虫売は荷を下ろしてつか/\と小吉へ寄った。
「殿様がみんな買ってやるとおっしゃってお出でなさいます。あなた、小《こ》商人《あきんど》を苛めなさる事はないでござんしょう、どうかお買いなすって下せえまし」
小吉を若いと見て、からみ出したのが、すぐにぴーんと来た。
「いらないよ」
「だが殿様が買って下さるとおっしゃるに、あなた、それを邪魔なさる事はねえでござんしょう」
「いらない」
虫売は暫く暗い中で、一人で息張って小吉を睨んでいたが、平蔵はまた
「買ってやれ、買ってやれ——油堀の屋敷へ放してみんなで観よう」
そういった。
「いや、詰まりません。こんな室作《むろづく》りの蛍などすぐに死んで終います」
「風流気のない奴だな。稀《たま》に来ても一匹か二匹だ。こんな沢山、あちこちを、ふわ/\と飛び廻ったら綺麗であろう。ついでに鈴虫も松虫も買って庭へ放せ」
「詰まりません」
虫売が、ぐいッと顔を小吉の方へくっつけるように突出した。
「こうおっしゃるんです、買っておくんなせえな」
「いらぬ」
虫売は、じいーっと小吉を睨んで不貞腐れに
「ふーん」
といってから、少し間を置いて
「吝《けち》ン坊奴、止しゃあがれ」
と小さな声で吐きつけた。
途端に小吉の手は、その虫売の手首をむずとつかんで
「も一度いって見よ」
「へ」
「葛西《かさい》辺りの肥溜め臭せえ百姓が、武家に向って何事だ。それ程だから、うぬは、町場《まちば》の女子供にはどんな脅しをしてるか知れない」
そういって
「父上、少々——」
とそれ迄抱えていた平蔵をはなすと、その虫売屋をずる/\と暗い方へ引っ張って行った。
「これ止せ、そんな奴を」
平蔵がそういった時には、出しぬけにどぶーんと物凄い水音がして、虫売はもう竪川へ投込まれて終っていた。ちら/\両岸の家の灯が川へ映って四辺はしーんと静かだが、一旦水底へ沈んだ男が顔を浮かせて
「覚えていやがれ。おれを唯の虫売だと思ってやがるか」
と怒鳴ったのが大きく四辺へ響いた。
「馬鹿奴」
小吉はから/\笑って、元の場所へ戻ると、おや? 父の姿が見えない。
「父上、父上」
ほんの僅かな間に酔ったあの足で何処まで行く筈もない。小吉はあっちへ駈け、こっちへ戻り探したが見当らない。
ふと気がつくと本多寛司という旗本屋敷の塀外に、普請中と見えて沢山材木が積んである。その真っ暗な蔭の往来に、何にやら人らしいものがうつ伏せになっているようだ。
飛んで行った。正に平蔵だ。うつ伏せに手足をぐんと延ばしてまるで死んでいるようである。
「父上、父上——あッ、こ、こ、これは」
抱いて塀角の辻行灯の傍まで来てしげ/\顔を見たが眼を閉じて大きく胸を張って呼吸だけをしている。流石の小吉も狼狽した。中風でも発したようだ。小吉の実母がやっぱりこの病気で死んだ。その時の様子を幼な心におぼろに覚えている。
「父上、父上」
駄目とは思ったが二度目に呼んだ時である。
「いかゞなせえやした」
思いもかけず覗くようにして小さく声をかけた男があった。小吉は振仰いで
「急病。御面倒ながら、その辺りで駕を求めていたゞきたいが」
男はしげ/\見て
「何あんだ小吉さんじゃあねえか」
「え?」
「仕立屋の弁治ですよ」
「あゝ、そうか。頼む、駕を」
弁治が駈け出した鼻っ先きへ、さっき川へ投げ込まれた虫売屋がずぶぬれで逼い上って来たのとぶツかった。
「弁治の兄貴じゃあねえか」
巾着切の弁治がすかして見て
「五助か。何んてえ態《ざま》だ」
「そこで侍に投げ込まれよ」
「あすこに虫売の荷が投げ出してあるから、ひょッとしたら手前のじゃあねえかと思ったんだ。侍と云うからにゃあ——。馬鹿野郎、あれあ勝小吉というおれが兄貴分、団野道場の免許皆伝、てめえが得手の|からみ《ヽヽヽ》どころか、指一本させる対手じゃあねえや」
