油気のないその髷へ散った朽葉が留ったりしている。
悠々と彦四郎の馬が通る。少しうつら/\としていたらしかったのだが、俄かにくゎッと目を見張って
「小吉ッ」
と呼んだ。
「はい」
少し遅れて歩いていた小吉が飛んで馬の脇へ行った。
「あの馬子のうしろを見ろ」
「は?」
馬子が七、八人、道脇を流れている小川の向う側の低い枯れ熊笹の上にごちゃ/\と集ってかしこまっているうしろに、やっぱり顔を伏せて頭を下げている五分|月代《さかやき》の男がいる。引廻しを着て、その裾から長い刀の鐺がにゅッと突出ていた。
小吉は思わず、ぎくッとして顎を引いた時に、彦四郎はまた鋭い声で
「間庭ッ。貴様ら、何処へ目をつけて歩いている」
「はッ」
「仮りにも天領の代官の者が、街道を間抜け面で歩いていてどうなるのだ」
「はッ」
間庭が二度目にぺこりとお辞儀をした時には小吉はもう馬子達の鼻っ先き迄飛込んで行っていた。脇へさしていた十手をぬいて、これを一文字に突きつけて進む。
「あッ!」
引廻し合羽の男は仰天して飛上ると、そのまゝ横道をどん/\逃げ出した。早い足だ。浅間山を真っ正面に見て逃げている。
田舎道で、小吉の足には馴れないから、やゝともすると遅れ勝ちになる。熊笹が多く、蔦かずらが細い道を突切って地を逼っている。白樺だの、櫟だの、楢だの、そんな木が山道の両側に立並んで、狭くなり、広くなり、くね/\と果ては浅間の麓へ突当るようだ。
小吉は十町余りも追った。間庭だの、外の手代や下役は、いつの間にかずっとおくれた。
人の気配に驚いて、林の中の鳥があちこちから、羽音荒く飛立って行く。
林が跡切《とぎ》れて、低い枝木や枯草ばかりの一寸した広場になった。そこ迄は無言で追い、無言で追われた。
いきなり、男が、敏捷な動きで振返り、さしている長い一本刀を反りかえし、足をふまえ、柄《つか》へ手をかけて
「お役人様」
と、ぎろりと大きな眼で小吉を見た。寄ったら抜く気だ。はァ/\と二度呼吸をしてから
「どうぞお見のがし下されませ」
と皺枯れた太い声でいった。刀の柄に手をかけて半分は脅かしの調子だが、しかし心からそういってもいる。
四辺には誰もいない。小吉は十手を突出したまゝ。二人の間はものの二間位だ。
男は右を柄へかけたまゝ左をふところへ入れて、どっしりと金の入った革財布を引きずり出して、ぱっと小吉へ投げてよこした。
「お見逃がし下されませ」
「馬鹿!!」
小吉は物を裂くような大声で怒鳴りつけた。
「何んでうぬらを見逃がすものだ。上田の音吉、神妙にしろえ」
「どうぞお見逃がし下されませ」
「子分が二百もあるというに、飛んだ未練の勝った男だ」
小吉が、財布などには眼もくれず、すッと擦足に少し寄った。音吉はぱっと二、三尺も引下って、腰をひねると、さっと刀を抜き放った。
小吉はにやっとした。
「うぬが刀は二尺九寸五分、池田鬼神丸国重と代官所へ届があった。如何にもいゝ刀のようだな」
またくくッと笑って今度は出しぬけにその刀に吸いつけられでもするように風みたいに寄って行った。
音吉は、あわてていきなり斬りつけて来た。
しかし小吉がその刀をどうかわしたのか、音吉の真額《まびたい》を真っ正面から十手でぐゎーんと一撃した。物凄い音であった。
音吉は棒立ちになって、頭をがくりと反らせ乍ら、たゝッと二、三歩退ったが、今度は突出した刀の上へ自分のからだを掩いかぶせるような恰好になってひょろ/\と前|倒《のめ》り出て来た。
小吉の十手は再び顎を下から斜めにすり上げるように力任せに打った。これもひどい大きな音がした。そしてさっきと同じようにのけ反った隙に、十手は今度は刀を持った手首をへし折る程に強く打ち、音吉が、ぽろりと刀を落した時には、その利腕を背に担いで一間も先きの熊笹の上へ嫌やという程に投げつけて終っていた。
音吉は腹ン逼いになって
「お役人様、お見のがし下されませ」
と虫の息でやっといった。
やっとの事で手代も小者も息をはァ/\いい乍ら追いついた。彦四郎も馬を入れた。駕かきだの、馬子だの、道中の人だの、わい/\いって集って来たなかに、宿役人も交っていて遠くから、恐る/\そこに倒れた男を見ている。
「勝様、こ奴、破牢して今日は追分宿の女郎屋へ押入って脅し、一両とっての戻りだったそうです」
と間庭は音吉を見下ろし乍らいった。
「子分が二百あるの親分だなどといっても屁を見たような下《くだ》らぬ男だ。領地の大名へ渡すと首は無いが、それ程の奴でもなし、間庭さん、助けてやろう」
小吉がそんな事を小さな声でいっている間も、音吉は二度もぶつ/\と呟くように
「お見逃がし下されませ」
といった。
「中之条の御陣屋へ引渡すようにせよ」
と彦四郎も間庭へいいつけて
「その刀は小吉、お前に褒美にやるぞ」
「は、有難う存じます」
小吉は、すぐに音吉の刀を拾って鞘へ納めた。
「間庭、その落ちている革財布、そ奴のであろう。村役人に渡し、命の助かる冥加金に使うよう取計らえ」
「はい」
前|倒《のめ》った儘の音吉を、村役人に置き放して彦四郎の一行は間もなく、街道へ引返して江戸へ向った。
「小吉」
また馬上から彦四郎が呼んだ。
「ばくち打ちの一人や二人、斬ったとて助けたとていゝ事だ。が、このわしさえ気がつくに、若いお前が手配のあったばかりのあ奴の前をうっかり通るようでは仕方がない。そんな油断では御番入をしても失敗《しくじ》るに定っている。そんな事でどうするかッ」
「はい」
小吉はさっきの刀を小者に持たせている。
「油断のいましめに、毎日あの刀を差料にしろ」
江戸へ着いたら、永代橋から富士が見えて、何にもかも信濃とは物の匂いが違っている。やがて師走も来ようというに、下町にはまだ夏すだれを取り忘れたところもあり、何処の家も新しく障子を張替えていた。
先走りをした小者の知らせで、お信と男谷の用人利平治が、女中共々永代の東詰に小吉を待っていた。黄昏れで、流石に冬らしい夕靄が地をはっていた。彦四郎は郡代屋敷へ立ちよってそれから一先ず麻布の自邸へ引きとったので、小吉は一人であった。