三日程経って夕刻に、彦四郎がやって来て玄関先で顔を見るとすぐ
「利平治、すぐ小吉を呼んで来い」
と老用人へ怒鳴りつけるように命じた。平蔵が中風になってからは、屋敷のものがどんな事でもこそ/\話合うようにしていたので、この刺立《とげだ》った彦四郎の大きな声には、みんな動悸ッとして終った。
利平治は少しあわてて
「小吉様はまだ団野先生からお帰りではございませぬ」
といった。
そして不機嫌に首をふる彦四郎へ重ねて
「近頃はいっそ剣術御執心でございますから」
といって
「おとといも|内々《うち/\》乍ら道場二百余の紅白の試合《てあわせ》に小吉様が総|行司《しんぱん》をなされ、それがまた殊の外の御見事といやもう門人衆の大そうな評判でござりました」
と内心にや/\しているようであった。
「馬鹿奴」
彦四郎は吐きつけるように呟いて
「剣術など、どれ程出来たとて何んの足しになる」
そういって、そのまゝ奥へ入りかけたが、ふと引返して来て
「利平治、小吉にはな」
と流石に少し声を落した。
「巾着切など致す知人があるか」
「え?」
利平治は、すぐ烈しく手をふって
「と、と、飛んでもござりませぬ。そのような者など——」
「いや、お前は駄目だ、小吉の事といえば何んでも庇う奴だ。いゝから小吉が戻ったらすぐに、父上の御居間へよこせ」
「はい」
「お信はいるな」
「はい、御新さんは、それあもういつも」
「あれを呼びつけて」
とこれは口の中でぶつ/\いったが、そのまゝ足音荒く奥へ入って行った。
利平治はそっと廊下を隣り座敷の隅のところ迄抜き足に寄って聴耳を立てた。彦四郎は平蔵の枕元へ坐って、喰ってかゝるような口調である。
「父上が目の中へ入れても痛くない程に余りにも甘やかしてお育てなされたから斯ういう事になるのです。御番入をしてこれから天晴れ一かどの御役にも立とうというものが、往来で、しかも白昼、巾着切などという悪者と立話をしている。そんな無法がございますか」
「お前は何にかにつけて一途にそう云うがな」
平蔵はもつれる舌をもどかしそうに、ごくりと唾をのんだ。
「あれは深川《ところ》の気質が身に染みて、子供の頃から、誰彼なしに喧嘩もやり、そうかと思うとまた一つの物を半分ずつ食べるように仲よくもして来た人間だ。対手が武士であろうと町人であろうと、金持ちであろうと貧乏人であろうと、また善人であろうと悪徒であろうと、人に対して差別をつけない。あの時分の隣町《となりまち》の者、前町《まえまち》のものの喧嘩対手の中には今日となっては巾着切も出来たろう。また悪徒もいるだろう。が小吉はそれを巾着切と知っていての事か、知らずに、ただ幼な友達というだけで立話をしていたのか、きいて見なくてはわからんが、あれの事だ、知っていても恐らく平気で話をしてただろう」
「驚き入った。父上はそれで宜しいとお思いなのですか」
「いゝとか悪いとか云うのではないよ、あれの気質だと云っているのだよ。彦四郎、あれは変っている、それに年も若い、余りうるさく云わぬがいゝのではあるまいかの。人はその顔が違うように各々違ったものを持って生れて来ている。誰も彼も同じ枠へはめる事はむずかしい」
「よろしいッ。父上がそういうお考えなら、わたしは小吉の将来がどうなろうと、もう存じません。御番入の奔走もやめました」
「はっはっはっ。その一徹がまたお前の持っている外のものにない気質だ。小吉の気質と御番入の事とは自ら話が違うではないか。わしの頼みだ、お前はもう立派な儒者でもあり、御代官でもある、将来を立派にやって行ける人物だ。だからな、今、わしの持っている財は悉く小吉の御番入に遣《つか》い捨てていゝのだ。金品に糸目なく奔走をして貰いたいのさ」
彦四郎は平蔵の眼がうるんで今にも涙のこぼれそうなのに気がついた。