「あっ、いつも兄貴がおのが事のように自慢をする小吉さんか。こ奴あ、飛んだ大《おゝ》失敗《しくじり》だ」
「おとッさんが急病で往来でぶッ倒れた。駕を探すんだ、てめえも探せ」
「へえ、へえ」
やがて駕へのせられたが平蔵、その時まだ正気づかない。
きッ/\と駕のきしる音が夜の往来へさゝやくように響く。小吉は黙ってついて行く。少しうしろにはなれて、弁治と五助。
「てめえ荷物あいゝのか」
「大丈夫だ。五助と名札がはってある、誰が手をつけるもんか」
「はっ/\。名前があれあもうそれだけでみんな慄え上って終うからな。夏になれあ虫、春秋は|しんこ《ヽヽヽ》細工でおじさんとうまく女子供に人気をつけるが、一皮剥けあ強請《ゆすり》かたり逼出し嫌やがらせ。こないだも百本杭のお妾ンところで大そう仕事をしたてえじゃあねえか」
「あれ、あれをもう聞いたのか。あ奴あまことに飛んだ噂よ。まんまとはずれた大《おゝ》失敗《しくじり》。色男とにらんだ奴が実の兄貴で、ゆすりの最中に旦那が現われ、危なく」
とぴしゃッと首根ッこを叩いて
「こ奴が飛ぶところだった」
「全くだ、あのお妾は深川育ちの生ッ粋で、意気で鉄火でその上に素人にもねえ堅え女だよ」
といって弁治はすッと顎を前へ行く小吉へしゃくって
「実あまだ娘で長唄に通っていた頃にはあの人も知っているのさ。てめえ下手な事をすると、そのお妾の旦那より、小吉さんにひでえ目を見るぜ」
「いや、知らぬ先きならともかく、小吉さんと知ったからには、もう、おれも懲々《こりごり》だ。竪川位ならまだいゝが今度大川へでも投込まれたらおれあ泳ぎを知らねえからもうそれでお陀仏だあな」
「あのお妾を強請《ゆす》るとは、てめえはやっぱり柳島の田舎ッぺえだよ」
「何んといわれても口は開けねえが——御病人は大丈夫だろうか」
「そうあってくれれあいゝが」
が、幸せに途中で平蔵は微かに正気がついたようである。舌がひどくもつれているが、やっと小吉へ口をきいた。小吉はほっとした。
幸いに軽い中風であった。このまゝで三カ月も休んでいたら、元通りと迄は行かなくとも、先ず安心でございましょうと医者がいう。
たった一日間をおいただけで次の夜は、やっとこさだがもうだいぶ口をきけるようになった。
縁側の障子を開けさせて、端近く床を敷かせて、其処に臥ている平蔵がやっと聞きとれる程の声で
「小吉、彦四郎を呼ぶなといったが、明日は来るように使をやれ、思いついた事がある」
といった。
枕辺には、小吉とお信といつも何にかの世話を焼く小女が二人坐っていた。
「あれはいつも口うるさくいうので、おれはおのれが子ながら、嫌いだが、やっぱり番入の事はあれが一番壺を心得ているからな」
「は」
「おれはな、どうしてもお前の番入をする姿を見てから死にたい。小吉、おれが余命はもういくばくもないぞ」
といって、ふと
「おゝ、蛍があんなに沢山——ほうら見よ、あんなにふわ/\飛んでいる」
小吉もお信も眼を見張った。本当だ。真暗な空や、潮入池の面《おもて》をかすめて、高く或は低く小さな美しい光が瞬くように飛んでいる。
「おや、虫も鳴いているな」
と平蔵。とてもわかり難い言葉。
「鈴虫、あれは松虫」
とお信は縁側へ出て
「不思議でございますねえ」
と小吉をふり返った。小吉はにこりとした。
「父上が虫売の荷を皆買ってやれとおっしゃった。そしてそのまゝお倒れなされたが日頃御信心をなさるお蔭だ」
平蔵も笑みを浮べた。
「おれが癒えて今度投網に行ったら、魚がみんな寄って来てくれるだろう」
この時、広い庭の塀の外でこそ/\話しているのはいう迄もなく弁治と強請の五助。
「蛍はいゝが、虫は余り投げ込むなよ。御病人がやかましい」
「そうかなあ」
「あゝあ、喜んでいらっしゃるだろうな、おとっさんも——。小吉さんもよ」
「おれも滅法いゝ気持だ。すうーっとしてらあ」
「さ、けえろう」