「しかし父上、申した通り小吉が両国界隈に誰知らぬ者もない巾着切と話していたのを大久保殿の供の者が見知っていて主人へ告げた。大久保殿から呼寄せられてそれを申渡された。小吉というは全く困ったもの。御番入の奔走もまたこゝで振出しへ戻りましたわ」
「仕方がない、お前にはすまぬがもう一度、賽をふり出して貰うことだ」
こんなところへひょっこり小吉が戻ってでも来たら、またどんな風に話がもつれるかも知れない。利平治はそっと屋敷を出ると、小吉の団野先生から戻って来る途中で待っている事にした。何処の通りを通って、何処の辻行灯のところからどっちへ曲って来るということ迄かねてちゃんと知っている。
さっき迄一雨来そうな空模様でもあったが、だん/\星の色が青々と涼しく光って来ているから先ず雨は大丈夫だろう。
だが小吉も、詰らぬところを悪い対手に見つかったものである。その尻をわざ/\彦四郎のところへ持って行くなんて、大久保上野介という人物も知れたものだが、それもこれもこの世の人と人との巡り合せで仕方がない。
利平治ははじめは丸太橋まで行って、暫く待っていたが、だん/\仙台堀まで足を延ばし、ここで小半刻も待ったが、やっぱり小吉の姿が見えない。とう/\小名木川の高橋を渡って森下の通りを、二ツ目通りから弥勒《みろく》寺橋まで来た途端に、こっちへ向って駈けて来るのは確かに小吉。
橋の袂へよけて、一旦、やり過してから、小吉に違いなかったら、言葉をかけようと思っていたら、その姿は橋へかゝるところで、ぴたっと停るとそこへ俄かにしゃがんで終った。
真っ暗だが、どうも小吉だ。利平治も橋の欄干に沿って逼うような恰好でだん/\それに近寄って
「何にをしてるんだろう」
胸さわぎがして来た。巾着切との立話がうるさくなっている時に、この振舞はこれあ唯事ではない。そろ/\そろ/\すり足で近づいて行った。
「利平治」
と真逆気がついてはいまいと思ったのに出し抜けに低いが奥強い小吉の声がかゝった。
「え?」
「おれのする通りをしてろ。今、面白いものが見れる」
「こ、こ、小吉様」
「じッとしてろ。今、弥勒寺の門内へ人が入る。そしたら後をついて行くんだ」
「は?」
「滅多には見れねえものが見れる」
それっきり黙った。が、如何にも忽ちどや/\と大勢人の走る足音がして、弥勒寺の門内へ潜戸《くゞりど》を押破るように入って行った。一人二人——七人数えて、ぎいーぱたんと扉がぶッつけるように閉められた。
「利平治、お前、飛ばッちりを喰っちゃあ大変だが、見るか」
「は、な、な、何んですか一体?」
「斬合だ」
弥勒寺は真言新義派の触頭《ふれがしら》、寺領百石、深々とした濃い森で、空も地も真っ暗である。
「何者でございますか」
利平治は小吉の側へ寄って来てぴったり顔をくッつけるようにしてきいた。年はとっても流石に武家の奉公人。慄えてはいなかった。
「来るなら黙って来い。おれがように剣術をやるものは是非見て置かなくてはならぬ勝負だ」
小吉は近づいて、そッと潜門《くゞり》を押した。さっきよりも小さな音がぎいーっとして扉は思ったより軽く開いた。利平治もついて入った。
本堂の前広場。その辺りの暗さも馴れるにつれて、そこにいる七人の侍の姿が意外にはっきり見えて来た。
白い絣に袴、刀の下緒で襷をしている侍は見るからに筋肉の盛上った大たぶさの上背のある若若しい侍。一人は同じ年頃らしいがこれは痩せてどうやら月代の延びているのがわかる。その周囲に五人、すでに刀をぬいて肥った侍に向っていた。
小吉と利平治は夜になると人のいない門内の香華《こうげ》売の小屋へうまくひそんだ。利平治は息をころして、敵を受けている白い着物の侍を見詰めていたが
「こ、こ、小吉様、あ、あ、あのお方は団野先生がところへお見えなさる酒井良佑先生ではござりませぬか」
「そうだ。対手は割下水の近藤弥之助先生がところの食客渡辺兵庫、他は近藤道場の門弟共だ」
「ど、どうしてまたこんな事に」
「酒井先生が、売られた喧嘩を買った迄の事だ。勝負はすぐにつく——声を出すな」
「はい」
酒井も渡辺も同じような下段の構えであった。すうーっと青白い刃が闇の中に見えてそれがまるで描いたようにいつ迄も/\動かない。この二人ばかりではない、門人達も一体呼吸をしているのかいないのか。唯じッとしているだけである。或はこのまゝ石像になって終うか、地の底へでもめり込んで終うか。
利平治は背筋に脂汗がにじんで出て、がく/\がく/\慄え出して来た。
「こ、こ、小吉様」
「しッ。恐ろしかったら土へ伏せろ」
囁いた途端に、何にかじゃりッと不気味な音がして、同時に、よくもまあこんな大きな音がするものだと思う位の地響きをして、どーんと何にか倒れたようだった。
「あッ」
「あッ」
「あッ」
同じような別人の悲鳴が三度。
白い姿が、すうーっとさっき入って来た潜門の方へ歩いて行く。ぶらりと刃を下げ、ふところ紙をつかみ出し乍ら——。
利平治はかち/\かち/\歯を鳴らした。
「ど、ど、どう致しましょう、小吉様」
残った六人の人影は一度ごちゃ/\に固まったが、小吉はふるえる利平治を抱くようにしてじっとしているだけであった。
渡辺は正に斬られたが、何処をどう斬られたのかこの時はわからない。唯重い沈黙。人達は間もなくもつれ合って寺を出て行った。
「どうなりましたでござりましょう」
「抱合い、助け合って、足許もしどろだがあゝしてみんな立って戻った。命に別条はないだろう。渡辺は腕をやられたようだ。ひょっとしたら手首を打落されたか」
「手首?」
「売った喧嘩だ。それ位ですめば安いものだ。おれはな、あの男を前に一度見た。もっと使えるかと思ってたが案外だった。心が素直でない、団野先生がいつもおれ達へ教えられるところだ。ずいぶん剣術には目が利いているんだが自分だけの物の見方、考え方、それだけの事だったようだ。理に走って実に疎い。おれにも、今、その事がわかった。利平治、人間はあれでは駄目だ」
小吉は利平治へいっているようだが、本当は自分自身へいっている。
それからわざと時刻をとって、ずいぶん遅くなってから油堀へ帰って行った。案の定彦四郎はもう麻布の屋敷へかえっていなかった。
小吉は父から巾着切弁治のことを訊かれたが
「わたしが巾着切をやっているのではないのですよ。御心配は御無用です。父上もあの松坂町の仕立屋の小せがれの弁治は御存じでしょう」
と笑った。
「はっ/\。あ奴利かぬ気でな、知ってるとも——そうだな、お前が巾着切をやっている訳ではないんだ」
平蔵はそういって、から/\と笑った。見ていると、唇からたら/\と余唾《よだれ》が着物の胸へ落ちた。
利平治にもしっかりと口留めして、弥勒寺一件は知らぬ顔で、次の朝からまた堀留とお竹蔵裏へ日勤をしていたが、五、六日した夜、団野先生の道場で、見て来たような噂ばなしに花が咲いてるところへ小吉がやって行った。
「勝様、渡辺兵庫という男が酒井先生に左腕を斬落されたという事を御承知ですか」
と肥った年配の門人がそういった。剣術はいっこう下手だがいつも早耳でそれをまことしやかに話すので愛嬌があった。
「知らないよ」
「竪川の二ツ目橋の上だそうですがな」
「そうか。何んで斬られたのだ」
「渡辺という奴、門人十人程を連れましてな、酒井先生と何処か本所の往来ですれ違った。その時にふゝンと鼻で笑いましてな」
「ふーむ」
「あ奴、秋山要介先生に勝ったつもりで鼻高々に大手をふって歩いていやがる、大笑いだとまた酒井先生にも聞こえよがしに門人達に声高にしゃべった」