「あいよ」
二人はそのまゝ夜の中へ消えて行った。
次の日、彦四郎が来た。
「父上は万に一つの命をお拾いなされたようなものだ。こら小吉、中風は二度目が危ないのだぞ。わしは始終お側にはいられぬ。お前、呉々も気をつけよ」
小吉は丁寧に頭を下げた。
「いやあ、この病気はいつも不意に来る。お前達がどう気をつけても来る時は来るものだ。な、彦四郎、お前が、どうしても小吉を御番入させようとなら、もっとしつこく働く事だ。小吉も今はその気になっておるでな」
平蔵がこういう間に、彦四郎は
「は? は?」
と何度も/\きき返した。
「承知いたしました」
「実はわしはどうでもいゝが、勝のお祖母様も近頃はとんと弱られた。あの方が御元気の間に勝家を潰しに来たというその小吉の御番入の姿を見せなくては、お祖母様も気の毒なり、お信も可哀そうだからな」
平蔵は時々息を切らしながらいった。
「心得ました。それにしても父上、金子を三百両程拝借いたしたいが」
「いゝとも。わしが死ねば男谷の財は悉くお前のものだ」
「わたしが使うのではありません。仰せの通り小吉の御番入にもう一つ押して行くのです。代官手付の見込がほゞ立って居りますから」
「そうか。しかし代官手付では任地に在る仕事も多く、わしの死目には逢えんかも知れんなあ」
「はあ」
彦四郎は、そんな勝手な事をいっては困ると、唇まで出るのを堪《こら》えて
「成るべくは江戸役所詰にしていたゞくつもり」
といった。
小吉は近頃は、人間というは不思議なものだと沁々思う。表《うわ》べはがみ/\とやかましくいうはともかく本心は、御番入などは本人が望まぬならどうでもいゝだろうというように自分には感じられていた父が、一度病気で倒れてからは、廻らぬ口でそれを繰返し/\、くどくいって本気で一生懸命それを望むようになった事があり/\とわかるからである。それは寧ろ彦四郎より強いというべきかも知れない。
そうした気持、あの時倒れたのも、自分のために、あゝして毎夜酒をのまれた為めだと思うと、小吉の気持は堪らない。
近頃はよく雨が降る。降りみ降らずみの糠雨だが、薄昏い中に屋敷を出るが、流石に小吉も何にかしら少々あせり気味になって来ている。団野先生の道場へ寄って夜自分の家へ戻ると、お祖母様はまるでその言葉より外には知らない人ででもあるように
「逢対はまだかや」
と皺枯れた声できく。小吉はなれて、何んともなくなったが、お信が痛々しく肩をすぼめる方が却って気になった。
暑い盛りになるが七月早々には、亀沢町が出来るので、男谷家はそっちへ引越すが、その前に何んとか御番入の目鼻をつけたいと、彦四郎は思っているようだ。
小吉が大溝家からの帰り道。永代の橋際でぱったりと弁治に出逢った。じり/\と焼きつける暑い日で、弁治は豆絞りの手拭を水にしめして頭へのせ、藍微塵の単衣に突っかけ草履。
「あれッきりお目にかゝりやせんですが、お父上様の御病気はいかゞですか」
と丁寧に口をきいた。
「お軽いには軽いが——弁治、あの砌《みぎり》は有難う。父上が大層よろこばれてな。あの虫売屋にも礼をいう事が出来ずにいるが、お前から宜しく云っておいてくれ。必ず恩は返すつもりだ」
「あ奴は柳島の五助という強請屋でしてね。でも根はいゝ奴でさあ。だから失敗《どじ》ばかり踏んで近頃ではまるで乞食見たようになっている」
「そうか。それあ気の毒だ——といって、おれもあいにく金は無し」
「何あに、|しけ《ヽヽ》てはいやすが何んとかかんとか活計《くらし》をたてている。そこらがこちとら貧乏人の仕合せなところですよ」
途端に、小吉がひどく狼狽の色を見せた。毎朝御機嫌伺いに行っている組頭の大久保上野介が家来と仲間をつれて橋をこっちへ渡って来られるのだ。確かにこっちを見て終った。弁治の風態が風態。仲間などは予てこ奴が巾着切と知っているかも知れない。